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2013/06/25

報告:書評カフェ『経済の文明史』

三浦です。
今年から名古屋での対話活動を一緒に担ってもらっている安田さんに、先日の書評カフェの報告を書いていただいたので、代理で投稿させてもらいます。


三浦さんの活動にうっかり巻き込まれ、今回ついに書評カフェの準備と進行まで担当させてもらいました、安田と申します。その立場から今回のカフェを振り返ってみました。
 
カール・ポランニー(1886-1964)という経済人類学の父みたいな人の論文集、「経済の文明史」の書評カフェでした。自分で提案した本ながらとにかくカタイ理論系の本で、自分自身理解するにも時間がかかりましたが、当日、その主張の論点整理と説明を試みたら、それだけで1時間になってしまいました。明らかに経験不足、準備不足でした。。。熱く一方的に「説明」する進行役と裏腹に黙りこくるカフェ参加メンバー。。。前半は散々でしたが、後半は参加メンバーの鋭い問題提起のおかげで活発な議論となりました。個人的に一番感銘を受けたやり取りが、以下です。

まず私はポランニー理論を次のようにまとめました。ポランニーいわく:現代のような「市場社会」は商業(流通業)と工業(生産業)の相対優位が逆転し、結果、巨大な市場マシンと化した「経済システム」の要請に社会の全制度が進んで屈した社会である。そして、このような経済の「大転換」は、工業の機械化=産業革命に対する人間の最初の、間違った対応だった。というのも、このために現代人の自己観は歪み、功利主義化・単純化したのだから。
 
これに対し、一人の参加メンバーが極めて面白い質問を持ち出してくれました。

「もし産業革命が江戸日本で起きていたら、江戸日本は市場社会を生み出していただろうか。」

どうやら質問者氏は工業のあくなき機械化の背後に、機械を単なるモノとしてしか見ない態度、ひいては機械(モノ)を含む人間以外の自然を人間から完全に区別する「西洋的」感性を見出し、江戸日本にはそれと対称をなす感性があったのでは、と考えたようです。私にとってはまったく意表をつく質問でした。別の参加メンバーがさらに加えます。快適さや利便性を至上命題のように追求し続ける欲求が機械化を促しつづける原動力になっているが、そういうのも昔の日本にはあまりなじみないものだったのでは、と。たしかに、そうした欲求の正体は「人間の暮らしの快適さや便利さ」への欲求であり、これをどこまでも追究していいと思う態度は、「人間以外」のことを「人間以下」というか、「人間のために存在するリソース」とみなす態度なしには成立しえません。江戸日本にはもしかしたら、機械化への衝動、快適さへの欲求を相対化しバランスをとりうる、「自然」と「人間」についての対抗思想があったのかもしれない。そう思わせるものがあります。


実はポランニーも、市場経済という「経済の病理」(=「機械化に対する人間の最初の間違った対応」)を修正するためには、まず「人間の歪んだ自己観」を(市場社会以前の)健康なものへと快復させることだ、と言っているようです。機械化を全否定しているのではなく、機械化への衝動を制御しうるような「人間の自己観」の快復を求めている。ただ、何をどうすればそのような快復が望めるのか、そのヒントは、すくなくとも「経済の文明史」の論文群にはみられないような気がします。というのも、もとの「市場社会以前」の西洋にあったはずの健康な「人間の自己観」はあえなく機械化のもたらす「大転換」に屈したわけで、ただそれに戻ることが正解とは思えないからです。

もしかするとそのヒントのひとつは、「自然」と「人間」の区別をどう認識しなおすか、ということかもしれない。今回のカフェの私にとっての最大の収穫はこれでした。