久しぶりの投稿です。たかはしです。
てつがくカフェ@せんだいの「震災から〈教育〉を問い直す」に一参加者として参加してきました。(仙台から大阪に戻る飛行機の中で忘れないうちに報告を書きました。)進行役はカフェフィロメンバーで東京の哲学カフェで活躍されている寺田さんです。
てつがくカフェ@せんだいで「震災と教育」をテーマにてつがくカフェが開かれるのは、これで二回目ということで、はじめに、スタッフの方が前回の内容の振り返りをしてくれました。(てつがくカフェ@せんだい、若手スタッフが増えています!)寺田さんからも、「前回の重要な論点として『学校で道徳は教えられるか?』『学校で(ひとりひとりが)考えることは教えられるか?』ということが出てきましたが、今回はこれらの問いから始めると震災、ということから離れて一般論になってしまうので、もう一度、『震災をどのように教えるべきか?』という問いに戻って議論をしたい」という導入がありました。
てつがくカフェ@せんだい名物(?!)近田さん作成の 「ファシリテーショングラフィック」! いつもながらに素晴らしいです。 |
3.11以前から地震の危険について懸念し、警告をしてきたという地元の年配の参加者の方から問題提起があり、これからの教育に必要なのは「安全教育」なのではないかというキーワードが出て来ました。そこから、教師が一人の人間としての、自分の意見を語ることができない学校教育の中では、「津波てんでんこ」のような、それぞれの人が判断し動く、というようなことをそもそも教えられるのか、自然の中で危険と裏腹の環境で遊ぶことを知らないこどもたち、大人が作ってくれた「安全」な環境に守られているこどもたちが、危険を察知し、自分で動くというようなことができるようになるためにはどうすればいいのか、というような意見や、地震の疑似体験をやっても、こどもたちは楽しそうにしているだけだが、どう「安全教育」ができるのか、というような意見もありました。
「安全教育は確かに重要だが、今回の震災はそのきっかけにすぎないのか、それ以外に『東日本大震災を教える』ということは何か意味があるのではないだろうか」という進行役の寺田さんの問いかけもあって、一人の参加者から「震災を乗り越えるためには、震災を体内化すること、震災で亡くなった『死者を弔う、死者に思いをはせる』ことが必要なのではないか、それは教育とも関わりがある」という意見が出てきました。さらにそこから、「安全教育」は、今回の震災で人々がどのように亡くなったのか、そうした犠牲者を出さないためにはどのようにすればよいのか、ということを考えるという意味で「死者を弔う」ことの一つの方法ではないか、という意見や、震災そのものについてというより、「死と向き合う」ことについて教育現場で何かできるのではないか、という意見があがりました。
「安全教育がどのように『死者を弔う』こととつながるのか、また、『死者を弔う、死者に思いをはせる』教育とはどのようなものなのか、お家に持って帰って引き続き考えてみてください」という残念そう(?)な寺田さんの〆の言葉で今回のてつがくカフェは終わりました。わたしはその時、どちらも「個の語り」を大切にする、「固有名を忘れない」ということでつながるのではないかと考えていましたが、うまく言葉にできず、時間内に発言できませんでした。普段哲学カフェでは進行をすることが多いので、参加者として久しぶりに参加して、「発言したかったけどできなかった」「まだ話したいことがある」といって会場に残って話し込んでおられる参加者のみなさんの気持ちが分かった気がしました...
てつがくカフェ@せんだいの皆さんも言っておられましたが、寺田さんの進行は論点が限定されており、話が整理されているので、参加者として話しやすいな、と思いました。しかしあの交通整理はカオスを好む人が多い(?!)大阪の哲学カフェで機能するだろうか、とも思ったり...進行の仕方は色々なので、色々な進行役の哲学カフェに参加してみるのも哲学カフェの通な楽しみ方ではあります。
12/8は「震災と教育」てつがくカフェの姉妹企画、中高生対象のU-18てつがくカフェ第二弾をせんだいメディアテークで行う予定です。