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2014/02/19

東京でのNSDセミナーに参加して

三浦です。
先週末に東京で開催されたNSDセミナーに参加してきました。
私の記憶では、泊りがけのNSDは2002年に有馬温泉で行なわれた「わがまま」をテーマにしたものと2003年の岡山での「仕事」をテーマにしたもの以来3回目、一日単位のものにしても実に10年以上ぶりのNSDでした。
記録的な大雪に見舞われたこともあって、非常時でのNSDセミナーだったわけですが、個人的にもやもやしたものがいまも残っているので、やや言語化しておきます。

少ないとはいえ「経験者」ということで、二日目の午前中の〈例を吟味する 1〉の段階までは、ときおりメタダイアローグ的な発言をするなど、余裕のある対話への関わり方だったと思います。
ところが。
「書き出されたポイントのなかから、問いの答えになりうる一般的なポイントを抽出する」という〈例を吟味する 2〉の場面において、私は盛大に躓いてしまいました。

今回は「自分らしさとは?」をテーマとして選び、この問いへの答えを探るべく、みなで共有の例を選び出し、その例にとって重要なポイントを吟味する。ここまでは個人的に順調でした。
とくに例にとって重要なポイントを探りながら、もう一方では問いへの答えを(先走り的に)考えている時間帯は「哲学している感」を存分に味わっていたのです。
しかし。
重要ポイントから、問いの答えになりうる一般的なポイントを抽出するという作業をしているときに、突如として私は、自分がいま何をしているのかが(そしてなぜこういうことをしなければならないのかが)わからなくなりました。さらには十数年前に研究室のメンバーらとNSDを見様見まねで体験していた時に感じた「NSDへの疑問」が沸々と湧き上がってきて、その疑問をそのまま吐露してしまうことで、なんと経験者である私自身が参加者の足を引っ張る始末になってしまいました。
混乱は30分ぐらいでなんとか収まり、躓いた「一般的なポイントの抽出」にもなんとか参加し、最終の〈答えを出す〉場面にかろうじてたどり着いたのですが、ここでも私は「あれ、俺だけ場違い?」的な思いに襲われます。

というのも、他の参加者の方々は先の段階で抽出した一般的なポイント(=「思いがけない自分の判断や行動を大切なエピソードを想起することで受け入れている」)をもとにして、答えを記述しているのに、私はその前の段階の重要ポイントを吟味するさいにおぼろげに掴んでいた答え(今回であれば、「自分らしさとは意外なものである。それは外から知らされることが多い。」)を当初は出そうとしていたからです。この答えは、あまりにもみんなで考えてきた結果を反映していないとの自制が働き、その場では出しませんでしたが。

私が十数年前に感じた「NSDへの疑問」とは、具体的な例から一般的な答えを探る「遡及的抽象」(の後半部分)は、名称としては響きがいいけど、結局それって例から取り出した(複数の)一般的なポイントをただ単に継ぎ接ぎしてるだけの作文でしかないのではないかというものでした。
で、そういうNSDへの不満から私はそのオルタナティブとして哲学カフェへと向かっていったんだったな(というのも、この当時の研究室での「公共的な対話」の主流はNSDでしたから)ということを、躓いていた30分のあいだにまじまじと思い返していました。

私はまだNSDの本質をぜんぜん掴んでいないのでしょう。
今回久しぶりに参加しようと思ったのは、「名古屋でもNSDセミナーをやって」という声があって、近々名古屋でも開催したいなと思ったからでした。幸い、場所は名駅前にたいへん良い場所を確保できそうなのです。
というわけで、今回のセミナーは私が再びNSDと向き合うよいきっかけになりそうです。
セミナーに関わられたすべての皆さんに感謝(とお詫びを)します。