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2016/06/23

【報告】震災を考える哲学カフェplus

おはようございます、まつかわです。

先週日曜、6月19日は久しぶりに岡山大学のまちなかキャンパス「城下ステーション」にて哲学カフェでした。
テーマは「震災」。
他の「震災を考える哲学カフェ」がテーマを絞りこむなか、あえてざっくりしたテーマ設定させてもらいました。
できるだけ、いろんな声がききたかったので。

今回は、カフェマスター岩渕さんのご提案で、岡山大学の前田芳男さんに話題提供をお願いしました。
都市工学がご専門なので、当日まで専門家として熊本の支援に行ってらっしゃるのかと思っていたのですが、今回の地震で熊本のご自宅が被災されたとのこと。
ご自宅やその周辺の写真を見せながら、「専門家としてこんなふうに考えていたけれど、実際に当事者になるとこうだった!」と二つの立場のギャップを織り交ぜながら体験をお話しくださいました。

他にも、様々な方が参加されました。
今回の震災で親戚が被災されもどかしい思いをしている方、東日本大震災でチャリティー活動に関わった方、地震の多い地域で生まれ育ち常に危機感を感じてきた方、震災を遠い場所や遠い未来の出来事と感じている方、震災を機にTVや新聞をやめたという方 ‥‥。
「震災を直接体験したことはないけれど、震災の影響で授業が震災一色になり、大学で受けたい授業が受けられなかった。このうえ、やっと出られた哲学カフェのテーマまで『震災』だなんて!」と嘆く方もいました。
「岡山は大丈夫」という方が多い土地で、これだけ「震災」との距離感が異なる人たちが集まり、それぞれが「自分にとっての震災」を率直に声に出せたことが、まず今回の成果のひとつかなと思います。

もうひとつの大きなポイントは、「人間と知の関係」とでもいえばよいのでしょうか。

まず第一に、前田さんの「『想定外』の被害が出るのは、私たちが都合のいい想定しかできないからだ」というご指摘。阪神・淡路大震災からずっと専門家として防災に携わってこられた前田さんの、専門家としての反省と当事者としての実感の込められたその言葉の重みを感じました。

「いつかくるかもしれないけれど、どこかで明日ではないだろうと思ってしまっている自分がいる」
「いざ災害が起こったら、自分はいつもより元気に動いてしまうんじゃないか」
「体験しないとわからないから、3日間水だけで生活してみた」
どれも「都合のいい想定」かもしれません。
震災が明日こないとは限らないし、災害時に置き水や井戸や湧水が使えるという保証もありません。
街がや熊本城のような「そこにあるのが当たり前」だったシンボルが崩壊したときの喪失感だって、とても想像できるものじゃない。
震災を体験してる前田さんだって「次にまた震災に遭っても、やっぱり『想定外』なことがあると思う」と言う。

でも、その一方で、阪神・淡路大震災、東日本大震災の教訓が、瓦礫撤去や支援物資の支給などに役立っていたりする。
3日間水だけで過ごした経験がない状態より、その経験があるほうがいくぶんタフになっている気もする。
震災をきっかけに引きこもりから脱した人がいたり、「日常に弱く、非日常に強い」人はは実際にいる。

私たちの想像力の限界と、経験や本能の可能性との両方を感じました。

いま書きながら思ったのですが、最初に触れた「距離感」も、もしかしたらこの「想像力」や「経験」と関係あるのかもしれません。
3つ目の大きな論点、障害者や持病をもつ人などマイノリティの防災や支援の問題も、何か関係しそうです。

当日、熊本地震への義援金を募りました。
「たいしたことはできないかもしれないけれど、できることで迷惑にならないことがあれば、やってみよう」と思っていたところに、カフェフィロのメンバーが提案してくれました。
集まった12,034円は、カフェフィロ、赤十字を通じて被災者へお送りします。



終了後、派生テーマとして「募金」や「備える」というテーマでもやってみたい!という声がありました。
一息ついてから改めて、みなさんと考える機会をつくれたらと思います。

次回開催は7月31日(日)14:00〜。
テーマは、「なぜ私たちは哲学するのか?」です。
詳細はこちらをどうぞ。
(近々、カフェフィロHPでも案内させていただきます。)

2016/02/29

からだの声

おはようございます、まつかわです。

2/27(土)の岡山大学の城下ステーションは少人数ながら、初めて哲学カフェに参加する方が3名来てくださいました。尾道で初対面だった方のお顔も♪

テーマは「からだの声」。
1月に私がインフルエンザやら薬の副作用やらで「最近、からだの声に抗えなくて‥‥」とぼやいていたら、一緒に哲学カフェをしている岡山大学の岩淵さんが「今度のテーマ、それでやろう」と言ってくださいました。
そういえば、岡山で哲学カフェをはじめてから3年以上がたちますが、「からだ」をテーマに扱うのは初めてです。
こんな論点がでました。


  1. からだの「声」という比喩について。なぜ「声」なのか?
  2. 理性、感情、からだの声、社会の声の関係は?
  3. なぜからだの声をきくのか?(ききたいのか?きいたほうがよいのか?)

このなかで、対話は2を中心に、ときおり3と行ったり来たりしながら進みました。
最初のうちは、理性、感情(=心の声?)、からだの声、社会の声(「上司の声」)の4つを区別して話していたのですが、理性と感情、感情とからだの声、社会の声と理性の関係を分析していくと、次第にそれらの区分が曖昧に‥‥。

たとえば、コーチングをやっている人のこんなお話。

 「心の声をきいて」と言ってもみんな頭で考えちゃってうまくいかないんだけど、「からだを感じてみよう」と声をかけると、心の声がきけるようになることがある。心の声に通じる道が開ける。

そしてもうひとつ、これは帰ってから気づいたのですが、個人的にとても大きな気づきがありました。
私はここ10年ぐらい子宮内膜症という病と付き合っているんですが、そのなかで「頭で考えたことは間違いがちだけど、 からだの声は(概ね)間違えないなぁ」と常々感じていました。
その理由を、私は単純に「体調が悪いときは思考力が落ちるから」と思っていました。
でも、どうもそれだけではなさそう。
私が「理性的な判断」と思っていたものには、私が思う以上に「他者の声」が含まれているのではないか。今回の哲学カフェで、そう感じました。
(哲学カフェのなかでは、象徴的に「上司の声」や「社会の声」と呼ばれていたものですが、「社会の」というと漠然としすぎるし、「上司の声」とは限らないので、ここでは「他者の声」と呼びます。)
特定の誰かに言われたことに限らず、「しんどいけど、明日までにここまで仕事を進めなきゃ」といった社会的な責任や、「約束を破っちゃいけない」という倫理観も含めて、すべてが本当に自分自身で考えたことだっただろうか?
一定期間が過ぎると治る病気なら、「理性の声」と「他者の声」とが入り混じっていても大きな問題はないかもしれない。理性には普遍性が求められるものだもの。
でも、治療法の確立されていない病を抱える人が、そうでない人を前提とした理性 ≒他者の声を鵜呑みにすることは、とても危険で、かえって迷惑なことじゃないだろうか?
そんなことを考えました。
かといって、もちろん、仕事が遅れたり、約束を破ったりしてもよいというわけでありまえせんが。
どうすべきかはよくわからないけれど、「理性の声」は「他者の声」の影響を多いに受けているというのは、とても大きな ヒントになりそうです。

哲学カフェは、話して、きいて、考える、そのプロセスそのものを楽しむもの。
結論を出したり合意形成をするための場ではありません。
それでも、自分自身の暮らしを思い起こしながら話し合っていると、暮らしの大きなヒントが見つかることがあるものですね。
私にとって、「理性の声」に紛れ込む「他者の声」は厄介なものですが、目の前にいる他者から発せられる声は、思考を刺激し前進させてくれる、とてもありがたいものです。


次回の城下ステーションの哲学カフェは、3月13日。
岸井大輔さんと「学歴」について考えます。

2015/08/16

哲学カフェ「みんなちがって、みんないい?」

こんにちは、まつかわです。
お待たせしました。
8月9日、岡山大学まちなかキャンパスの城下ステーションで開催した哲学カフェの報告です。

参加者は12名。それに、岡山大学の岩渕さんと私で14名。
岡山市、倉敷市など岡山県内からだけでなく、大阪、神戸、松江など様々な地域からきてくださった方もいらっしゃり、こちらの哲学カフェとしてはわりと人数が多めの回となりました。

松江からの参加者からいただいた、どじょう掬い饅頭

テーマは、「みんなちがって、みんないい?」。
神戸からの参加者が事前に提案してくださいました。
有名な金子みすずの詩「私と小鳥と鈴と」からとられた一節ですが、今回は哲学カフェなので、原典となった詩には最後にはまで(誤字ご指摘ありがとうございました!)触れず、シンプルにこの言葉をきいて思いつく経験や考えたことを語りました。

印象深かったポイントが3つ。

1)学校に関する例がたくさん出た
なかでも、学校の先生をされている方の「発達障害などでノートをとるのが難しい生徒さんに、黒板の板書をカメラで撮影することを許可するかどうかで教員の意見が分かれた」という話。
参加者のなかにアスペルガー障害をお持ちの方もいて、当事者の視点から「学校は、先生の自己満足の場所ではない。ノートをとりながら先生の話をきくのは難しいので、学びやすいやり方を許可してほしい」という意見も。
それぞれが学びやすいやり方をすんなりOKできない(人がいる)のはなぜか、という問題が浮き彫りになりました。

2)ルールやマナーの問題? 趣味や価値観のちがい? それとも???
他に、「隣の家に植わっている植物がどうしても気持ち悪いとしか思えず、迷惑に感じている」という例もでました。
「他者の権利や自由を侵害していなければ、よいのでは」という意見もあれば、「じゃあ、ゴミ屋敷の問題も価値観のちがいなのか?」というツッコミもあり、「様々な価値観をもつ人がいるなかで、ルールやマナーはどうやって成立しているのか?」という問いが浮かび上がりました。
そこから、マイノリティの問題にも触れられ、「みんなとちがうというだけで、『迷惑だ』と言う人がいるのはなぜか」という問題についても考えました。

3)「みんなちがって、みんないい」の違和感って?
さらに「この言葉のとおりであればいいと思う気持ちと同時に、これが教室の標語として貼ってあったら、違和感を抱くと思う」という率直な意見も。
これに対して、いくつかの意見(仮説)がでました。
「みんな、ちがう」と「みんなとちがう」の差異。
「みんなちがって、みんないい」と言いつつ、この信念を他者に押し付けているところ。
すでに多様性が認められている場所なら、こんな言葉は必要ないのではないか。
どこか他人事。
「みんなちがって、みんないい」は自分自身に語りかける言葉であって、他者に言う言葉ではないのではないか。
むしろ現実は「みんなちがって、しょうがない」ではないか。


こうして、いろんな論点や仮説、意見を行き来していて、私も気付かされたことが。
それは、「みんなとちがう」ことは決して悪いことではないけれど、そのことによって、本人の意図とは関わらず、相手がプラスアルファの配慮を要求されていると感じることはあるだろうなぁということです。(小中高生のころ、同級生よりTV番組や音楽に疎かったので、友達は共通の話題を見つけにくかっただろうなぁということを思い出し、そう思いました。)
そのプラスアルファの配慮は、余裕があればできることかもしれないけれど、余裕がないときは難しい。
「みんなとちがう」人を責めるのも、プラスアルファの配慮がない人を責めるのも、なんかちがう。
最初に例がでた学校の問題についても、生徒に犠牲を強いるのでも、先生を責めるのでもなく、学校システムが余裕のあるものになればいいのになと思いました。


というわけで、次回のテーマは「学校とは何か?」です。
9月13日(日)。
学校が好きな 人も、苦手な人も、ご都合があえばどうぞ気軽にご参加ください。

2015/07/14

劇作家・岸井大輔と「まちと公共性」を語り合う

こんにちは、まつかわです。
しばらく梅雨でジメジメしていた岡山ですが、今日は焼けるような日差しです。
みなさまの地域はいかがでしょう?

そんな「晴れの国」岡山。
一昨日7/12(日)の昼は劇作家 ・岸井大輔さんと「まちと公共性」について語り合い、同日夜は『無知な教師』を読み、今日7/14は高島公民館で哲学カフェと、大変充実した日々です。

まずは7/12昼の哲学カフェplus「まちと公共性」から振り返りましょう。

場所はおなじみ、岡山大学まちなかキャンパス、城下ステーション。
テーマの敷居が高かったのか、参加者は、ほぼお馴染みさんばかりの8〜9名。

最初に岸井さんより自己紹介(あらゆるものを「演劇」としてみるとはどういうことか)と、テーマに関連して「むら、いち、まち」のちがいと「公共性」の「公」と「 共」についてお話しいただきました。
「公共性」という言葉(概念)が歴史的に「舶来のもの」であることや、「公共=お上から与えられたもの」という印象があることから、自分の経験として語りにくいという声がでました。
しかし、「一部の専門家やお上にしか語れない『公共性』なんて、『公共性』としてダメでしょう」と力強く主張する岸井さん。たしかに。
そこで、「外から与えられた公共性」の問題について語り合うと同時に、私たちの内側から生まれた公共性を探すことに。
岸井さんが各地を旅するなかでみたやシェアハウスなど話をヒントに、みんなの道や、みんなの公園や広場、川、子どもにかける「それはみんなのだから、そんなことしちゃダメ」という言葉などがでてきます。
近所の木にできた果実というのも面白い答えでした。正確にいうとそのお家の人の所有物なんだけど、小さいころは「いいよね」と思っていただいていた、と。
そこから、その「本当は誰かのだけどみんなの」という感覚が以前より狭くなっているのではという指摘もありました。それは、時代の流れなのか、私たちが大人になってしまったからなのか‥ ‥

休憩を挟んでも、みんなの話はとまらず、休憩中の雑談からそのまま後半へ突入。

岡山市民会館の移転の 話題から、公共物のソフトとハードの問題へ。
「お金をかけて建物をつくったものの、建物の構造のせいで、そこでやりたかったことができない」という悲しい展開は、どうしたら避けられるのか?
ここで、「ソフトに合うハードをつくるのがまちづくり」という言葉とともに、前半の議論でもでていた「歴史」というキーワードが再浮上します。
「歴史というのは、その地域で暮らす多様な人々の共通の足場になりうるもの。その土地、その環境、そこの人々に合った公共性を紡ごうとしたら、歴史が大事」と岸井さん。
参加者がいままで住んだことのある具体的な地域名をあげながら、それぞれの土地の歴史とそこで紡ぎうる公共性とは何か、あまり歴史のない土地で紡ぎうる公共性があるとしたらどんなものか、考えます。

さらに、岸井さんの「公共サービスと公共財のちがい」に関する話から、私たちの暮らしを豊かにする公共財とは何か、どうすればそれを生み出し維持することができるか話し合ったと、終盤は「岡山について知りたい」という岸井さんのリクエストにお答えし、「岡山の『それぞれ』感はどこから?」という問題に迫りました。

岸井さんの「演劇としてみてみる」という独特の視点と、「ここからはフィクションですけど」という前置きとともに提示されるアイデアに刺激を受けながら、「与えられた公共性」だけでなく、私たちの内側から生まれる公共性についても考えられて、非常に充実した時間でした。
最後の最後に、岸井さんの底なしの好奇心を刺激するお土産もできて、ほっとしました。

まちづくりや地域政治がご専門のカフェマスター、岩渕泰さんも、劇作家である岸井さんの視点に刺激を受けたようで、終了後、さっそく次のテーマについて相談メールをくださいました。
今回残った問題、「アートと公共性」か「政治」について、また岸井さんが岡山に立ち寄れるときに話し合えればと思います。
乞うご期待。

次回の城下ステーションの哲学カフェは、8月9日(日)13:00-15:00。
テーマは「みんなちがって、みんないい?」です。
途中入退場も自由ですので、お近くの方は気軽にご参加ください。


2015/05/12

哲学カフェ「住みたいまち」

こんにちは、まつかわです。
先日、5月9日(土)は岡山大学のまちなかキャンパス、城下ステーションにて哲学カフェを開催しました。

テーマは「住みたいまち」。
参加者は、7名。
ほかに、途中「ごめんなさい!急用で参加できなくなっちゃっいました」と一瞬だけどわざわざ顔を出してくださった方、終了後に「仕事終わった〜」と来てくださった方も・・・岡山もええまちじゃが。

岡山、井原、倉敷、博多、東京、茨城、埼玉、大阪などなど、参加者がこれまで住んだ、あるいは訪れたことのあるまちの名前をあげながら、それぞれの「住みたいまち」について(意外と?)具体的に話し合いました。
住みたいまち/住みたくないまち、好きだから住みたいまち/好きだけど住みたくはないまち、便利なまち/愛着のわくまち、いま住みたいまち/老後を過ごしたいまち、一度でいいから住んでみたいまち/一生住みたいまち、ベッドタウン/職住近接・・・様々な切り口から「住みたいまち」を分析していくなかで、個人的におもしろいなと思った論点が2つありました。

ひとつは、「どこからどこまでを一つの『まち』と考える?」という点。
今回初めて参加してくださった方の「出雲には神様がいる!」という発言が大きなヒントになりました。
出雲の人は、本当に神様がいると信じているかどうかは別として、神様の存在を前提とした暮らしをしていて、日常会話のなかでも「●●の神様」という言葉がよく出てくるそうです。
他のまちでは「え?なにそれ?」「なんでイキナリそんな話題が出てくるんだろう?」と思われるのに、自然に人々の会話や生活にとけ込んでいるもの、他にもありますよね?
博多出身の方曰く、「博多では天神祭を中心に1年がまわっている」そうです。
大阪における阪神タイガースもそうかもしれません(阪神タイガースの成績ってそれによって周囲の機嫌が変わるので、野球好きでない人にも影響が・・・)。
それがそのまちの「まち感」を構成するのではないかという論が展開されました。

もうひとつ興味深かったのは、まちの持続可能性という観点です。
私は大阪市と京都市のあいだにあるベッドタウンで生まれ育ったのですが、最近帰省するたびに、「まちも年をとったなぁ」と感じるんです。
30年ほど前、働き盛りの人がたくさん引っ越してきて新興住宅地として発展したんですが、同じような年代の人が多いので、住む人が年を重ねるにつれて、まちに以前ほど活気がなくなってきてしまう。
たぶん、古いものと新しいもの、色んな年代のものが混在しているまちなら、そんなふうに一気に年をとることはありません。
人も建物もいろんな年代のものが混在しているから、一気に子どもが減るとか、地域一帯の建物が一気に老朽化してダメになるということはありません。少しずつアップデートされてゆく。
・・・という話をしていたら、「山もいろんな年齢の木があるのがよいと聞いたことがある」と指摘してくださった方がいまして。
私も林業に詳しい人からその話をきいたことはあったのですが、まちの問題と結びつけて考えたことがなく、今回改めて、「そうか、私が考えていた問題は、まちの持続可能性の問題だったのか」と気づかされました。

参加者のみなさんは、いかがだったでしょう?
心にのこった言葉はありましたか?


次回、城下ステーションの哲学カフェの開催予定は未定です。
決まり次第、メルマガやHPにてお知らせします。
メルマガ(無料)の登録がまだの方は、こちらからどうぞ。

2015/04/13

質問

こんにちは、まつかわです。

2014年度会員のみなさま、『哲学喫茶瓦版』3月号はお手元に届きましたか?
今号は、「哲学カフェmap」と称して、カフェフィロで定期開催している哲学カフェの情報を集めてみました。
NSDセミナー受講生の感想も掲載させていただいております。
もし「会員なのに届いてないよ」という方がいらっしゃったら、事務局(info@cafephilo.jp)までお知らせください。

カフェフィロニューズレター『哲学喫茶瓦版』2015年3月号



さて、先週の土曜日4月11日は、岡山大学のまちなかキャンパス、城下ステーションにて哲学カフェでした。

まずはお詫びを申さねばなりません。
スタッフ間の確認が足りず、開催時間が予定より30分遅れてしまいました。
お待たせしてしまった参加者のみなさん、本当に申し訳ありませんでした。
私も前日の確認を怠らなければ避けられたはずなので、今後このようなことがないよう気をつけます。

テーマは「質問」。
提案者は、いつもこちらの哲学カフェに参加している我が夫(他の参加者にもテーマを募っていますが、誰からも希望出ず、自分も思いつかなかったので)。
「質問って、質問の形をしているけど実は質問じゃないことがある。なぜだろう?」というのが彼の疑問です。
他の参加者のみなさんも、それぞれ、「私たちはなぜ質問ができるのか?」「対話を深める質問はどんな質問か?」、「上手い質問/下手な質問って?」、「質問は上達するものなのか?」といった疑問を抱いて参加してくださいました。

3月に質問に関するカフェフィロセミナーをさせていただいたばかりの私でしたが、セミナーでは哲学対話に効果的な質問に特化して考えたのに対し、今回の哲学カフェでは「あの仕事どうなってますか?」「岡山駅にはどういきますか?」といった日常会話における質問や、国会中継できく質問、教室で先生が生徒に向けてする質問など、多種多様な質問について考えることができ、新しい発見がたくさんありました。

特に印象に残っているのは「質問という衣」というキーワード。
(「質問というオブラート」と表現された方もいましたね。)
見かけは質問だけど実は催促をしている「あの仕事どうなっていますか?」だとか、ご近所さんとの関係づくりに役立つ「どちらへ?」「ちょっとそこまで」というやりとりだとか、「〜についてどう思いますか?」と質問するふりをしながら自分の主張をぶつけるだとか、私たちの周りには「質問という衣」をまとった、でも答えを求めているわけではない様々な言葉があふれているという指摘。
どうして、直接催促したり主張したりせず、わざわざ「質問という衣」をまとわせるのか。
日本の文化や相手との関係性、質問の形をとる場合とそうでない場合で相手の反応や効果はどう異なるかなどを話ながら考えました。

もうひとつ、おもしろかったのは、質問の種類の分け方。
途中まで、私は「情報を得るための質問、催促のための質問、主張のための質問、関係づくりのための質問・・・」とその目的や効果によって質問を分類しながら、みなさんの話をきいていました。
が、「相手との関係性や距離によって、できる質問とそうでない質問がある」という意見をきいて、「相手との距離によって質問を分けてみたらどうだろう?」と考えてみました。
道を尋ねる質問は通りすがりの人にでもできる質問、「どちらへ?」「ちょっとそこまで」はそれほど親しくないご近所さんにもできる質問、「どちらからいらっしゃったんですか?」は哲学カフェで初めて会う人にできる質問、年齢を尋ねる質問はある程度仲良くならないとできないな・・・など。
私は、相手によって態度を変えるのが標準よりだいぶ苦手なほうなので、この分類は今後大いに役立ちそうです。

質問って懐が広い!
コミュニケーションのあらゆる要素について考えられるものなんですね。
哲学カフェのなかででた質問についても、「その質問は、どういう質問なんだろう?」とメタコミュニケーションが発生するのもおもしろかったです。


さて、次回、城下ステーションの哲学カフェは5月9日(土)。
テーマは「住みたいまち」です。
引っ越しや移住を体験した方、「地域創生」に関心のある方、考えたことないけれど人とおしゃべりしたり考えるのが大好きという方、どなたでも気軽にご参加ください。

会場が開くまでのあいだ、参加者の方と隣の岡山神社で開催されていた骨董市へ。
輸入もののボタンを衝動買い。今度の手芸カフェで自慢しよう。




2014/10/14

相談するとはどういうことか

こんにちは、まつかわです。
昨日10月12日は、岡山大学のまちなかキャンパス、城下ステーションの哲学カフェでした。
台風が近づく3連休の真ん中で人が集まるか少し心配しましたが、おなじみの方に、久しぶりの方、初めての方とバランスよく集まりました。

テーマは「相談するとはどういうことか」。
提案者は、おなじみさんのひとり、私の夫です。
弁護士という職業柄、相談を受けることが多く、どうしたら相談者に満足してもらいやすいのか、相談しやすい環境をつくるにはどうしたらいいか、常日頃から考えているうちに「そもそも相談するってどういうことだろう?」という問いにたどり着いたようです。

相談をするほうの体験談と相談を受けるほうの体験談、どちらも印象に残っていますが、特に相談を受けるほうの体験談からは、その人の職業の特殊性や人柄(に対する他者の期待)が強く感じられるのが面白かったです。

こんな論点がでました。


  • 専門家やプロに相談する場合と、素人に相談する場合のちがいは?
  • 誰に相談するか?
  • 本やネットで情報を得るのと、人に相談するのはどうちがうか?
  • 相談によって得られるもの(期待するもの)は何か?
  • いつ相談するか?
  • 相談のプロセスで生じる「往復運動」とは?


さまざまな論点を転々としながらも、やはり中心になった論点は「相談によって得られるもの(期待するもの)は何か?」だったように思います。
「単に知識が欲しいというわけではない」という点についてはみなさん一致しつつ、「とにかく結果につながる何かがほしい」という意見と、「結果は変わらないけれど見通しがついて、相談してよかったと思った」という体験談と、「話を聞いてくれる相手のなかに自分の居場所を感じることが大事では」という指摘とがでました。

ここで、私が個人的に?気になったのが、ここでいう“居場所”ってなんだろう?ということ。
対話活動をあちこちで続けていると、「居場所をつくりたい」「居場所が大事」という人に多く出会うので、前から気になっていたワードだったのかもしれません。
ときおり質問を投げかけながら話をきくうちに「そうか、“居場所”って安心できる場や関係のことなんだなぁ」と腑に落ち、そこから、「じゃあ相談は、不安な状態から脱するための対人コミュニケーションといえそうだぞ」と自分なりの答えにたどりつくことができました。

他にも、上記の論点から、どういうときに“結果”が得られたと感じるか、相談する人と相談される人の関係、知識が欲しい訳ではないとはどういうことか、などについて話すことができました。

お土産いただいちゃいました。
外はカリッと、中はしっとりで美味しくいただきました。

次回城下ステーションの哲学カフェは11月22日(土)。
みんなでつくる財団おかやまの代表、石田さんと一緒に「お金の使い方」について考えます。
最後に、その日の哲学カフェに各自値段をつけてみましょう。
お金についての疑問やモヤモヤ、楽しみにしています。



2014/06/19

旅をする?

こんにちは、まつかわです。
先週日曜日は、岡山大学城下ステーションにて哲学カフェでした。

テーマは「旅をする」。
「旅に出たい」という気持ちはどこから出るのか?という話題から始まり、参加者のみなさんの体験談を交えながら、おおきく、2つの問いについて考えました。

●どこからが旅行?
旅行かどうかは何によって決まるのか?
同じように岡山から京都へ行く場合でも、「日帰り旅行」と捉える人と、「旅行ではない。ちょっとしたおでかけ」と捉える人がいることを考えると、距離や宿泊の有無ではなさそうです。
ああでもない、こうでもないと考えた結果、「そこが自分のテリトリーかどうかがポイントではないか」という仮説が、かなり説得力をもって展開されました。
京都が自分のテリトリーである人にとっては「ちょっとしたお出かけ」だけど、京都がテリトリーではない人にとっては「旅行」になる。

●「旅行」と「旅」のちがいは?
「旅行には行ったことあるけど、旅ってしたことがあるのかな?ないような気がする」という発言から、「旅行」と「旅」のちがいが、もうひとつの問いとしてあがってきました。私たちが結論に至るまでの道筋を、ざっとご紹介しましょう。

  • 「旅行」は何らかの目的があるけれど、「旅」は途中が大事。
  • 「旅行」は帰る日が決まっているけれど、「旅」は帰る日が決まっていない。あるいは、決まっていた日に帰れるかどうかわからない不安や不確定性を孕んでいる。
  • アクシデントやトラブルが生じたとたん、「旅行」が「旅」になることもある。
  • 「旅」にでると、必死にトラブルを解決する過程で人は成長する(「かわいい子には旅をさせよ」)。
  • 上記の理由から、新宿駅周辺は、「旅行」を「旅」に変える不思議な力が働いている。
  • 同じ理由で、スマホがなければ、「旅行」が「旅」に変わる可能性がある。
  • 同じ理由で、ヨーロッパでつくられているガイドブック(場所の名前だけで、写真も地図も行き方もない)も、「旅行」を「旅」にしてしまう恐ろしさがある。
  • スマホがなければ、海外や他府県にいかなくても、「旅」ができるのではないか。
  • 結論:スマホを捨て、旅にでよう!


他に、「旅行でしか体験できないこと」や「旅行嫌いの人とそうでない人はどうちがうのか」などの話題でも盛り上がり、2時間の対話を終えるころには、スマホを置いて旅に出る気満々の人と、「心配性の自分には旅なんて絶対ムリ」という人とで、ひとつの旅を終えたような連帯感と清々しい満足感がありました。

さて、次回の哲学カフェ@城下ステーションは7月6日。
テーマは七夕にちなんで、「人はなぜ恋をするのか」です。
終了後、近所の岡山神社で七夕祭りに繰り出せるよう、時間15:00〜17:00といつもより遅めです。
詳細はこちらをどうぞ。

同じ7月、昨年ミルトークでお世話になったお向かいのオリエント美術館では、「文明の十字路 シリア」という企画展が催されます。
「シリアトーク」なるイベントもあるので、チェックしてみてください。
詳細は、オリエント美術館のHPをどうぞ。
チラシはこちら



2014/04/27

哲学カフェ「ひとりがいい?」

こんにちは、まつかわです。
今日は午後から岡山の医療関係者の方とやってる「ケアを考える会」に参加してきます。
その前に先日の哲学カフェについて報告をさらっとしておきましょう。

4月24日夜は、岡山大学城下ステーションで哲学カフェを開催しました。
進行役は、大阪の中之島哲学コレージュにもときどき登場してくださる、森本誠一さん。
シネマ哲学カフェの進行もされてますね。

この日はお仕事で岡山にいらっしゃるということで、せっかくなので、森本さんが考えたいテーマで進行役をお願いしました。
私も一参加者として対話を楽しみました。

正面奥が、森本さん。松川はめっちゃ考え込んでます。
久しぶりの平日開催ということで、何人くらい集まるかドキドキでしたが、岡山大学の先生や、職場が近いかたが集まってくださいました。児島からわざわざきてくださった方も・・・ありがとうございます!

「ひとり焼肉」など、ひとりで行動することについても話題にでましたが、より深い精神的な「独りでいること」につちてのやりとりに、より多くの時間が割かれたように思います。
結婚やパートナーをもつことの意味、自然のなかで一人で過ごす時間、人ごみや雑踏で感じること、贅沢な孤独とそうでない孤独、ひとりで病いとともに生きることの難しさ、死に向き合うこと・・・。
「ひとりでいたい」と思うときの「ひとりでいる」とはどういうことか。
「ひとりでいるのがツライ」と感じるときのそのツラさは何に起因しているのか。
さまざまな例や体験をもとに、考えました。

個人的には、「ひとりでいる限り、思考が何度も同じところに返ってきて、同じ思考を何度も繰り返してしまう。先に進めない」という言葉が、私とは全く別の経験から出された発言だったにも関わらず私自身の体験にも当てはまり、興味深かったです。
他者がいないと先に進めないということが、「ひとりでいること」と「他者とともにいること」のなにか本質的なちがいを表しているように感じました。

次回、城下ステーションの哲学カフェですが、まだ予定が決まってません。
ごめんなさい。
平日にするか休日にするか、ちょっと迷っています。
決まり次第、カフェフィロHPなどでお知らせします。


2014/03/23

生きることは無条件によいことか?

こんにちは、まつかわです。
一昨日、3月21日は岡山で哲学カフェでした。

テーマは「生きることは無条件によいことか?」。
参加者の方からも言われましたが、岡山の哲学カフェでこんな重いテーマは初めてかも。
発言が出にくくなるかな?と少し心配しましたが、全くそんなことはなく、大変内容の濃い時間でした。

実は、私、1〜2ヶ月に一度、岡山で医療関係者の方とケアを考える会という勉強会をしております。
今回のテーマは、そこでの終末期医療についての話題から思いつきました。
そんなわけで、はじまるまえに私が想定していたのは延命治療や尊厳死、QOLなどの問題でした。
が、いざ哲学カフェがはじまってみると、自殺や死刑の問題とからめた意見がたくさんでてきました。
大学や病院で学んだ生命倫理の勉強とは異なる視点からも、生や死がどういうものかを考えることができたのが新鮮でした。

日常的な生、生物学的(物理的?)な生、社会的な生、宗教的な生・・・と、本当に様々なレベルの「生」について考えました。
なかでも一番ショックだったのは、「来世がある」と考えると私がこれまで想定していた死に対するネガティブな印象が全く覆されてしまうということです。
自分のなかに「来世がある」という宗教観が僅かでも残っていることにも驚きました。
こんなふうに、これまで自覚していなかった自分の一面に気づかされる哲学カフェが大好きです。

次回、岡山の哲学カフェは、久しぶりの平日夜開催。
4月24日18:30〜20:00。
(メルマガでご案内した時間から変更になりました!ご注意ください。)
「ひとりでいること」「一緒にいる」ってどういうことかを考えましょう。
大阪では「中之島哲学コレージュ/私たちと公共性」シリーズでおなじみの森本誠一さん。
私もいち参加者として楽しみにしています。

また、ケアを考える会岡山のほうも、参加者を募集しております。
ご関心のある方は気軽にお問い合わせください。
(お問い合わせは、こちらのフォームよりどうぞ)

2014/02/01

記憶はフレッシュなほうがいいのか?+東北記録映画上映会&哲学カフェのお知らせ

こんにちは、まつかわです。
1月13日に岡山で開催した哲学カフェの報告がまだでした。

実は、何度も書こうとしたんですが・・・刑事事件における取り調べや、看護・介護の例などが出されて非常に興味深かったのですが、どうも私にはそれをまとめる力量はないようです。

でも、話し合ってみて、大きな発見がひとつありました。

最初にこのテーマを参加者の方(というか、私の夫なのですが)から提案されたとき、(「記憶がフレッシュってどいうこと?」という疑問はさておき)彼が「時間の経過とともに記憶はあやふやになり、事実を確かめにくくなる」という定説に疑問を投げかけているということは理解できました。
なので、私は「今回は、"記憶“と“事実”の関係について考える回になるだろう」と思っていました。
しかし、いろんな例を出しているうちに、どうもそうじゃない。
記憶というものが問題になるときは、看護や介護の現場でもそれ以外の場でも、「事実」と同時にまたそれ以上に「ケア」という観点が欠かせないらしいということ、そして最初にテーマを提案した彼もまたそのことを考えたかったのだということわかってきました。

どういう過程をたどってそういう結論に至り着いたのかは、(とても私には説明できないので)参加された方のみへのお土産ということにしておきましょう。


2月は城下ステーションの哲学カフェはお休みです。
その代わり(?)、2月22日(土)、3月1日(土)と2週連続、奉還町にあるコミュニティスペースやっちさんにて、東北記録映画の上映会とその感想を語り合う哲学カフェを開催します。
詳細・お申し込み方法は、こちらよりご覧ください。

2013/12/23

女らしさ?男らしさ?私らしさ?

こんにちは、まつかわです。
昨日は岡山大学のまちなかキャンパスで哲学カフェ・・・ではなく、番外編。
ハワイの哲学の授業で使われているというコミュニティボールをつかったWSをしました。

毛糸を巻き巻きしながら、ひとりずつ、こんな質問に答えていきます。


今回の企画は、「セクシュアリティとかジェンダーについて話し合う場をつくりたい」という原健太さんと草地陽子さんの言葉がきっかけとなったのですが、Q1〜Q4は彼らと事前に用意させていただきました。
Q1.コミュニティネームとその理由は?
Q2.あなたの性別。その性別なのはいつから?
Q3.あなたの女らしいところは?
Q4.あなたの男らしいところは?
Q5〜Q7は、Q1〜Q4のみんなの答えをきいたあと、参加者のみなさんから提案された質問です。
Q5.性別はどうやって決まると思う?
Q6.男らしくも女らしくもないことって?
Q7.私のなかのいい男らしさ、女らしさ

たとえばQ5「性別はどうやって決まると思う?」なら、「身体的な特徴で決まる」という人はもちろん、「自分が男と思えば男でいい」という人、「制度的に与えられたもの」という人もいる・・・というように、どの質問も少しずつそれぞれの考えや言葉を引き出してくれる質問でした。

ひととおり質問に答えたあとは、質問の答えから派生して、性に対する違和感や、自分の性についていつどんなふうに発見するか、海外との感覚のちがい、「私らしい」おしゃれを楽しむことの難しさなどについて自由に語り合いました。

残念ながらコミュティボールづくりには私の力不足で失敗してしまったのですが(本当にごめんなさい。汗)、それでもボールづくりとみなさんが提案してくださった質問のおかげで、性という常識や自分自身が揺さぶられるテーマについて耳を傾け合うことができ、有意義な時間でした。
企画を提案して協力してくださった原さん、草地さんのネットワークのおかげで、高校生の方も何人か参加してくれました。

ジェンダーやセクシュアリティの問題は、私が大学生のころから考えているテーマの一つ。できたら今後も、岡山で10代や20代の人たちと語り合う機会をつくっていきたいと考えています。


2013/11/16

記念日

こんばんは、まつかわです。
本日は、岡山大学の城下ステーションにて哲学カフェでした。

岡山で哲学カフェをはじめて今月で1年目。
ということで、テーマは「記念日」!

「ハレの日は全部記念日でいいんじゃない?」という意見と、「記念日と特別な日はちがう」と冒頭から意見が分かれました。
二つの異なる考え方を軸に、誕生日、成人式、祝日、結婚記念日、 転職記念日、喜寿・米寿のお祝い、1/2成人式などを様々な例をヒントに、それぞれの参加者が「自分にとって記念日とはどんな日か」考え、「 変化するための装置」、「祝う側と祝われる側の関係性」、「儀式の形骸化と自動的にその日がやってくることの意味」などいくつか面白い概念に出会うことができました。

次回は、12月22日。
コミュニティボールを使って「女らしさ? 男らしさ?私らしさ?」について語り合う予定です。
3連休の中日ではありますが、どうぞふるってご参加ください。


哲学カフェと打合せが充実しすぎてヘロヘロなので、
今夜は殻付き牡蠣をチンして晩ご飯にします。

2013/10/28

哲学カフェ「譲れないこと」

こんにちは、まつかわです。
昨日は岡山大学まちなかキャンパス、城下ステーションにて哲学カフェを開催しました。
岡山で対話活動をはじめて1年になります。早いなぁ。

今回のテーマは「譲れないこと」。
10名ほどの方が参加されました。

いろんな「譲れないこと」「譲れないもの」がでてくるかなと思ったら、「これが譲れない」という具体的な話はそれほど出ず。
「譲れないことをどういうふうに伝えたらいいのだろう」、「譲れないことがあるっていいことだろうか」、「『譲れない』ということと、『嫌だ』と思うことは同じか」などなど、「譲れないこと」をめぐる様々な問題についていろんな意見がでました。

友だちや家族に誘われて初めて参加される方も何人かいて、途中で、「これって何のために話し合うの?結論は出すの?」といった哲学カフェに関する疑問が出たり、それに答えたながら、もう一度どの論点を話すべきか考えてみたり。

個人的に特に印象に残ったのは、「譲れないことを、言葉にしたくない」という意見です。
最初のうちは、「でも、これが譲れないということは言葉にしてもらわないと、どうしたらいいのかわからない」という方と同じ考えだったのですが、「わかりやすすぎるスローガンを掲げて活動する集団は、スローガンが一人歩きしてしまいそうでちょっと怖い」「言葉にすることでそぎ落とされてしまうこともあるのでは」といった声をきくうちに、それも一理あるなぁというふうに考えが変わってきました。(そういえば、「一理ある」という言い方は「譲る」とはちがうという意見もありましたね。)
とはいえ、たとえばカフェフィロのような非営利団体では、ミッションを言語化しないと何をして何をしないかの判断基準がぶれて支障がでてしまうし・・・。
自分なりに仮の答えは出せたものの、もうちょっと考えてみたい点です。

他には、「百歩譲って」という枕詞に関する議論や、岡山大学の先生(哲学カフェがお気に入りでほぼ毎回参加してくださってます)の「譲り合いを大切にするコミュニティは譲らない人を許さない」という研究のお話、そこから展開した「譲る関係性」と「譲らない関係性」のちがいに関する話も面白かったです。
本当にいろんな切り口がでて、あっというまの2時間でした。

次回、岡山の哲学カフェのテーマは「記念日」の予定です。
が、まだ日程が決まっていません。すみません。
決まり次第、カフェフィロのHPでお知らせします。

明日は、大阪で「対話する哲学教室」です。
テーマは、「“アート”の目的とはなにか」。
アリストテレスとニーチェの芸術論を紹介します。
直前ですが、まだ少し残席あるようです。
お申し込みがまだの方は会場のさする庵にお問い合わせください。

2013/09/23

家族サービス

こんにちは、まつかわです。
昨日9月22日は、岡山大学のまちなかキャンパス、城下ステーションで哲学カフェでした。

テーマは「家族サービス」。
岡山大学の岩淵さんは、大学の先生方が休日家族と過ごすことをうれしそうに語っているのをみて、このテーマを思いついたそうです。
私は私で、けっこう日常的にジレンマやもどかしさを感じることの多いテーマで、家族と一緒にドキドキしながら参加しました。

話してみて、他の人が「家族サービス」という言葉からうけるイメージや、自分がこの言葉を使うときの気持ちを言葉にして、再認識できたのが大きな収穫でした。

ただ、「家族とは何か」について十分に吟味しきれなかったのが、ちょっと心残りです。
たとえば、議論の後半にでてきた「本人が家族と思えば、戸籍上の無関係であろうとペットであろうと家族である」という定義や、「家族は、次世代を育てるためのもの」という見解について。色々思うところはあったのですが、今回は流れのなかでタイミングよく拾い上げることができませんでした。これらの見解を提示した人だけでなく、他の人がこの意見をどう思うか、もっとたくさんききたかったなぁ。

難しいテーマでしたが、時間を置いて、再チャレンジしたいです。


さて、城下ステーションの哲学カフェ、次回は10月27日です。
テーマは「譲れないもの」。

岩淵さんと対話の試みがはじめて、来月でちょうど1年。
みなさんでつくりあげていく即興ライブなので、正直、毎回、今日の秋晴れのようにスッキリとはいきません。他の人がみている景色に驚いたり、とまどったりすることもありますが、それも含めて楽しんでいただける方、ご参加お待ちしています。

2013/08/04

報告:哲学カフェ「能力によって選挙権を制限することは許されるか?」

こんにちは、まつかわです。
先週7月28日は、岡山大学のまちなかキャンパス「城下ステーション」の哲学カフェでした。

テーマは「能力によって選挙権を制限することは許されるか」。
最初に、行政書士として障がい者の支援をされている瓜生さんが、話題提供として今年5月に改正された成年被後見人の選挙についてお話してくださいました。

また、参加者としていらしていたもう一人の行政書士の方も・・・

1)財産管理等のために成年後見人はついているけど、他の人のサポートがなくても自分で選挙に行ける人
2)意識不明などで選挙に行けない人
3)1、2どちらでもない人

・・・というふうに分類しながら、実際に現場でどんな困難があるかお話ししてくださいました。

「選挙権が与えられるだけでは、それを行使することはできない。行使するためには、それぞれ別のサポートが必要」「言語とは異なるシグナルを発しても、その人の母親にしかそれを理解できないような場合どうするか。立会人だけだと、障がい者の選挙権が阻害されてしまう恐れがある」といったリアルな指摘をもとに、以下のような論点が浮かび上がってきました。


  • 選挙に必要な能力とは何か
  • 判断能力があるとかないとか、誰が判断するの?
  • 後見人や家族が与えてしまう影響をどう考えるか
  • 権利は行使しないといけないの?
  • そもそも選挙で投票するとは、どのような行為なのか


なかでも、最も考えさせられたのは、「立会人が、選挙権行使の意志を聴き取らなくてはならないが、その聴き取り能力は問われていない」という指摘です。
投票する人の意思表示の力だけでなく、意思表示を受信する側の力も問う必要があるのではないかという意見がでました。
秘密投票を保持しながらとなると難しいとは思いますが、能力があるから選挙権が与えるというのではなく、なるべく多くの人のが選挙権を行使できるように社会的サポートが磨かれていくといいなと感じました。

ほかにも、「子どもに選挙権が認められないのはなぜ?」と考えてみたり、「女性が選挙権をもたなかった時代だったら・・・」と想像してみたり、当然のように受け取っている投票所入場券のありがたさが身にしみる一日でした。


岩淵さんが出張でお休みで、写真を撮りそびれてしまったので、今朝の朝市で撮った瓜生さんの写真を・・・右の方が瓜生さん。奥の方が、瓜生さんを紹介してくださった花野さんです。


瓜生さんたち、NPO法人地域生活総合支援センターはあとふるネットワークの方々は、こうして毎月、岡山や倉敷の朝市で無料相談会を開いているんです。



実は、今回の企画も、この朝市でお話したのがきっかけで実現しました。
いつも盛況で、相談者が途切れる瞬間を待って写真を撮らせていただきました。
ついでに、花野さんと別の企画について相談も・・・。
こちらは今度はファッション関連のテーマです。お楽しみに♪


この夏は、政治についてちょっと考えてみようと、8月に政治について考えるイベントを、もう一つ用意しています。
ホッブズとロックの思想も紹介します。
大阪の方、お仕事帰りにいかがですか?
お申し込み方法など詳しくは、カフェフィロのサイトをご覧ください。


2013/07/05

次世代に伝えたいもの(岩淵さんの報告)

こんにちは、まつかわです。
岡山大学の岩淵さんが、6月30日の哲学カフェの報告をまちなかキャンパスのサイトにアップしてくださっています。
こちらからどうぞ。


ちなみに、岩淵さんは、おかやまデミカツ丼応援隊、通称「デミ活」の一員であり、ドゥミ博士のモデルでもあるそうな。

ドゥミ博士&デミカツ丼
(おかやまデミカツ丼マップより拝借)
モデルといっても、岩淵さんはこんな緑のヒゲの生えたおじいちゃんじゃなく、私と同い年のフレンドリーなお兄さんなんですが・・・彼が「『デミグラス』じゃなくて、正しい発音は『ドゥミグラス』だ!!!」と主張したことから、このキャラが誕生したそうな。
だから、「デミ博士」じゃなくて、「ドゥミ博士」なのね。

「デミカツ丼ってなんだ!?」というかたは、どうぞ「デミ活」のサイトをご覧ください。

2013/07/01

次世代に伝えたいもの

こんにちは、まつかわです。
1週間に3回も哲学対話をすると、やった順番にはうまく思い出せませんね。
逆から遡って、まずは昨日、岡山大学の城下ステーションで開催した哲学カフェの報告です。

私、小さすぎてすっかり隠れちゃってますが・・・。
空いてるグリーンの席はカメラ係、岩淵さんの席です。

写真には映っていない2名も加えて、参加者は10名。
世代を超えて「次世代に伝えたいこと」について語り合います。

ちなみに今回のテーマは、何回か哲学カフェに参加してくださっている岡山市の職員の方のリクエスト。ESD(持続可能な開発のための教育)プロジェクトに関わるなかで、「受け継ぐとか継承するということはどういうことか考えたい」ということで、こんなテーマになりました。

次世代に何を伝えたい?残したい?

通勤で毎日みてる自然の姿、帰省の際にみる総社の五重塔の風景、松江城の井戸の抜け道、岡山市内を流れる西川の蛍、我が家の味(岡山寿司、お雑煮)、親の生き様・・・
「いいものだから残したい」そんな言葉をきいて、それまでじっと黙って耳を傾けていた女性が他の人に問いかけます。

残したいのはいいものだけ?

すると、今度は、原爆ドームや津波で打ち上げられた船など、痛々しい記憶を呼び起こさせるものが挙げられはじめました。
「被災者は見るのも辛くてイヤだろうけど、同じ痛みを繰り返さないためには残すべきなんじゃないか」


何を伝えるかだけでなく、どう伝えるかも大事

「モノを残すだけでなく、そのモノに込められた意志も伝えないと意味がない」
津波で陸に打ち上げられた船なんかは、「なんで船がここにあるの?」とそこに存在するだけで心を揺さぶる力があります。しかし、そこにあるだけでは、それがそこにある意味が伝わらないこともある。そうしたものについては、積極的にその意味も伝えていく必要があるのではないか。そうした意見が2時間のあいだ、言葉を変えながら何度も繰り返しでてきたように思います。
「受け手が受けとめられるように伝える必要がある」
「与えることが大事なんじゃなくて、相手が元気になることが大事」

何もしなければ、失われてしまう

また、こうしていろいろ話しているうちに、「あえて残そうとしなければ失われてしまう」という共通の前提が浮かびあがってきました。
「何かを残すということは、新たに創造するのと同じぐらいのコストやエネルギーがかかる」という指摘も・・・。

次世代に伝えるためには、水平方向のやりとりも必要

「次世代に伝える」というと上の世代から下の世代へと垂直方向の一方的なやりとりをイメージしがちですが、具体的な例を考えていくと、史跡や自然などはもちろん、家庭の味といった私的なものであっても、自分がいなくなった後まで何かを残すことは自分だけではできないということがわかります。
個人的に、「何かを次世代に残すためには、同時代に生きる者同士のやりとりが不可欠である」というのは大きな発見でした。

偶然ではありますが、折しもこの日は岡山大空襲があった日の翌日ということで、戦争についてどう伝えていくかについても時間を割いて考える展開になり、ちょっとしんみりした回となりました。(7月7日まで、シティミュージアム岡山戦災に関する展示が開かれているそうです。)

でも、「次世代っていわれて誰を思い浮かべる?」という問いかけに「子ども」と即答する人も、「自分はまだまだ受け取る側で、伝えるということが想像できない」という人も、自分の記憶や気持ちにしっかり向き合った回だったのではないかなと思います。

終了後、松江から来て初めて参加された方から「アタマで考えるだけでなく、すごく感情を揺さぶられて、有意義な時間だった」という感想をいただきました。

松江から参加された方がお土産にくださった人形焼。
みんなで美味しくいただきました。

今後も、岡山の哲学カフェは、カフェマスターの岩淵さんと、様々な人たちと交流しながら、月1ペースでまったり開催していく予定です。

次回は、7月28日(日)。
行政書士として障害者の支援をされている瓜生浩輔さんをお招きして、「能力によって選挙権を制限することは許されるか?」というテーマ考えます。
いわゆる「成年被後見人選挙権訴訟」を糸口として、子どもや私たちの選挙権についても考えられたらと思っています。
関心のある方は、どうぞお気軽にご参加ください。
詳細についてはこちらをどうぞ。

2013/06/30

城下ステーションは県立美術館の向かいです

おはようございます、まつかわです。
本日は岡山大学のまちなかキャンパス、城下ステーションで哲学カフェです。
テーマは、「次世代に伝えたいもの」

場所は・・・

まちなかキャンパスのサイトより拝借

県立美術館の真向かいです。
たしか県立美術館では、本日まで美作の美術展をやってるはず。
哲学カフェの前後にぶらりと立ち寄るのもいいなぁ。
と、いますごく迷っています。

2013/05/15

愚痴を言うのは悪いこと?


こんにちは、まつかわです。
今日はグリーングラスの哲学カフェがありましたが、その前に、5月12日に岡山で開催した哲学カフェのご報告を・・・。

今回は、10名の方が参加してくださいました。
おひとり、途中で「仕事でぬけまーす」と言って、最後にまたおやつを持って戻ってきてくださいました。うれしい。途中入退場自由、それが哲学カフェのいいところです。

テーマは「愚痴を言うのは悪いこと?」。
まずは、テーマを提案してくれた岡山大学の岩淵さんに、このテーマを提案した理由をききます。

愚痴を言ってはいけないとして教育されてきた。 けど、ぽろっと言ってしまう。 愚痴がない社会はありうるのか。 ポジティブな面もあるんじゃないか。 みんなは愚痴はどのように付き合っているの?

すると、こんな意見がでてきました。

  • よい愚痴もあれば、悪い愚痴もある。改善につながる愚痴はいいけれど、不満や悪口を通して人とつながるのはイヤ。
  • ぽろっとでた愚痴は本音だと思う。愚痴は本音をきける機会。
  • 愚痴は、解決を求めていないのではないか。
  • 違和感を言葉にしながら、確認する。
  • 安心して愚痴を言える場所があることが大事。


なかでも私にとって新鮮だったのは、「ちゃんと愚痴になるように気をつけている」という言葉。
「ちゃんと愚痴になるように」。
その方は、自分の言葉が、その場の言葉のやりとりだけで蒸発するように消え、現実に影響を及ぼさないことを、静かに、でも力強く肯定しました。
なるほど確かに、愚痴は愚痴として受け止められること、つまり聞き流してもらえることが重要で、愚痴だと思って言った言葉によって現実が変わっちゃったら、恐いような気がする。

「愚痴を言い合って共感する人が集まって、それが農民の一揆のように現実を変える力になることもある」という方向から愚痴をポジティブに捉える意見もありましたが、それだけだと、愚痴の愚痴たるよさを捉えきれていない気がする。

  • 最終的に改善や解決につながらない愚痴にも意義があるとしたら、それは何か?
  • なぜ「提案」という形じゃなく、「愚痴」なのか?
  • なぜ「一揆」の前に、愚痴を言い合う段階が必要なのか?


何度も何度も愚痴とは別の何かによって愚痴を肯定しようとする流れに流されそうになりながらも、しつこく食い下がりました。
そして、愚痴と愚痴でないものの区別を探るうちに、すこしずつわかってきたことがありました。

  • 愚痴を言ってる段階では、現実を変えるために労力を割く気はない。でも、『あわよくば』という気持ちはある
  • いきなりSOS出すのはハードルが高いし、受け止めるほうも重い。


つまり、愚痴というのは、(もしそれがちゃんと愚痴になっていれば)言う方も聞く方も負担が少なく、現状や危険の確認したり共有したりできる行為なのではないかということです。
あらゆる問題について、優先順位も決めずに手当たり次第に手をつけていたら身がもたない。そんな現実のなかでは、いきなり問題に着手するのではなく、まずは愚痴をこぼし合いながら、誰かと問題を共有したり、確認したり、信頼関係を築いたりすることが重要なのではないか。たとえば学校のなかにも、子どもの愚痴をきいてくれる人がいてくれたらいいね。そんな話をして、この日のカフェを終えました。


絶妙なタイミングで絶妙な体験談を話してくれる人、
それまでの発言をふまえてシンプルな仮説を出してくれる人、
なんとなく感じている迷いを大げさにでもなく卑下するわけでもなく等身大の言葉に置き換えてくれる人。
この日は、本当にひとりひとりの意見や語り方のちがい、それぞれのその人らしさがうまく組み合わさって、単に意見を交換するだけでなく、全員で一緒に考えるということができたように感じました。

岡山で哲学カフェをはじめて約半年。私も、関西風のツッコミに頼らない語りに慣れてきたのかもしれません。


会場の城下ステーションへ向かう途中でみかけたスワンボート。
後楽園の近所です。