ページ

2012/04/12

哲学カフェ「表現の生まれるところ」

こんにちは、まつかわです。
岡山はお花見日和ですが、みなさんのところはいかがでしょうか。

さて、井尻さんよりエリトア哲学カフェの報告が届いたのでご紹介します。

-------------------------------------------------------------------------

こんにちは
カフェフィロの井尻です。

4月8日(日)に、東京・池袋のatelier bemstarにてエリトア哲学カフェを開催しました。
昨年12月に続き、フリーペーパー「エリトア」発行記念イベントとしての哲学カフェは2回目。
今回のテーマは「表現の生まれるところ」でした。



「表現の生まれるところ」と聞いて、まず思い浮かぶところは?

「アトリエ」。それから「キャンバス」。
自分は絵を描いているから、そういうところを思い浮かべるという意見。
「山」「田畑」。緑の多い場所で生活するようになり、そういった環境そのものが、
なにかの表現をうみだすところになっているのではという意見。

それらを挙げていくなかで、参加者から指摘されたのは、「『表現』をどうとらえるか」という問題。
たとえば、絵や写真、彫刻といった、いわゆる作品制作行為を、「表現」とするのか。
でも、「生きていることすべてが表現である」。
「赤ちゃんが泣くのも、表現である」ともいえるのではないか。

その両者は異なるようにみえて、「やむにやまれず/本能的に」行う行為であるという点では同じなのでは?
本当に?みんなそうなの?

そこから、参加者のみなさんに「表現」についての具体的体験を挙げていただき、考えることにしました。

「人の表現に触れたとき、自分も何か表現したくなる」
「自分は絵は描かないけど、たとえば、今日ここに来るときにどんな服を着てくるかも、表現といえるのではないかと思う。意識的/無意識的の違いはあっても、みんな表現しているのでは」
「自分はストレス発散のために絵を描く」
「表現することが、毒だしにもなる。けれど、毒を出すようにして出したものが、花として受け取られることもある」
「何かを知って、ほかの人にも伝えたい、共有したいと思ったとき、twitterなどでつぶやく。表現する」
「自分も、共有したいと思って絵を描く。共有したいという気持ちが、人が表現するときには関わっているのではないか?」
「では、アウトサイダーアーティストは?共有したいという思いから描いているのではないのでは?」
「写真を撮ることは、自分の確認作業になっている。発表したら、と言われて発表することをはじめたけど、はじめからそれが目的ではない。けれど、見てもらって、何かうけとってもらえたらうれしい」

「共有」という言葉をめぐっては、「共有は、A=Aと受け取られることではない。AがBと受け取られても、それは共有だと思う」という意見も。



いろいろな意見がで、論点もいくつかみえてきたところで、それまでの流れをふまえ、「表現したいという気持ちは、なぜ生まれるのか」というひとつの問いを設定し、考えていくことにしました。


「表現することで、伝えたいと思うからでは?」
「無人島で、たった一人でも、人は表現するのだろうか?」

ここからさきの展開もとても興味深かったのですが、長くなってしまうので、割愛させていただきます。

今回も、参加者のみなさまが、それぞれの経験としての「表現」から発言してくださっていて、本当に興味深かったです。

みんなの意見をきくなかで「表現というと、絵とか写真とか表現者によって表されたものをイメージしがちだがそれを受け取る人がいるところも、表現が生まれるところになっているのではないか?」といった意見を述べてくださった方もいました。

特に印象に残ったのは、「表現する者は、何かに心を動かされて表現している。表現されたものを見る者も、心を動かされることがある。その、心が動かされたことが交差するときに、何かが生まれるのではないか」という参加者の言葉。
哲学カフェも、そんな場であるといいなと思っています。

今回の参加者は約20人。会場の都合上、事前申し込み制とさせていただいたのですが、すぐに定員いっぱいになってしまいました。ご参加いただけなかったみなさま、申し訳ありません。

エリトア次号発行は6月の予定。エリトア哲学カフェも、あわせて開催できたらいいなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。





freepaper エリトア http://www.eritoa.com/

文責:井尻貴子(カフェフィロ)