名古屋の新会員、安田です。お初に投稿させていただきます。
ご存知かもしれませんが、来る9月21日(日)、名古屋でも『哲学カフェのつくりかた』出版記念イベントとして、半分は哲学カフェ実践者の座談会、半分は哲学カフェそのもののフリートーク、というイベントを行います。テーマは「哲学カフェがめざすものとは」。
このたび、一種のプロモーションを兼ねて、「哲学カフェ@名古屋」のホームページ上に、このテーマについてのご意見を広く募る掲示板を開設しました。このイベントに参加する/しないに関わらず、思うところおありの方、誰にでもご投稿いただきたい、という趣旨のものです。
もし思うところおありでしたら、よろしければ、こちらでシェアしていただけませんでしょうか。
尚、僭越ながら、すでに私安田が個人的にこのテーマについて常々思っている疑問をひとつ、投稿させていただきました。題して「哲学カフェがめざす二種類の〈人間形成〉とその矛盾について」です。こちらをお読みいただいてのご意見なども、もしいただけければ幸甚です。
2014/09/14
2014/06/30
報告:漫画de哲学「暴力とはなんだろうか?」
三浦です。最近、名古屋での哲学カフェの報告がすっかり滞っていて、申し訳ありません。
6/21に漫画de哲学の第3回目を行ないましたが、参加者が計22名にも達し、急きょ店内の他の場所から椅子を持ってこなければいけないほどでした。
名古屋では参加者の方々に、参加してみての感想などを「レビュー」というかたちで書いてくださるようお願いしていますが、今回は大学生の東さんに書いていただきました。
熱のこもったレビューをぜひお読みください。
今回の哲学カフェは「暴力とはなんだろうか」がテーマです。最初に提題者から『野望の王国』(原作:雁屋哲)の紹介がありましたが、残念ながら(?)その後あまり参照されることはなく、自由闊達に議論が進みました。暴力の線引き問題、見えない暴力の存在、暴力はヒトに固有と言っていいか、暴力を抑えるための暴力などの話題が行きつ戻りつしながら話されていたと思います。
最初に話題になったのは暴力の線引き問題です。
我々は、個別案件に関して意見の相違があるにしても、虐待としつけを区別しています。
つまり、不当な暴力と正当な暴力を区別しています。そして、規律や秩序を守るためには、正当とされる範囲に限り暴力を許容しています。この線引きは何によって決まるのでしょうか?――この問いには「個々人、各時代の価値観によって決まる」という答えで大勢の一致があったと思います。「廊下でバケツ」は、昔は当然の懲罰、現在では教師によるいじめであるわけです。また、永沢君やまるこちゃんが「これくらいはいじり」と思っていても藤木君は「いじめだ」と思っていることでしょう。(逆のパターン;永沢君が「いじめてる」と思っているのに藤木君が「いじりだ」と思っているパターンはあまりない気がします。)
時代による線引きの変化を大きな視野で考えると、現代は、暴力にますます厳しく敏感になっている、換言すると、社会はますます優しくなっていると思います。殴る蹴るの見える暴力だけではなく、同調圧力やセクハラ野次、先進国の発展途上国からの経済的搾取への我々の加担も見えない暴力として市民権を得ています。「人間は対等であるという価値観の広がりがこのような変化を駆動している」という意見や、「このような良識的な価値観に実感がついていってない」という意見、「やさしくなり過ぎ。もっと暴れてくれていいのに」という意見が聞かれました。
また、「「どうして人を殺してはいけないのか?」と問うインモラルな子供を殴って道徳を教えることは正当な暴力といえるのでは」という主張もなされました。同意する方が多かったように見えましたが、個人的には別にほっといてもいいじゃないかと思います。サカキバラ事件のように実際に殺人を犯せば司法により裁かれるので。
議論のためとはいえ、殴る蹴るの暴力と同調圧力を同じカテゴリーにいれることに感じる違和感はなかなか払拭できません。想定している暴力のモデルの違いを確認するため、時々各々が定義を述べていました。まとめると以下のような感じです。
・目的に対して手段が過剰であるような傷害行為もしくはそもそも無目的であるような傷害行為が暴力である。
並行して、「赤ちゃんの夜泣きは暴力とはいえない、暴力的な赤ちゃんは存在しない」ということも確認されました(一同爆笑しました)。これは大変鋭い指摘だと思います。定義の三番目とも関連しますが、私は、暴力の主体となる能力は(そこそこ成長した)人間に固有だと思います。狂暴な動物は存在しますが、暴力的な動物は存在しません。この違いが生じる理由は恐らく、動物はお互いを対等にみる価値観を持っていない、価値観を持つような存在者ではないからです。「話せる」人が「話せば納得して従ったり、不服をいって従わなかったりする相手」を力で従わせることが暴力概念の含意の一つではないでしょうか。安部公房がある対談で「未開人は確かに残酷な行為をするけれど、それを残酷なことだと思っていない。われわれは残酷な行為を残酷と知りつつする」というようなことを述べていました。暴力も同型の構図を持っていると思います。
「秩序を形成・維持するための暴力」「暴力を抑制するための暴力」も幾度か話題になりました。撞着的に見えるこの現象をどう理解すればいいでしょうか。「指導医が研修医4人のうち1人をスケープゴートにして他3人と良好な絆を作っている」という事例が挙がりました。いじめや排外主義などにおいて一般的な現象ですね。暴力は人を目に見えるように味方と敵にわけて、味方の結束力をあげる効果があるのではと思います。また、配布された『野望の王国』の人物紹介に「日本は警察国家だ! 警察こそは日本最大の暴力機構だ! おれはその警察を乗っ取るのだっ!!」と勇ましいことを言っている角刈りさんがいます。このキャラクターはたぶん、「暴力を抑制するためにはより巨大な暴力機構が必要となるが、その暴力機構が乗っ取られたとき誰も止めることができない」というような問題を提起しているのだと思います。
以下言い足りなかったことや感想など。
私が最初に暴力の定義として「手段の過剰」をあげたときに、「誰が過剰だと判断するのか」と質問され、「被害者や第三者」と答えました。対話中にあげられた、第三者的にみて暴力教師でも生徒たちにとってはよい教師の例は被害者のほうの発言の重みを与える例です。これはこれで真実だと思いますが、第三者が判断する人に含まれているのが個人的にはポイントで、その意義は被害者が暴力に過敏であるケースや鈍感であるケースが存在すると思うからです。
今回の哲学カフェでは同調圧力が暴力の一つとして挙げられていましたが、中には、自分が過敏になっているために「あるように感じられる」同調圧力が存在するかもしれません。
さらに、逆に、鈍感である例をあげると、DV被害者はしばしば「私が経験していたことはDVだったのか」と“気付く”といいます。本人が気づいていない被害は実は多いのではないでしょうか(確かめようがないですが)。
ほかにも書き足りないことはありますがこんなところで。カフェの場の議論ももちろん刺激的ですが、議論のなかで言い足りないことが生まれ、それをお土産に抱えて帰り、改めてこねくり回すことができるというのが哲学カフェの、私にとっての魅力の一つです。
最後の一文がとてもうれしいですね。東さん、ありがとうございました。また、今回の進行役は南山大学の佐藤啓介さん(写真中央の白いシャツの方)に担当していただきました。大人数の対話を見事にさばいて進行された佐藤さんにも感謝いたします。ありがとうございました。
6/21に漫画de哲学の第3回目を行ないましたが、参加者が計22名にも達し、急きょ店内の他の場所から椅子を持ってこなければいけないほどでした。
名古屋では参加者の方々に、参加してみての感想などを「レビュー」というかたちで書いてくださるようお願いしていますが、今回は大学生の東さんに書いていただきました。
熱のこもったレビューをぜひお読みください。
はじめまして。東という一介の大学生です。ぼんやりした思いをちゃんと言語化したい、その触媒として対話を使おうという手前勝手な理由で哲学カフェを活用しています。拙いですが、レビューを書かせて頂きます。
最初に話題になったのは暴力の線引き問題です。
我々は、個別案件に関して意見の相違があるにしても、虐待としつけを区別しています。
つまり、不当な暴力と正当な暴力を区別しています。そして、規律や秩序を守るためには、正当とされる範囲に限り暴力を許容しています。この線引きは何によって決まるのでしょうか?――この問いには「個々人、各時代の価値観によって決まる」という答えで大勢の一致があったと思います。「廊下でバケツ」は、昔は当然の懲罰、現在では教師によるいじめであるわけです。また、永沢君やまるこちゃんが「これくらいはいじり」と思っていても藤木君は「いじめだ」と思っていることでしょう。(逆のパターン;永沢君が「いじめてる」と思っているのに藤木君が「いじりだ」と思っているパターンはあまりない気がします。)
時代による線引きの変化を大きな視野で考えると、現代は、暴力にますます厳しく敏感になっている、換言すると、社会はますます優しくなっていると思います。殴る蹴るの見える暴力だけではなく、同調圧力やセクハラ野次、先進国の発展途上国からの経済的搾取への我々の加担も見えない暴力として市民権を得ています。「人間は対等であるという価値観の広がりがこのような変化を駆動している」という意見や、「このような良識的な価値観に実感がついていってない」という意見、「やさしくなり過ぎ。もっと暴れてくれていいのに」という意見が聞かれました。
また、「「どうして人を殺してはいけないのか?」と問うインモラルな子供を殴って道徳を教えることは正当な暴力といえるのでは」という主張もなされました。同意する方が多かったように見えましたが、個人的には別にほっといてもいいじゃないかと思います。サカキバラ事件のように実際に殺人を犯せば司法により裁かれるので。
議論のためとはいえ、殴る蹴るの暴力と同調圧力を同じカテゴリーにいれることに感じる違和感はなかなか払拭できません。想定している暴力のモデルの違いを確認するため、時々各々が定義を述べていました。まとめると以下のような感じです。
・動物を殺して食べること、つまり生きることそのものが暴力である。
・殴る蹴るや窓ガラスを割って回るような行為が暴力である。
・人に何かを強制する行為が暴力である。(etc. 同調圧力、タブーのすり込み)
・理念的には対等であるはずの二者のうちに出来た優劣関係を利用する行為が暴力である。
並行して、「赤ちゃんの夜泣きは暴力とはいえない、暴力的な赤ちゃんは存在しない」ということも確認されました(一同爆笑しました)。これは大変鋭い指摘だと思います。定義の三番目とも関連しますが、私は、暴力の主体となる能力は(そこそこ成長した)人間に固有だと思います。狂暴な動物は存在しますが、暴力的な動物は存在しません。この違いが生じる理由は恐らく、動物はお互いを対等にみる価値観を持っていない、価値観を持つような存在者ではないからです。「話せる」人が「話せば納得して従ったり、不服をいって従わなかったりする相手」を力で従わせることが暴力概念の含意の一つではないでしょうか。安部公房がある対談で「未開人は確かに残酷な行為をするけれど、それを残酷なことだと思っていない。われわれは残酷な行為を残酷と知りつつする」というようなことを述べていました。暴力も同型の構図を持っていると思います。
「秩序を形成・維持するための暴力」「暴力を抑制するための暴力」も幾度か話題になりました。撞着的に見えるこの現象をどう理解すればいいでしょうか。「指導医が研修医4人のうち1人をスケープゴートにして他3人と良好な絆を作っている」という事例が挙がりました。いじめや排外主義などにおいて一般的な現象ですね。暴力は人を目に見えるように味方と敵にわけて、味方の結束力をあげる効果があるのではと思います。また、配布された『野望の王国』の人物紹介に「日本は警察国家だ! 警察こそは日本最大の暴力機構だ! おれはその警察を乗っ取るのだっ!!」と勇ましいことを言っている角刈りさんがいます。このキャラクターはたぶん、「暴力を抑制するためにはより巨大な暴力機構が必要となるが、その暴力機構が乗っ取られたとき誰も止めることができない」というような問題を提起しているのだと思います。
日本人の協調性に関して、『しがらみの科学』という本で面白い調査が紹介されています。その調査では被験者に「まわりの人が自分をどう思っているか、つい気になる」「自分と仲間の間では意見の不一致が生じないようにしている」などの項目がいくつ自分に当てはまるか答えてもらい、さらに同じ項目について、理想の自分ならどう答えるか、他人ならどう答えるか、と主語を変えて答えてもらいます。結果、日本人は「実際は協調的な生き方をしているが」「理想的には独立的に生きたい」「他人は自分より協調的であると思っている」という特徴があることがわかったそうです。また、独立的に生きている人は好ましいと思うかと尋ねたところ、大方が好ましいと答えたらしいです。
今回の哲学カフェでは同調圧力が暴力の一つとして挙げられていましたが、中には、自分が過敏になっているために「あるように感じられる」同調圧力が存在するかもしれません。
さらに、逆に、鈍感である例をあげると、DV被害者はしばしば「私が経験していたことはDVだったのか」と“気付く”といいます。本人が気づいていない被害は実は多いのではないでしょうか(確かめようがないですが)。
| 私(三浦)の位置から見た店内の模様 |
最後の一文がとてもうれしいですね。東さん、ありがとうございました。また、今回の進行役は南山大学の佐藤啓介さん(写真中央の白いシャツの方)に担当していただきました。大人数の対話を見事にさばいて進行された佐藤さんにも感謝いたします。ありがとうございました。
2014/05/13
報告:哲学カフェ「フィロソフィーと何か?」その2
三浦です。
昨日の夕方に4/26の哲学カフェの報告を投稿しましたが、その日の夜に、3月のティグレでの哲学カフェの報告を書いてくださった高木さんからも報告文をいただきましたので、こちらも投稿させていただきます。
前回に続き、参加者(学生)目線からのとても素敵な文章を寄せてくださった高木さんに感謝したします。 なお、ここ数回名古屋では、哲学カフェの模様を録音したうえで、なされた対話の質を検討するという新たなプロジェクトを始めつつあります。今回であれば、安田さんが録音データを聞いたうえでまとめてくださった対話レビューも存在します。よろしければこちらにアクセスのうえ、対話レビューのPDFをダウンロードしてみてください。
昨日の夕方に4/26の哲学カフェの報告を投稿しましたが、その日の夜に、3月のティグレでの哲学カフェの報告を書いてくださった高木さんからも報告文をいただきましたので、こちらも投稿させていただきます。
今回の哲学カフェは参加者の方の紹介で名古屋駅のカフェ・ぶーれで初開催となりました。大きな窓から春らしい名古屋の街並みを眺めつつ熱心に言葉を交わす姿はさながら部活動のようです。カフェ・ぶーれで開催する哲学カフェでは、哲学カフェでの活動を更に有意義なものにするにはどうすればいいか、対話はどういった形で進んでいるのか、どうしたら対話が進むかなど、哲学カフェに対する研究の場としての狙いもあるそうです。今回は“哲学”のイメージや取り組む上での姿勢などに関する確認に加えて、初めての小休憩が入るなど、試行錯誤を感じさせる一日となりました。
そんなカフェ・ぶーれでのメタ哲学カフェ1回目のテーマは「フィロソフィーとは何か?」。その日はまず“フィロソフィーという言葉に対するイメージ”について話し合うことから始まりました。
例)
・哲学というイメージで色々な人が集まってきている気がする(宗教、倫理、道徳、価値観など)
・自分が考えるもの(勉強するだけではない)
・考え方(答えや見方)がいくつかあるもの
などなど。特に“考え方(答えや見方)がいくつかあるもの”というイメージについては、哲学が多角的な提案や考え方がある一方で、それぞれの意見がそれぞれに正しいとする相対主義が進み過ぎてしまうと、そもそも話し合う意義が失われてしまうという指摘もありました。どうすれば哲学的に有意義な対話が出来るのか。今回の発案者である三浦さんは「答えよりも問いを重視すること。何に“?”をつけるのかが大切ではないか」とおっしゃいました。
続いての話題は、イメージ調査で出てきた「哲学はわかりにくい」という発言から“何故哲学はわかりにくいのか?”という哲学のわかりにくさについて考えることになりました。理論自体が難しいという指摘は勿論、使用される語句が難解であること、また語句の使用に対して神経質であること(例えば“芸術”と“芸術性”は似ているようで別のものを示している)など、私たちの日常生活における言葉の使い方とは異なっていることがわかりにくさに繋がっており、ハードルが高く感じられてしまうようです。一方「哲学がわかりにくいものだとするのなら、そのわかりにくさと向き合うことが哲学することではないか?」という反論もあり、わかりやすくすることによる変質にも注意が必要だと感じました。このわかりやすさについては、哲学について発信する人間が“哲学を学びたい人”と“哲学を第一に求めてきたわけではないが何らかの理由で接することになった人”どちらを対象としているかが、アウトプットに影響を与えているという可能性もあります。
哲学のわかりにくさについて話し合う過程で、では“わかる”とはどういうことかについても話が広がりました。私たちはわからない方が興味をそそられるかどうかということです。参加した方のイメージとしては、哲学は哲学を学ぶ人自体が“哲学はこうあるべき”という固い、一見さんお断りの印象があり、とっつきにくい。「考えればわかりそうなわかりにくさなら楽しめるが、難しすぎると考える気をなくしてしまう」というのは参加者の方の共感を得た意見だったと思います。“哲学は万の祖”と言ったのはアリストテレスですが、私たちにとっては哲学は遠い存在のようです。
そんな私たちが日常で哲学を感じる場面に、子どもからの“どうして?”があると話した参加者の方がいました。その方は普段から子供と接する際、向けられた質問に対して、自分なりに時間をかけて説明し、納得してもらうよう心掛けているようです。子どもの素朴などうしてに何故価値があるのかといえば、“普段適当に流している疑問に気付かせる”ことがあるからです。
この子どもを巡って、最初“責任能力がない(法律的子ども)”と“未成熟である(社会的子ども)”という存在として議論がされていたように思います。では哲学的子どもとはどういう存在かというと、“その分野で学び始め、素朴な疑問を抱き、質問出来る存在”だという話になりました。私たちは大人になるにつれ問うことへの恥ずかしさや、改めて訊くまでもないと思ってしまったり、質問することが苦手になっていく一面があります。しかし羞恥心や躊躇いを上回る“知りたい!”という気持ちは、哲学をする上でとても大切ではないでしょうか。素朴な質問が既に克服したと思われる理論の穴を指摘する可能性があることや、疑問が尽きない為に哲学が今日まで続いてきたとも言えると思います。一方で、哲学的子どもに対応して哲学的大人とはどういう存在かについても話し合われ、“疑問を洗練させていくこと、良い対話が出来る技術や態度などの生きた知識が身についていること”とされました。哲学に触れる際、私たちは好奇心旺盛な子どもとして、成熟した大人として両面を持ちつつ取り組んでいくのが良いのではないか。…と、無理やりにまとめたところで今回も時間切れでした(笑)
今回のテーマは、哲学カフェに色々なバックグラウンドを持った人が様々な物を求めて参加していることが改めて認識出来たと感じました。途中“哲学は学ぶものではなく、するものではないか?”という問い掛けがあったように、philosophyという言葉が愛智や希哲学とも訳されたことも踏まえると、本を読んで勉強するものというイメージよりも、もっと自由に広くそれを求める行為全てが哲学であると言えるのではないでしょうか。
以上のやりとりを総合して、一参加者として「日常の全てが哲学の対象になりうる。故にどのように問いを立て、どう答えていくかを重視するべきではないか」という感想を持ちました。具体的には“答えの内容に賛同できるかはともかくとして、なぜそのような答えになったかをきちんと説明でき、分かち合える状態を目指す”ということです。自分の意見が伝えられているか、他の仲間の発言に真摯に耳を傾けられているか、疑問を共有できているか。答えを出せばいいというものではなく、答えが出るまでの過程や方法も非常に大切だと考えます。そういう意味で、哲学は対話を愛する紳士淑女の趣味と言えるのかもしれませんね。良い話し合いが出来るようになることは哲学に触れる大きな意義だと思いますし、これからの活動を一層充実したものにするためにも、常に心掛けていきたいです。
2014/05/12
報告:哲学カフェ「フィロソフィーとは何か?」
三浦です。
先月から名古屋駅前のカフェぶーれでも、定期的に哲学的な対話の場を開いてゆくことになりました。昨日その2回目があったのですが、まずは4/26に行なわれた第1回目の報告です。遠方の大津からお越しいただいた参加者の方に、終了後その場で報告を書いていただきました。(名古屋ではここ最近、参加者の方々に報告をお願いしています。)「いまこの時代に、哲学カフェがなぜ求められるのか」、その理由が端的に記されていると思います。ぜひお読みください。
今日、参加して感じたことは、一つのテーマに対して色々な議論が出来る機会に対する嬉しさです。というのも、一つの意見にとらわれることはとても危険だと感じているからです。一つの事に固執しすぎて相手の意見を受け入れられないような考えを避けるため、多様な意見を聞き入れる事が良い事なのだと思います。
人には、「自分が正しい」と思って行動してしまうところがあり、哲学カフェは、何が正しくて何が悪いのか判断出来る良い機会だと思います。
哲学カフェという場所は、
① 今、コミュニケーション不足と言われる事がある中で、一人の意見がじっくりと聞ける場所であり、
② インターネットでの情報が多い中で、対話を通じて情報を精査出来る場所である、
と感じています。
このように一つのテーマが話せる機会は、貴重であると感じました。
ちなみに昨年の4月から定期開催している伏見のカフェティグレでの哲学対話とやや差異化を図るために、当分のあいだぶーれでは、「哲学カフェ」そのものをテーマにした、メタ哲学カフェを行なっていく予定です。また、近くには若松孝二監督が立ち上げたことでも知られるミニシアター・シネマスコーレがありますので、いずれはシネマ哲学カフェもぶーれで行ないたいなと考えています。
先月から名古屋駅前のカフェぶーれでも、定期的に哲学的な対話の場を開いてゆくことになりました。昨日その2回目があったのですが、まずは4/26に行なわれた第1回目の報告です。遠方の大津からお越しいただいた参加者の方に、終了後その場で報告を書いていただきました。(名古屋ではここ最近、参加者の方々に報告をお願いしています。)「いまこの時代に、哲学カフェがなぜ求められるのか」、その理由が端的に記されていると思います。ぜひお読みください。
今日、参加して感じたことは、一つのテーマに対して色々な議論が出来る機会に対する嬉しさです。というのも、一つの意見にとらわれることはとても危険だと感じているからです。一つの事に固執しすぎて相手の意見を受け入れられないような考えを避けるため、多様な意見を聞き入れる事が良い事なのだと思います。
人には、「自分が正しい」と思って行動してしまうところがあり、哲学カフェは、何が正しくて何が悪いのか判断出来る良い機会だと思います。
哲学カフェという場所は、
① 今、コミュニケーション不足と言われる事がある中で、一人の意見がじっくりと聞ける場所であり、
② インターネットでの情報が多い中で、対話を通じて情報を精査出来る場所である、
と感じています。
このように一つのテーマが話せる機会は、貴重であると感じました。
| 大津以外に三重県からも2名の方が参加されました。 |
ちなみに昨年の4月から定期開催している伏見のカフェティグレでの哲学対話とやや差異化を図るために、当分のあいだぶーれでは、「哲学カフェ」そのものをテーマにした、メタ哲学カフェを行なっていく予定です。また、近くには若松孝二監督が立ち上げたことでも知られるミニシアター・シネマスコーレがありますので、いずれはシネマ哲学カフェもぶーれで行ないたいなと考えています。
2014/04/28
報告:漫画de哲学「考えるとはどういうことか?」
三浦です。4/19にカフェティグレで行なわれた『ジョジョの奇妙な冒険』を題材にした漫画de哲学「考えるとはどういうことか?」(進行:奥田太郎さん)の報告を、愛知教育大学の教員養成課程(社会専攻)に在籍する望月今生さんが書いてくださいましたので、代理で投稿いたします。
1つのテーマについて、対話を通じて深く探求し合うこと。私はそれを中心的な活動とする集まりを作ろうと計画しているのですが、中々上手くいきませんでした。そんなとき、偶然インターネット上で見つけたものが、この哲学カフェです。そこでは、幅広い年齢層の方々が、哲学的な1つのテーマについて、対話を通じて深く探求し合う空間がありました。
今回は「漫画de哲学」第2回ということで、テーマは「考えるとはどういうことか?」。荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第二部(戦闘潮流)第12巻170貢が題材でした。参加者の方々の主張を全てまとめて、分かりやすく記述するというような芸当は私にはできないので、まず、ある言葉をピックアップしたいと思います。それは、「変化」という言葉です。この言葉に関係して、外界・内界の変化が無い、もしくは、その変化を知覚できなければ、考えるという行為は不可能であるという主張や、ただ変化があるだけではなく、その変化が「心のアンテナ(志向性?)」に捉えられなければ思考は働かないという主張がなされました。また、ただ変化を捉えるだけでなく、それを能動的に「意味」や「価値」に結び付けて認知することが考えることである、という一歩踏み込んだ主張もありました。このことを、「経験に構造を与えることである(構造化)」と表現した方や「自由」という概念に関係づけた方もおり、変化という言葉から多くの主張が生まれてきたように思われます。この変化を捉えるものは「意識」だけでなく、「無意識」もそれと同じように捉えるのではないか、考えることとは言語を前提としているのではないか、という指摘もありました。
個人的には、人間と人工知能の相違点を突き詰めていけば、今回のテーマに一定の回答を与えることができるのではないかと思います。例えば、意味や価値を人工知能が理解した場合、その人工知能は、人間と同じように考えることができると言えるのではないでしょうか。もちろん、人工知能が理解したその意味や価値は、人間がプログラムした人工のものであり、そうとは言えないという反論が出ると思われます。しかし、私たち人間が理解している、または、個人的に持っている意味や価値も、他者の手垢まみれであり、他者からプログラムされたといっても良いものではないでしょうか。なぜなら、他者の意味や価値からはっきりと分離している、または、それらの影響を受けていない私だけの意味や価値などは存在しないと思われるからです。このように考えた場合、人間と人工知能の相違点とは何でしょうか。この問いの答えとして、「人間と人工知能の決定的な相違点は、『意志の有無』である」という主張がありました。考えるとは、その根底にきわめて人間的な「意志」を持っているのかもしれません。
| 今回から「哲学カフェ、やってます」のボードが登場! |
今回の最後では、参加者の方々が1人ずつ、「考えるのをやめたカーズ」とはどのような存在であるかについて発言する時間があり、カーズはもう生物ではなく物体であるとする主張や、カーズは人間を超えた存在であるという主張がなされました。特に、そのカーズを「苔」のようなものであるとする主張が記憶に残っています。
今回の漫画de哲学において、「考えるとはどういうことか?」という問いに対して、明確な答えというものを見つけることはできなかったと思います。しかし、参加者の方々が年齢や立場を気にせず、1つのテーマについて真剣に対話し合うという体験は、とても意義のあるものであると思いました。私は学生という立場なので、普段、幅広い年齢層の方々と対話する機会がありません。大学の演習室では生まれない主張、観点に触れることができ、とても貴重な体験をしたと思います。ご一緒してくださった皆様、ありがとうございました。
| ティグレでは終了後に任意でランチを食べたりしています。ある 参加者の方曰く、「このランチの時間が哲学カフェで生じた言い 足りなさやモヤモヤを解消するよい装置になっている」のだとか。 この日も1時間半にわたり「アフター哲学カフェ」がなされました。 |
前回に引き続き、今回も哲学カフェ初参加の方による新鮮な眼による報告文でした。突然の申し出にもかかわらず快諾して下さった望月さんに深く感謝いたします。ありがとうございました。
2014/04/14
報告:哲学カフェ「人は何に芸術性を感じるのか?」
三浦です。先月22日に行なわれた哲学カフェの報告を、高木美歩さん(南山大学総合政策学部 哲学ゼミ所属)に書いていただきましたので、代理で投稿いたします。
知人から哲学カフェという存在があることは聞いて知っていましたがどのように運営されているのかはわからず、どきどきしつつ初参加させていただきました。当日は駅から近い喫茶店に、大学生からご年配の方まで様々な方が集まっていましたが、皆さん哲学という共通点で結ばれているということが面白いと感じました(哲学を学んでいますが、非常にマイナーという印象があります…)。
今回のテーマは「人は何に芸術性を感じるのか?」。安田さんの進行で話し合いが始まりましたが、すぐに「芸術」という言葉の含む対象の広さ、そして各参加者の方の持つイメージの多さに気づかされました。また色々なバックボーンを持った参加者の方のお蔭で、伝統的な手法などを学習した上で実践されるもの(技術の洗練)と技法などによらず個人の発想や意志を表現すること(自己表現)という「権威」と「個人」という軸、また所謂芸術作品や伝統芸術などが脈々と残る傍ら、制作されても残らずに消えていくものの存在から、“芸術”になるまでには“時空のスクリーミング”が必要という解釈が提示されました。これは良いものは長く残るという発想ですが、他方で演奏などの即興芸術やどんなに制作者の意図を熟知している人間でも完全な再現は不可能であるというライブ感という二つの軸も対立していたように感じます(例えば、演奏会を録音したCDとは?)。そしてもう一つ、作品の価値は制作者の意図とは別に鑑賞者によって決められるという可能性です。作品は制作者の意識の表現ですが同時に誰かに見られる存在でもあるという指摘もあり(道具と芸術品の違いとは?)、付随して金銭的な評価をどう考えるべきかという議論も盛んだった印象です。
この芸術性と相対する際に発生する評価軸を考える上で、個人的にジョン・ケージの“4:33”やマルセル・デュシャンの“泉”は私たち鑑賞者と制作者、権威と発想の軸を示唆する良い題材だと感じました。
また、今回のテーマが“芸術性”であって“芸術”ではないことについても、最初にもう少し丁寧に言葉の整理をすべきだったのかもしれません。ただ終盤に出てきた「“芸術性”は多くの作品が少なからず持っているが、“芸術”になるかどうかは洗練が必要ではないか」という指摘は、暫定的なまとめになるのではないかと思います。
盛り上がってきたところで時間切れとなってしまいすっきりした終わりとはなりませんでしたが、芸術経験や関心のある方ない方様々いる中で、皆さんがそれぞれの立場から活発に発言されていたことが、私たちが生活の中で芸術に対して何らかの関心を持っているという表れのように思いました。
また今回のディスカッションを通して、これから「芸術」と向き合う際には自分が何に「芸術性」を感じているのかということをより深く考えつつ味わう、良いきっかけになったと感じます。このように、そのままでは漠然としている自分の価値観が、話し合いや他の人の意見によって整理されていくのは、哲学の面白さであり快感ではないでしょうか。また、集まった参加者がリラックスしつつも一つのテーマについて真剣に知恵を巡らせるというのもなんとも言えない充実感があると思います。
哲学カフェでは普段学生をしていると接する機会のない年齢や職業の方々と初めてお会いしましたが、会話が弾み、楽しい時間を過ごすことが出来ました。議論の最中も聞きなれない専門用語が飛び交うわけでもなく、生活の中で感じていることを立ち止まって論理的に考えてみようという頭の体操になる時間ですので、まさにカフェに立ち寄る気分で参加できます。普段何かと「気難しい・おカタい・ややこしい」イメージを持たれがちな哲学を学ぶ人間の一人として、哲学カフェを通じて気軽に哲学に親しんでもらえるととても嬉しいと思います。私自身、新しい発見の為にもこれからも参加していきたいです。ご一緒してくださった皆様、ありがとうございました。
| 2013年の4月から開始したティグレでの哲学カフェも 早いもので丸一年がたちました。 |
就職活動の真っただ中でお忙しいなか、南山の学生さんということで教員の奥田さんに「報告書いて!」とムチャ振りされ、それを快く引き受けてくださった高木さんに感謝申し上げます。
高木さんも最後に書かれていますが、老若男女が集まる哲学カフェの場は、学生の方々にとって「学校のなかでは接する機会の少ない大人たち」と言葉を交わせる貴重な機会だと思います。学校の先生からよりも多くのことが学べるかもしれませんよ。
2014/03/03
報告:漫画de哲学「ミノタウロスの皿」
三浦です。先日行われた漫画de哲学の報告を安田さんが書いてくださいましたので代理で投稿いたします。
なお、当日に進行役が用意した配布資料は、哲学カフェ@名古屋のホームページ上に置いてありますので、参照してみてください。
去る2月22日(土)、名古屋伏見のカフェ・ティグレにて、「漫画de哲学」というシリーズの第一回となる哲学カフェが開催されました。これは、哲学カフェ@名古屋が2014年から始める新企画で、テーマとなる漫画作品を皆で事前に選んでそれについて哲学的に語り合おうという趣旨のものです。
記念すべき初回のテーマは、藤子・F・不二雄作の「ミノタウロスの皿」。人数的には(進行含めて)17人という盛況ぶりでした。大学生から定年退職された方まで含む、ほどよく雑多な集団だったと思います。尚、某新聞社の記者の方が取材目的で参加して下さいました。記者氏の存在もまた、対話の場に独特の公共性の空気を生んでくれていたように思います。よき効果だったと思います。当日は、進行役が用意した配布資料をもとにまず作品の背景やあらすじなどを説明してからの対話スタートとなりました。
記念すべき初回のテーマは、藤子・F・不二雄作の「ミノタウロスの皿」。人数的には(進行含めて)17人という盛況ぶりでした。大学生から定年退職された方まで含む、ほどよく雑多な集団だったと思います。尚、某新聞社の記者の方が取材目的で参加して下さいました。記者氏の存在もまた、対話の場に独特の公共性の空気を生んでくれていたように思います。よき効果だったと思います。当日は、進行役が用意した配布資料をもとにまず作品の背景やあらすじなどを説明してからの対話スタートとなりました。
「ミノタウロスの皿」は、肉食、ないし、他生命を食すること一般についての、その倫理的是非についての議論をいかにも喚起するような物語です。しかし、この日の対話は、意外にもそちら方向にはあまり向かいませんでした。かわりにこの日の対話に終始流れていたのは、
「自分(達)とは異なる価値観を持つもの(達)」を「理解」することの難しさ
というような問題意識でした。いわば「他者理解」の難しさ、です。後半ではこのテーマからさらに発展して、公共の場面での「他者同士の対立」をどう解決すればよいか、どのように解決しうるか、何を持って「解決」とするのか、のような議論が出てきました。(注:「他者」という言葉自体は当日の対話には出てきませんでしたが、この後の報告の便宜上、この言葉を導入しておきます。)
しかし、振り返ると、「他者理解」の問題へと対話がフォーカスしてゆく際の前提の構造に非常に興味深いものがあったと思われるので、この報告はこの前提構造に集中したいと思います。(これ以降、配布資料中のあらすじが読まれている前提でこの報告を進めさせていただきます。)
というような問題意識でした。いわば「他者理解」の難しさ、です。後半ではこのテーマからさらに発展して、公共の場面での「他者同士の対立」をどう解決すればよいか、どのように解決しうるか、何を持って「解決」とするのか、のような議論が出てきました。(注:「他者」という言葉自体は当日の対話には出てきませんでしたが、この後の報告の便宜上、この言葉を導入しておきます。)
しかし、振り返ると、「他者理解」の問題へと対話がフォーカスしてゆく際の前提の構造に非常に興味深いものがあったと思われるので、この報告はこの前提構造に集中したいと思います。(これ以降、配布資料中のあらすじが読まれている前提でこの報告を進めさせていただきます。)
次の三つが「他者理解」の問題意識の前提として対話の場に共有されていたと思います。
(1)イノックス星と地球とでは価値観が異なっている。
(2)イノックス星でのズン類とウスの関係は、地球での人類と牛の関係を反転させたものにすぎない。(ズン類たちと本質的に同じことを人類もしている。)
(3)ミノアやイノックスの有力者ばかりでなく、主人公もまた、自分(達)が慣れ親しんだそれぞれの価値観の「正しさ」について、物語最後のシーンまで、ついに全くブレていない。
これらが前提として共有されたうえで、対話は「他者理解の難しさ」という方向に向かった、と言ってよいと思います。
しかし、よく見ると、(1)と(2)は、ある意味では矛盾しています。「ズン類たちと本質的に同じことを人類もしている」のであれば、少なくともこの両者(イノックスのズン類と地球の人類)はある意味では同じ「価値観」を持っている、と言えそうだからです。ここに見られる差は、いうなれば、ただの「立ち位置」の差であり、この意味での「価値観」の差ではない、ということです。(あくまで(2)が正しければ、ですが。)
この意味の「価値観」では、同じイノックス星の住人同士であるズン類とミノアたち(ウス)の間にこそ「価値観の違い」がある、と言わざるを得なくなります。「食べられて死ぬことはただ死ぬことより尊い」という「価値観」は、ズン類にはきっとないだろうからです。少なくとも、(前提(2)によればズン類の鏡写しであるらしい)人類には、主人公の行動が示すように、この「価値観」はありません。この意味では、主人公とイノックス有力者はまったく「他者同士」ではありません。ウスたちが、彼らにとって共通の「他者」です。もちろん、別な意味では、ミノアたちウスとズン類は同じイノックス星の「価値観」を共有していて、地球人類である主人公がただ一人異なる「価値観」を持つ「他者」です。
しかし、よく見ると、(1)と(2)は、ある意味では矛盾しています。「ズン類たちと本質的に同じことを人類もしている」のであれば、少なくともこの両者(イノックスのズン類と地球の人類)はある意味では同じ「価値観」を持っている、と言えそうだからです。ここに見られる差は、いうなれば、ただの「立ち位置」の差であり、この意味での「価値観」の差ではない、ということです。(あくまで(2)が正しければ、ですが。)
この意味の「価値観」では、同じイノックス星の住人同士であるズン類とミノアたち(ウス)の間にこそ「価値観の違い」がある、と言わざるを得なくなります。「食べられて死ぬことはただ死ぬことより尊い」という「価値観」は、ズン類にはきっとないだろうからです。少なくとも、(前提(2)によればズン類の鏡写しであるらしい)人類には、主人公の行動が示すように、この「価値観」はありません。この意味では、主人公とイノックス有力者はまったく「他者同士」ではありません。ウスたちが、彼らにとって共通の「他者」です。もちろん、別な意味では、ミノアたちウスとズン類は同じイノックス星の「価値観」を共有していて、地球人類である主人公がただ一人異なる「価値観」を持つ「他者」です。
こうして振り返ってみると、この日の対話の暗黙の中心テーマとなった「他者」概念にはこのようなあいまいさがずっとついてまわっていた感がありました。報告者自身、この報告を書くためにこの日の対話をじっくり振り返ってはじめて気づきました。
レビュワー:安田清一郎
なお、当日に進行役が用意した配布資料は、哲学カフェ@名古屋のホームページ上に置いてありますので、参照してみてください。
2014/01/28
報告:哲学カフェ「「偉人」とは誰か?」
三浦です。先日行なった哲学カフェの報告を、進行役の奥田太郎さんが書いてくださいましたので、代理で投稿いたします。ぜひ、みなさんも以下に示された論点(とりわけ問いのかたちになっている6つ)について、各自で考えてみてください。
2014年1月25日、名古屋伏見のカフェ・ティグレにて、「偉人」とは誰かをテーマとする哲学カフェが催されました。参加者は、十数名。哲学カフェをするには良い加減の人数でした。
まずは冒頭、「「偉人」の定義とは何か」という問いから口火が切られました。そこから、“世のため人のためになることをやった人”が「偉人」と一般には呼ばれているけれど、誰を「偉人」と呼ぶかは、“誰にとって”という視点なしには語りえない、という指摘が出されました。たとえば、私にとっての「偉人」やあなたにとっての「偉人」というのは比較的特定しやすいのに、社会や国家にとっての「偉人」ということになると、とたんに特定が難しくなります。ある国の「偉人」は、別の国では大悪人かもしれません。そう考えると、同じ人物が複数の人に「偉人」と呼ばれるのはそれほど簡単なことではないと思われます。この筋の議論は、その後、「偉人」の社会的機能をめぐる一つの論争系を形成することとなりました。
「偉人」と呼ばれる人物を特定するのが困難だとすれば、「偉人」と呼ばれるための共通の条件はありうるのでしょうか。この問いに対して、「個人的な思想を貫く姿勢を見せた」、「たくさんの人を助けた」、「前人未到のことを成し遂げた」といった条件が挙げられました。ここから、「偉人」の条件についての具体的な見解が参加者相互で微妙に異なっていることが露になり、「偉人」の評価基準をめぐるもう一つの論争系が形成されることになりました。
こうして対話は、二つの論争系を行きつ戻りつしながら、人格を評価するとはいかなることかという哲学的な問いへと導かれて行きました。進行役として私が整理しえた論点のみを論争系別に分けて、以下に示しておきます。
2014年1月25日、名古屋伏見のカフェ・ティグレにて、「偉人」とは誰かをテーマとする哲学カフェが催されました。参加者は、十数名。哲学カフェをするには良い加減の人数でした。
まずは冒頭、「「偉人」の定義とは何か」という問いから口火が切られました。そこから、“世のため人のためになることをやった人”が「偉人」と一般には呼ばれているけれど、誰を「偉人」と呼ぶかは、“誰にとって”という視点なしには語りえない、という指摘が出されました。たとえば、私にとっての「偉人」やあなたにとっての「偉人」というのは比較的特定しやすいのに、社会や国家にとっての「偉人」ということになると、とたんに特定が難しくなります。ある国の「偉人」は、別の国では大悪人かもしれません。そう考えると、同じ人物が複数の人に「偉人」と呼ばれるのはそれほど簡単なことではないと思われます。この筋の議論は、その後、「偉人」の社会的機能をめぐる一つの論争系を形成することとなりました。
「偉人」と呼ばれる人物を特定するのが困難だとすれば、「偉人」と呼ばれるための共通の条件はありうるのでしょうか。この問いに対して、「個人的な思想を貫く姿勢を見せた」、「たくさんの人を助けた」、「前人未到のことを成し遂げた」といった条件が挙げられました。ここから、「偉人」の条件についての具体的な見解が参加者相互で微妙に異なっていることが露になり、「偉人」の評価基準をめぐるもう一つの論争系が形成されることになりました。
こうして対話は、二つの論争系を行きつ戻りつしながら、人格を評価するとはいかなることかという哲学的な問いへと導かれて行きました。進行役として私が整理しえた論点のみを論争系別に分けて、以下に示しておきます。
(論争系1)「偉人」の評価基準:
論点A:「偉人」の「偉さ」は、人に限定される属性なのか否か。
論点B:「偉さ」の評価軸は複数ある。たとえば、マザー・テレサとベートーベンでは、異なる軸でその「偉さ」が評価されている。
論点C:「偉さ」の評価基準には、時代的な相対性と地域的な相対性があるが、そのブレ易さには差がある。たとえば、政治に関わる「偉さ」はブレ易いが、芸術に関わる「偉さ」はブレにくい。
論点D:「偉さ」の評価が向けられる対象は、一つ一つの行為なのか、あるいは、一人の人間の全人格なのか。通常誰かが「偉人」と呼ばれる場合、それはその人の全人格に向けられた評価である。・・・(仮説)個々の行為に注目すると相対的な有益性に左右されがちになるので、全人格に目を向けるのではないか。
論点E:お金をもっていること自体は、「偉さ」を形成するか。
(論争系2)「偉人」の社会的機能:
論点F:現代において「偉人」は可能か。現代の子どもたちにとっては、「偉大」ということ自体が不明確に感じられているのではないか。
論点G:「偉人」という偶像を生み出すメディアの変化による影響が大きいのではないか。
・ ウェブ社会では、一人の「偉人」は生み出されない。むしろ、誰もが自分こそ「偉人」と思うことができる。
・ マスメディアにおいても、『プロジェクトX』のように、「偉人」よりむしろ、「偉業」を成し遂げた“普通の人”が称揚される時代。・・・(仮説)経済的格差の捉えられ方、個人のかけがえなさの捉えられ方などの変化に対応しているのかも。
→論点H:「偉人」の存在と、個人のかけがえなさの積極的肯定は、両立しうるのか。・・・かけがえなき個人としての個々人の責任の重責化。
論点I:「偉人」がいない社会はありうるのか。
→論点J:「偉人」の実在論/反実在論。
・ 社会の共有価値による方向づけを受けながらも、最終的には個人による自由な選択によって誰が「偉人」かが特定される。
・ どんな人にとっても共通の「偉人」というものはありえないのか。・・・そのような共通の性質があるとすれば、誰もが共通に必要とするものであり、誰もがなしうるものでしかありえないだろうから、希少性がなく、「偉人」の「偉人」たる価値がなくなってしまう。
レビュワー:奥田太郎
| この日の参加者は14名。 徐々に名古屋でも哲学カフェの土壌が形成されつつあります。 |
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