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2011/07/02

唸る。

本当に暑い毎日が続きますね。みなさま体調など崩されてませんでしょうか。私は瀕死です。

遅くなりましたが、6/13、さする庵で哲学カフェを開催しました。ふだんは〈テツドク〉を開催しているのですが、気分転換に哲学カフェも開催することがあります。「おひとりさまの自由と不自由」というテーマに、23名の方がいらっしゃいました。ちょっと驚きました。半分以上が初参加ですからさらにびっくりですね。椅子を追加し部屋はつめつめでした。当日の様子はさする庵HPをご覧下さい(→ こちら)。前半、私とスタッフの樫本さんはキッチンに立っていました。

「テーマに惹かれてくるんですかね」とスタッフと話していたのですが、そうなんでしょうか。最初に秋田さん(さする庵オーナー)と打ち合わせた際に出たテーマは少し違って「単独世帯の行方は?」でした。そこから少しくずし、今回のテーマを設定してます。みなさんだったらどんなテーマにするでしょうか。あるいはもとのままでしょうか。




「私は最終的には妻といろんなことをわかりあえるようになりたいし、そうなるように努めている」。

おひとりさまという生き方が現実にもつ意味合いは、男か女か、妻か夫かによって大きく違う。そんな話が続く中で、すっと手を挙げ、およそそのようにおっしゃった参加者がおられました。

正直、唸ってしまいました。たぶん私が同じことを言えば「やれやれ」と諭される一幕ですね。ただ、下を向き、丹念にメモをとっておられたその中高年男性が、その時、そのタイミングで、そのように正面切って、でもぼそっと話したその姿に、唸るほかなかったのです。「ほぉ・・・」という他の参加者の声も、いろんな表情とともに、聞こえたきがします。

その発言の中身がすばらしいかとか(→わかりあえるわけがないというのが大勢でした)、哲学的にどうかとか(→たぶんどうもこうもありません)、そういうこととは別のところで、聴く人の応えを待つ言葉がその場に生まれることがあると思います。途上の答えられていない問いを精査していくのが本筋だとして、道中脱線を承知しながら素通りできない言葉にふと応じてしまう、道草を食う自分なりの哲学カフェの楽しみ方を、久しぶりに経験した気がしました。*もちろん脱線したのは話者ではなくて、聴いていた私の側でのことです。

いま垂直跳びをしている人がいて、一方でその距離を測ろうとして、高さを正確に測定したり、跳躍距離を伸ばそうとしたり、はかりに間違いがないかどうかを確認しようとしたりしている人がいる。他方でそんなことをほっぽりだして、その場で一緒にぴょんぴょんジャンプし始めてしまう人がいる。そして、ときどき後者に目が釘付けになってしまって、何かを見ることがそこから目線を逸らすという仕方でしかできなくなってしまうことがある。たとえるとそんな感じでしょうか。うまくたとえられてないですね。要するに、素通りできない何かをその人の言葉と姿勢に感じとってしまったという、中身とは別の私の個人的感想なんですが。

話がずれてきました。結局何が話されたのか読み手には不明のままで申し訳ありません。最後の方はこんな話です。「家族だろうが、知人だろうが、誰だろうが、おひとり様も響き合うだれかがいなければ生きていけず、自由ではない」。参加者の多くが大筋で一致した意見ですが、響き合うとは何なのか。わかるようで、わからない。しかし、わかりあうでもなく、話が噛み合うでもなく、すれ違いながら、すれ違いざまに響き合ったり、一緒にジャンプしはじめたり、目が釘付けになり耳がダンボになり、大きな関心はないけど無関心ではいられなくなったりする、そんな関係性のことだと考えて良いなら、寄り道する道すがら思ったことと話はどこかでつながっているのかもしれません。

ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。/ くわばら