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2013/07/01

次世代に伝えたいもの

こんにちは、まつかわです。
1週間に3回も哲学対話をすると、やった順番にはうまく思い出せませんね。
逆から遡って、まずは昨日、岡山大学の城下ステーションで開催した哲学カフェの報告です。

私、小さすぎてすっかり隠れちゃってますが・・・。
空いてるグリーンの席はカメラ係、岩淵さんの席です。

写真には映っていない2名も加えて、参加者は10名。
世代を超えて「次世代に伝えたいこと」について語り合います。

ちなみに今回のテーマは、何回か哲学カフェに参加してくださっている岡山市の職員の方のリクエスト。ESD(持続可能な開発のための教育)プロジェクトに関わるなかで、「受け継ぐとか継承するということはどういうことか考えたい」ということで、こんなテーマになりました。

次世代に何を伝えたい?残したい?

通勤で毎日みてる自然の姿、帰省の際にみる総社の五重塔の風景、松江城の井戸の抜け道、岡山市内を流れる西川の蛍、我が家の味(岡山寿司、お雑煮)、親の生き様・・・
「いいものだから残したい」そんな言葉をきいて、それまでじっと黙って耳を傾けていた女性が他の人に問いかけます。

残したいのはいいものだけ?

すると、今度は、原爆ドームや津波で打ち上げられた船など、痛々しい記憶を呼び起こさせるものが挙げられはじめました。
「被災者は見るのも辛くてイヤだろうけど、同じ痛みを繰り返さないためには残すべきなんじゃないか」


何を伝えるかだけでなく、どう伝えるかも大事

「モノを残すだけでなく、そのモノに込められた意志も伝えないと意味がない」
津波で陸に打ち上げられた船なんかは、「なんで船がここにあるの?」とそこに存在するだけで心を揺さぶる力があります。しかし、そこにあるだけでは、それがそこにある意味が伝わらないこともある。そうしたものについては、積極的にその意味も伝えていく必要があるのではないか。そうした意見が2時間のあいだ、言葉を変えながら何度も繰り返しでてきたように思います。
「受け手が受けとめられるように伝える必要がある」
「与えることが大事なんじゃなくて、相手が元気になることが大事」

何もしなければ、失われてしまう

また、こうしていろいろ話しているうちに、「あえて残そうとしなければ失われてしまう」という共通の前提が浮かびあがってきました。
「何かを残すということは、新たに創造するのと同じぐらいのコストやエネルギーがかかる」という指摘も・・・。

次世代に伝えるためには、水平方向のやりとりも必要

「次世代に伝える」というと上の世代から下の世代へと垂直方向の一方的なやりとりをイメージしがちですが、具体的な例を考えていくと、史跡や自然などはもちろん、家庭の味といった私的なものであっても、自分がいなくなった後まで何かを残すことは自分だけではできないということがわかります。
個人的に、「何かを次世代に残すためには、同時代に生きる者同士のやりとりが不可欠である」というのは大きな発見でした。

偶然ではありますが、折しもこの日は岡山大空襲があった日の翌日ということで、戦争についてどう伝えていくかについても時間を割いて考える展開になり、ちょっとしんみりした回となりました。(7月7日まで、シティミュージアム岡山戦災に関する展示が開かれているそうです。)

でも、「次世代っていわれて誰を思い浮かべる?」という問いかけに「子ども」と即答する人も、「自分はまだまだ受け取る側で、伝えるということが想像できない」という人も、自分の記憶や気持ちにしっかり向き合った回だったのではないかなと思います。

終了後、松江から来て初めて参加された方から「アタマで考えるだけでなく、すごく感情を揺さぶられて、有意義な時間だった」という感想をいただきました。

松江から参加された方がお土産にくださった人形焼。
みんなで美味しくいただきました。

今後も、岡山の哲学カフェは、カフェマスターの岩淵さんと、様々な人たちと交流しながら、月1ペースでまったり開催していく予定です。

次回は、7月28日(日)。
行政書士として障害者の支援をされている瓜生浩輔さんをお招きして、「能力によって選挙権を制限することは許されるか?」というテーマ考えます。
いわゆる「成年被後見人選挙権訴訟」を糸口として、子どもや私たちの選挙権についても考えられたらと思っています。
関心のある方は、どうぞお気軽にご参加ください。
詳細についてはこちらをどうぞ。