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2014/03/03

報告:漫画de哲学「ミノタウロスの皿」

三浦です。先日行われた漫画de哲学の報告を安田さんが書いてくださいましたので代理で投稿いたします。


去る222日(土)、名古屋伏見のカフェ・ティグレにて、「漫画de哲学」というシリーズの第一回となる哲学カフェが開催されました。これは、哲学カフェ@名古屋が2014年から始める新企画で、テーマとなる漫画作品を皆で事前に選んでそれについて哲学的に語り合おうという趣旨のものです。

記念すべき初回のテーマは、藤子・F・不二雄作の「ミノタウロスの皿」。人数的には(進行含めて)17人という盛況ぶりでした。大学生から定年退職された方まで含む、ほどよく雑多な集団だったと思います。尚、某新聞社の記者の方が取材目的で参加して下さいました。記者氏の存在もまた、対話の場に独特の公共性の空気を生んでくれていたように思います。よき効果だったと思います。当日は、進行役が用意した配布資料をもとにまず作品の背景やあらすじなどを説明してからの対話スタートとなりました。
「ミノタウロスの皿」は、肉食、ないし、他生命を食すること一般についての、その倫理的是非についての議論をいかにも喚起するような物語です。しかし、この日の対話は、意外にもそちら方向にはあまり向かいませんでした。かわりにこの日の対話に終始流れていたのは、
「自分(達)とは異なる価値観を持つもの(達)」を「理解」することの難しさ

というような問題意識でした。いわば「他者理解」の難しさです。後半ではこのテーマからさらに発展して、公共の場面での「他者同士の対立」をどう解決すればよいか、どのように解決しうるか、何を持って「解決」とするのか、のような議論が出てきました。(注:「他者」という言葉自体は当日の対話には出てきませんでしたが、この後の報告の便宜上、この言葉を導入しておきます。)

しかし、振り返ると、「他者理解」の問題へと対話がフォーカスしてゆく際の前提の構造に非常に興味深いものがあったと思われるので、この報告はこの前提構造に集中したいと思います。(これ以降、配布資料中のあらすじが読まれている前提でこの報告を進めさせていただきます。)
次の三つが「他者理解」の問題意識の前提として対話の場に共有されていたと思います。
(1)イノックス星と地球とでは価値観が異なっている。

(2)イノックス星でのズン類とウスの関係は、地球での人類と牛の関係を反転させたものにすぎない。(ズン類たちと本質的に同じことを人類もしている。)

(3)ミノアやイノックスの有力者ばかりでなく、主人公もまた、自分(達)が慣れ親しんだそれぞれの価値観の「正しさ」について、物語最後のシーンまで、ついに全くブレていない。
これらが前提として共有されたうえで、対話は「他者理解の難しさ」という方向に向かった、と言ってよいと思います。

しかし、よく見ると、(1)と(2)は、ある意味では矛盾しています。「ズン類たちと本質的に同じことを人類もしている」のであれば、少なくともこの両者(イノックスのズン類と地球の人類)はある意味では同じ「価値観」を持っている、と言えそうだからです。ここに見られる差は、いうなれば、ただの「立ち位置」の差であり、この意味での「価値観」の差ではない、ということです。(あくまで(2)が正しければ、ですが。)

この意味の「価値観」では、同じイノックス星の住人同士であるズン類とミノアたち(ウス)の間にこそ「価値観の違い」がある、と言わざるを得なくなります。「食べられて死ぬことはただ死ぬことより尊い」という「価値観」は、ズン類にはきっとないだろうからです。少なくとも、(前提(2)によればズン類の鏡写しであるらしい)人類には、主人公の行動が示すように、この「価値観」はありません。この意味では、主人公とイノックス有力者はまったく「他者同士」ではありません。ウスたちが、彼らにとって共通の「他者」です。もちろん、別な意味では、ミノアたちウスとズン類は同じイノックス星の「価値観」を共有していて、地球人類である主人公がただ一人異なる「価値観」を持つ「他者」です。
こうして振り返ってみると、この日の対話の暗黙の中心テーマとなった「他者」概念にはこのようなあいまいさがずっとついてまわっていた感がありました。報告者自身、この報告を書くためにこの日の対話をじっくり振り返ってはじめて気づきました。
レビュワー:安田清一郎

なお、当日に進行役が用意した配布資料は、哲学カフェ@名古屋のホームページ上に置いてありますので、参照してみてください。