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2011/10/31

学校と教育を考えるカフェ「学校文化」

こんにちは、まつかわです。
カフェフィロ正会員の寺田さんより、10月22日に開催された「学校と教育を考える哲学カフェ」の報告が届きました。(寺田さん、ありがとうございます!)
さっそく、ご紹介させていただきます。




ぼくは日ごろあまりカフェの報告を書きません。「哲学カフェの対話はその場かぎりのものだと考えているから」と、ふだんから言っているし、それはただの言い訳にすぎないわけでもないのですが、対話の内容を振り返ってみることの意味を否定するものではありません。そこで、今回は珍しく報告を書いてみます。

いつものCafé Klein Blueに15人くらいの参加者。現役の教員もおられました。学校と教育を考えるカフェは一般的なテーマのカフェより、参加がいつも少なめです。
今回のテーマは「学校文化」。
最初学校文化と聞いてイメージすることを自由に話してもらいながら、問いを見つけることにしました。
校則、学校行事、学校で身に付けた独特の物の考え方・行動の仕方が社会生活にも影響すること、「楽しいところだ」と言わせられるところ、閉じられた領域、個人よりも集団が優先される教育、など思い思いのイメージが次々とあげられていきます。そのうち、学校文化は変わっているのかいないのか、世代の違いによって学校文化の経験が違うのではないか、という問いが出たので、昔と今とで違っている点を述べあってみました。その結果、学校文化は、小さいところでは変わっているが、大きなところでは変わっていないという結論が出ました。しだいに、個人よりも集団が優先されるというところから、個性を尊重する文化がないということが話題の中心になっていきました。

そこで、とりあえず「学校で個性を育てる教育は可能か、それが不可能であるとすれば、学校が閉じられていることと関係があるか」という問いを進行役から提案しました。すると、「個性」の意味があいまいなので暫定的に「個性」の意味を規定しようという提案があったので、しばしやりとりの末「自分の考え・感じ方を表現できる力」と暫定的に規定して対話を再開しました。

また、学校は閉じらているというが、それは確認されたのかという疑問が出されたので、それについてしばらく話しました。その結果、外来者が入りにくい、教員の移動が少ない、構成員のほとんどが学校という社会しか知らない人々である、子どもの拘束時間が長い、学校のなかにも学級という閉じられた空間がある、という多重の意味で閉じられている、ということで意見が一致しました。

閉じられていて多様性に乏しい空間では、自分の個性に気づく機会も少なく、自分を表現する動機も雰囲気も生じにくいという発言ある一方、個性的であることは、閉じられている・いないにはかかわりがない、という意見の応酬。異なった意見に対する批判が人格攻撃だととられることが多く、それが自分を表現することを妨げている、意見は違っても一緒にいることができるという文化がない、などいろいろな考察が次々と披露されました。

やがて「なぜ」と問われなければ自分が本当は何を考えているのかもわからないし、自分を表現することもできない、という意表を突く意見が出て、それが中心になって対話が進行しました。「なぜ」と問う文化のないところでは個性を育てる教育は不可能である、というテーゼに多くの参加者が共感を示したところで、「夕焼け小焼け」のチャイムが鳴って帰る時間になりました。

最後の「なぜ」という問いをめぐる対話も魅力的でしたが、随所でメタ・ダイアローグ的な発言が出て、進行が修正されたお陰でいっそう対話的な進行になり、充実感がありました。また、子どもが受け身・弱者であるかのように話しが進んでいるが、子どもも能動的に環境に適応する選択をしながら学校で生きている、という指摘も印象的でした。

次回は「学校教育における集団性と個性」というようなテーマで話すことになりました。


(報告:寺田俊郎/カフェフィロ正会員)


「学校と教育を考える哲学カフェ」は、2ヶ月に1回、偶数月に東京で開催されています。
ということは、次回は12月ですね。
詳細については後日(11月20日ごろ)、カフェフィロのメルマガやHPでご案内できると思います。
関心のある方は、ぜひチェックしてください。

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