岡山はお花見日和ですが、みなさんのところはいかがでしょうか。
さて、井尻さんよりエリトア哲学カフェの報告が届いたのでご紹介します。
------------------------------
こんにちは
カフェフィロの井尻です。
4月8日(日)に、東京・池袋のatelier bemstarにてエリトア哲学カフェを開催しました。
昨年12月に続き、フリーペーパー「エリトア」
今回のテーマは「表現の生まれるところ」でした。
「表現の生まれるところ」と聞いて、まず思い浮かぶところは?
「アトリエ」。それから「キャンバス」。
自分は絵を描いているから、
「山」「田畑」。緑の多い場所で生活するようになり、
なにかの表現をうみだすところになっているのではという意見。
それらを挙げていくなかで、参加者から指摘されたのは、「『
たとえば、絵や写真、彫刻といった、いわゆる作品制作行為を、「
でも、「生きていることすべてが表現である」。
「赤ちゃんが泣くのも、表現である」ともいえるのではないか。
その両者は異なるようにみえて、「やむにやまれず/本能的に」
本当に?みんなそうなの?
そこから、参加者のみなさんに「表現」
「人の表現に触れたとき、自分も何か表現したくなる」
「自分は絵は描かないけど、たとえば、
「自分はストレス発散のために絵を描く」
「表現することが、毒だしにもなる。けれど、
「何かを知って、ほかの人にも伝えたい、
「自分も、共有したいと思って絵を描く。
「では、アウトサイダーアーティストは?
「写真を撮ることは、自分の確認作業になっている。発表したら、
「共有」という言葉をめぐっては、「共有は、A=Aと受け取られることではない。
いろいろな意見がで、論点もいくつかみえてきたところで、
「表現することで、伝えたいと思うからでは?」
「無人島で、たった一人でも、人は表現するのだろうか?」
ここからさきの展開もとても興味深かったのですが、長くなってしまうので、割愛させていただきます。
今回も、参加者のみなさまが、それぞれの経験としての「表現」
みんなの意見をきくなかで「表現というと、
特に印象に残ったのは、「表現する者は、
哲学カフェも、そんな場であるといいなと思っています。
今回の参加者は約20人。会場の都合上、
エリトア次号発行は6月の予定。エリトア哲学カフェも、
どうぞよろしくお願いします。
freepaper エリトア http://www.eritoa.com/
文責:井尻貴子(カフェフィロ)