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2010/11/20

テツドク!〜フーコー『性の歴史1 知への意志』


こんばんは。テツドク!担当のくわばらです。

前回の前置きから2週間以上過ぎました。すみません。

11月4日のテツドク「ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』の報告です。

参加者は定員15名ちょうどでした。当日も申し上げたのですが、フーコーという思想家に、定員に達するほどの参加があるとは思ってもみませんでした。おどろきです。

紹介者は松川絵里さん。中之島哲学コレージュでマイクをまわしたりとか、裏方にまわっていたりするわけですが、今回は表舞台にご登場いただきました。

冒頭、「フーコーにビオグラフィーという仕方の紹介は似つかわしくないないのですが・・・」といった言葉ではじまります。

年表をつけてほしいと頼んだのは、他ならぬ企画者の私なのですが、ああ、なるほどなあと思いました。つまり年表というのは、いかにも人間くさい。時系列順の年譜をつらぬいている、それらをまとめあげるものとして形成される主体や人間のありよう、あるいはその力を注意深く分析した人がフーコーその人でした。



私たちは、歴史を、「歴史上の登場人物の歴史」として理解する仕方にたいへん親しみを覚えています。それは人物=人間の成長と達成の物語の中で歴史上の出来事を理解していくことです。たとえば私は大河ドラマをよくみるのですが、江戸末期の動乱の時代を坂本龍馬を通して知る。年表上のさまざまな出来事を坂本龍馬の登場と形成を軸に配していく。そうすることで、歴史や、年表上に配置された出来事を「人間ドラマ」という時代物として楽しむことができる。

ビオグラフィー上の出来事を坂本龍馬へと糾合していく力=権力の諸関係への注視。ではフーコーを、フーコーらしく知る仕方とは何なのか。冒頭の言葉は、そのことに注意をうながす〈ちょっと待ったコール〉だったのかなと思います。

・・・と、まだ紹介者の第一声を紹介しただけなのに、けっこう書いてしまいました。

さて、今回取り上げられたのは『性の歴史1 知への意志』ですが、タイトルだけみるならば、古今東西の性の歴史や性技を調べあげた本のようにみえるのですが、どうやらそういう本ではないようです。フーコーの言葉をひろってみます。

「性現象に関するこの一連の研究において、私の目的は、性的行動様式の歴史を再構成することではなかった。私は、相次いで姿を現す性的行動の諸形態やそのさまざまなモデルについて研究しようとしたのでもなければ、・・・性現象に関する宗教的、道徳的、医学的、生物学的な諸観念を分析することでもなかった」)(「『性の歴史』への序文」、フーコーコレクション、ちくま文庫、280-281頁)


ではいったい何について書いている本なのかといったあたりが、話の中心となりました。

フーコーの同性愛に対する態度や扱いも気になる方が多いようですが、紹介者も参加者も慎重に言葉を選んで話していたような気がします。フーコーの関心は、おそらく、異性愛や同性愛をどう考えるか、ではなくて、異性愛や同性愛に対する態度や思想のありようが(広義の)真理の「試金石」になってしまうこと、そのこと自体にあると考えているからです。(今まで誰と何人と付き合ったとか、関係持ったとか、性の遍歴だとかが、ゴシップ記事やスキャンダルとして価値をもつのもまた、たぶんそういうことなんでしょうかね?)

答えがむずかしいのではなく、答え方がむずかしい、そんな紹介者泣かせのフーコーですが、この機会にぜひ本を手にとってもらえたらと思います。もちろん、他にも話された内容は多岐にわたるのですが、長すぎますのでこの辺で。

次回のテツドクは、源信『往生要集』。「地獄」と「極楽」の登場です。ごきげんよろしく。