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2013/09/03

半沢直樹とあまちゃんはなぜうけるのか?

三浦です。8/27に行なわれたグリーングラスでの哲学カフェの報告をします。
この日は、夜の大阪での「対話する哲学教室」とともに、参加者として見聞しようと、早起きして名古屋からやって来ていました。
松川さんが交通渋滞で遅れているということで、テーマの候補だけでも出しておきましょうと、あるお母さんの呼びかけで開始予定時刻よりも7分ほど早く始まりました。
「考えるって苦しいこと?」「リタイアのあとの人生」「新生児はどういう存在か?」と、いくつかの候補が出された頃に、松川さんからの要請で急きょ私が進行役をすることに。「いいですよ」と引き受けましたが、あのままテーマ出しをされていたお母さんの進行で進んでいたら、どんな対話になったのだろう・・・と(進行役はある意味誰でもできると考えている)私は空想してしまいます。

さて、本題。
5つほどテーマ候補が挙がったところで、いつもならここから「挙手による多数決」でテーマを決めるとのことでしたが、私は「自分の推しテーマをその理由とともに述べてください」と言って、もう少しテーマ決定に時間と対話を費やそうと思いました。
すると、「自分は半沢直樹もあまちゃんも観ていないんだけど」とおっしゃりながら、ある男性の参加者が、「両者のヒットはやはり現代の世相を反映しているはずで、その意味でもこのテーマは気になる」と言われました。参加者の中には、「あまちゃんはおもしろく観ているけれど、半沢直樹は前回観たもののそこまで夢中になれなかった」という方や、「そもそも考えないで済むドラマは観ない」という方もおられましたが、そういった方々も、「なぜ、いまこの両ドラマがこれほど話題になっているのか」はやはり気になるらしく、両者のドラマに文字通りはまっている何人かの参加者の熱い語りの数々に熱心に耳を傾けています。そこで、あらためて多数決をとることもなく、「半沢直樹とあまちゃんはなぜうけるのか?」をテーマとすることに決定しました。もちろん、進行役の私が両ドラマにずっぽりはまっているのは言うまでもありません。

はじめに両者の共通点として、「バブル期が下敷きになっている」ことや「原作、脚本がいい」という点が挙げられ、「銀行や病院、学校など、業界特有の世界を描くと、人気が出る」という意見が出されました。確かに「白い巨塔」や「踊る大捜査線」など、私たちのうかがい知れない世界の実態を暴く系のドラマはいずれも大ヒットしています。
また、ドラマをほとんど観ないという参加者からは、「ドラマにひとは何を求めているんだろう」という疑問が出されました。「楽しむだけの、ただ観て泣くだけの、つまりは現実逃避するだけのドラマ」がヒットするということは、私たちが真実から目を背け、ものを考えようとしていないことの証左なのではないか、という批判です。
その意見に対しては、「ドラマ(つまりは虚構)を通じて真実を発見していく」ということも可能で、ドラマとは真実に色(=脚色)をつけるということにほかならず、その色の付け方が「うける/うけない」に関わってくるのではないかという考えが出されたりもしました。たとえば宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』にしても、実在の人物である堀越二郎の半生を描くにあたって、そこに堀辰雄の小説『風立ちぬ』のモチーフを持ち込みながらドラマ化を図っているのであって、「事実をどうドラマ化するのか」が作り手の腕の見せ所だというわけです。
そして、あまちゃんでの「海女クラブのわいわいやっている雰囲気が好き」という感想から、ああいう「昔はあったが、いまはない場」にどこか憧憬を感じ、こういう哲学カフェの場もまさにそういう場所なのではないか、という言葉でもって、この日の対話を終えました。

後半から参加された松川さんからは、「いつものグリグラでの哲学カフェではぜったい選ばれないテーマだ」と言われましたが、こういう世間ネタからでも、「ドラマと真実の関係」にまで話が及ぶきちんとした対話のやり取りができるということを再発見できて、私としても楽しい一時間半余りでした。