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2011/01/27

お知らせ:2〜3月の中之島哲学コレージュ

 たかはしです。久しぶりの投稿になってしまいました。最近私はインフルエンザにかかってしまい、三日寝込んでいました。インフルエンザ自体も大変でしたが、病院で「高熱がある」と申告した瞬間に(仮)保菌者としてすっかり隔離体制を敷かれた(別の部屋に連れて行かれ、投薬と会計もそこでしました、私に薬を渡しお金を受け取る担当者はビニールエプロンと手袋を完璧に装着されていました)ことには非常に驚きました。確かに意味はよーくわかるのですが、「隔離」って、されるほうにとっては微妙にいやなものです。これもいつか哲学カフェのテーマになるでしょうか。

 ところで、2~3月の中之島哲学コレージュの企画(たかはしが企画を担当しました)は「言葉と/で・・・」というちょっと変わったテーマです。
 哲学カフェに来られる多くのみなさんは、論理的な言葉遣いにたけておられる方、ご自分の伝えたい事を率直にズバッと伝えることのできる方も多くいらっしゃるのですが、今回はあえて「きちんと組み立て、適切に伝える」こととは別の、言葉の持ついろいろな力についてみなさんと考えてみたいと思っています。考えるだけではなく、言葉をいろいろこねくり回す実践もしてみたいと思っています。

 第一回目は2/2(水)の「言葉で傷つくということ」です。これは豊中国際交流センターで一度取り上げられたテーマなのですが、面白いテーマだと思ったのと、場所やメンバーがちがうと同じテーマでも違う内容になるかな、と思い、再演(?)することにしました。
 第二回目は27(日)の「言葉のスケッチ」です。こちらのほうは、盲目の美術家光島さんとのコラボ企画で、私もすごく楽しみにしているものです。光島さんは以前もコレージュにゲストで来ていただいた事があるのですが、視覚に障害があるにも関わらず、いろいろな物や人から感じる音、手触り、印象をかたちと色にして作品をつくっているアーティストです。今回は光島さんのたっての希望で、テーマに関して参加者のみなさんにお話していただきながら、そこに出された言葉を、その場で光島さんが作品にするということに挑戦していただきます。またその出来たイメージについての皆さんの意見も聞きたいそうです。参加者のみなさんには、テーマについていろいろな言葉をひねりだしていただいて、光島さんにはその言葉からイメージをひねりだしていただく、というクリエイティブな時間になりそうです。
 まだ何をテーマにしてみなさんと光島さんに「言葉のスケッチ」をしていただくかは決まっていないのですが、とても面白いものになりそうです。

 3月の企画もぼちぼち出来上がりつつあり、一つは、「ソクラテスの対話篇」の朗読上演、というのを考えています。プラトンが書いたソクラテスの対話を、文字ではなく、声で味わうという企画です。声で聴くと内容もちがって聴こえたり、新しいソクラテスが見えてきたりするのかなあ、と期待を持っています。
もう一つの企画は、大阪らしく「言葉と笑い」「言葉で笑かすこと」について何かできるといいなあと思っています。いずれも乞うご期待です!

2011/01/18

グリグラ哲学カフェ「人はどんなときに楽しいと感じるか?」

まつかわです。
今日は朝から、育児サークル〈グリーングラス〉の哲学カフェへいってきました。

北鈴蘭台には、雪がのこっていました。寒い!

参加者は、途中参加もふくめて8名。そのうち、初めて参加する方が1名。
テーマは、「楽しいことをしなさいと言われたけれど、楽しいことをしなきゃと思うと楽しめなくなってしまう」という話題から、「人はどんなときに楽しいと感じるか?」になりました。

始める前から「難しそうなテーマだな」とは思いましたが、やはり難しかったです。

話しているうち何度も「楽しい」じゃなくて「うれしい」や「満足」の話になってしまいました。でも、ある程度持続性をもつ「楽しい」と瞬間的な「うれしい」はちがうし、結果に「満足」したからといってそのプロセスが「楽しい」とは限らない。
さらには、「あ、いまテーマから脱線したのが楽しかった!」なんて声がでる始末。

そのうち、そのつかみどころのなさが、「楽しい」の特徴ではないかとも思えてきました。
出来映えや満足などの結果、義務や責任感にとらわれたとたん消えてしまうもの。
なのに、「楽しむこと」自体を第一目的にしたとたん、見えなくなってしまう凹みのようなもの。
それが、「うれしい」とも「満足」ともちがう「楽しい」の特徴かもしれない。

「気になること、一番大事なことから外れることが楽しい」
「楽しいことをしなきゃとおもうと楽しめないけど、子どものためにと出かけた先で自分も楽しめることがある」
そんな話に耳を傾けながら、初めて「『楽しい』という凹み」に思いをめぐらした1時間半でした。



以前はインスタントでしたが、
メンバーのご好意により
コーヒーがレベルアップしました。

テツドク!源信『往生要集』

1月14日、さする庵にて「テツドク!」を開催しました。参加者はスタッフ含めて11名。
紹介者の長谷川さんの話は、説法を聞いているようで心地よく、充実した時間でした。

2011/01/16

哲学カフェ/『苦しみってなんだろう?』

熊です。

とよなか国際交流センターで『苦しみってなんだろう?』という
テーマで哲学カフェをやってきました。

思えば、センターとの付き合いも長くなってきました。
今回も充実した議論だったと思っています。

近頃、ALSという難病の患者さんたちと偶然付き合うことになりました。
あるとき、こんなことが言われました。

「精神的な苦しみということがあります。尊厳死、尊厳死なんて言うの
ではなくて、そういう苦しみをケアすることのほうがはるかに重要だと
思うのです」。

この言葉が引っかかって、そのままテーマにした、と口火を切りました。
大まかには、「苦しみとは何か」と「他人の苦しみを受け取ることはできるのか」という二つの問いかけが繰り返し問われた、と思います。

何を「苦しみ」と捉えるのかは、人によって異なっている。
でも、受け取ってもらいたい、という意味では「苦しみ」は同じなのでは?
いやいや、「苦しみ」は受け取ってもらえないから、苦しいんだ。
「わかった」なんていう安っぽい言葉で、分かったフリをされるほど、
苛立つことはないでしょう?

我々は、苦しみそのものを、手で掴んで他人に見せることができない。だから、言葉で表現して、それを受け取ってもらうしかないのだ。
でも、もし、言葉で受け取ることすらできないなら……我々は苦しんでいる
人の傍らにただ、「いる」ということしかできないのではないだろうか。

苦しみには、身体的なもの、精神的なもの、社会的なものがありますよね?
いやいや、生きていることそのものが苦なんですよ。
食うか食われるかという生き物としての苦しみがあるだけで、文明によって
それが隠されているだけなんです。
……そんなことはないです。体の痛みだけが苦しみであって、他のものは
そこから派生しているだけじゃないですか。
いわば、我々は「苦しみ」という言葉で指せる何かを、言葉があることで
理解している。とすれば、苦しみとは後天的に習得されるものによって理解
される何ものかではないのだろうか……

今回は、偉大なテツガク者たちが、何人かの人たちに、だぶって見えました。
楽しかったです。

さて、何名かテレビの放送を見て、急いで駆けつけたという方も。我らが広告塔、鷲田さんのすごさを思い知った限りです。
それでは、また。


(写真は2010年11月20日開催
ことばで「傷つく」って?」から
進行役 金和永(大阪大学文学部))
*写真の無断転載を禁止します

2011/01/13

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2011/01/11

あけましておめでとうございます。

まつかわです。
今年もカフェフィロ&diaryをよろしくお願いします。

ご挨拶のついでに昨年イベントに参加してくださった方の感想もご紹介しちゃいましょう。
昨年12月に豊中人権まちづくりセンターで開催した哲学カフェ「レディースデーは差別か?」の感想です。

 
皆よくしゃべった。20人、上手くおさまった、寒い平日初めてなのに(60代男性)
 
区別→意図がある、だから「ちがい」という言葉の方がいいという意見が参考になりました。違うから差別、違うから尊重、この分かれ目って何?(60代男性)
 
意見を言ってくれたのが難しいのもあった。正解がないことを考えるのは難しかった。色々な意見がおもしろかった。(20代男性)
 
レディースデー1つとっても男女差別を考える材料になるとは思っていなかった 
のでおもしろかった。(20代男性)

発言の中で、自分の考えが深まっていくのを実感することができる場でした。

今年も、豊中人権まちづくりセンターのほか、さまざまな場所で哲学カフェや書評カフェ、メディカルカフェ、「テツドク!」などを開催していきます。
詳しくはカフェフィロHPをご覧ください。

みなさんのご参加、お待ちしております。




2011/01/10

シネマ哲学カフェ/『海炭市叙景』

熊です。

今年も始まりました、
シネマ哲学カフェ。
参加者は9名。
新年早々、
ありがとうございました。

とりあげた作品は『海炭市叙景』。
新聞に取り上げられたらしく、すごい人でした。

41歳で自殺した不遇の小説家、佐藤泰史の未完の短編小説が原作の映画。仕事、家族、土地などいろいろなトラブルを抱えるひとたちが淡々と描かれていく作品で、予想していたよりも激しいシーンが多く、観た後は、なんだか心が砕かれたかんじがしました。

(映画を観ていないかた、この下は映画の内容が記載されています。読みたくない方は、気をつけてください)。



さて、ストーリーは手抜きしてパンフレットからの引用です。

その冬、海炭市では、造船所が縮小し、
解雇されたふたりの兄弟が、なけなしの小銭を握りしめ、
初日の出を見るために山に登ったのです…。
プラネタリュウムで働く男は妻の裏切りに傷つき、
燃料店の若社長は苛立ちを抑えきれず、
父と折り合いの悪い息子は帰郷しても父と会おうとせず、
立ち退きを迫られた老婆の猫はある日姿を消したのです…。

というのが、大筋なのですが……って、最初の兄弟はふたりとも解雇されてたんかい!? カフェの中で、その話も出たのですが、解雇されたのは兄貴だけという結論に至っていました。途中で、あの二人の兄弟のことを夫婦だと思っていたという人もいました。それぐらいべったりの兄弟です。

基本的な情報の読み違えが起こるほど、説明が少なく淡々とシーンが映されていきます。

そして、どの人物も何かに縛られるかのようにして、海炭市という街の中で「やり場のない想い」を抱えて、どうしようもなくなっていく。

解雇された兄は「自分には船しかない」と考えて崖へ向かい
プラネタリュウムの男は「家族」を元通りにするために裏切った妻を追い
ガス屋の若社長は「社長」でいるために浄水器売りを引き受け
その妻は「幸福」を求めて継子に暴力をふるう
浄水器売りの男は、自分の「平凡さ」を振り払うために失敗し
老婆は立ち退かず、工事が始まる。
(これはパンフの引用ではありませんが)

それぞれの人物像が、それぞれに失った幸福、かつてあった希望にがんじがらめになって、物語の悲しみは増していく。しかし、その姿は海炭市で起こっているにせよ、どこで起こってもおかしくない失敗ばかり。

ただ、それぞれの人物が交錯する路面電車の映像が、海炭市の映像がさほど美しくなかっただけに、輝いて映し出され。困難な状況のなかでも「生きていかねばならないこと」を告げるかのよう。
最後のシーンで、老婆のところに、去っていた猫が妊娠して帰ってくる。老婆がそのすべてを「受け入れる」。俺が面倒みてやるよ。




この作品の評価はけっこうばらつきました。
よかった!という人も入れば、うーんいまいちという人も。
僕は、ついつい佐藤泰史作品集を買ってしまい、これから読もうかなーと思っている次第です。この辺にしておきます、それでは、また!