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2014/06/22

なぜ人は心配するのか?

こんにちは、まつかわです。
報告が前後してしまいますが、6月5日(木)に開催したグリグラの哲学カフェの報告です。
この日の参加者は10人ぐらいだったかな。会場を北区民センターに移してから、ちょっとずつ参加者が増えてきました。男性も3名。

提案されたのはこんなテーマたち。


多数決を繰り返した結果、選ばれたのは「なぜ人は心配するのか?」でした。


●わからないから心配? わかるから心配?

子どもの将来や老後のこと、会社の経営、家計のことなど、最近心配なことを具体的にあげながら、心配の一つの要因として、「わからないから」という点があげられました。

これに対して、こんな反論がでました。「私は家計について心配しているけれど、夫は全く心配していない。じゃあ私が夫より家計についてわかっていないかというとそんなことはない。むしろ逆で、夫は食費や住居費、光熱費、教育費などが月々どれだけ必要か全くわかっていない。私はわかっているから心配になる」。もちろん、それらをちゃんと賄えるかどうか「わからない」から心配になる。しかしもう一方で、何かを心配をするには、ある程度何かを「わかっている」ことも必要ということがわかってきました。

●心配=愛?
また、心配の他の要因として、「愛があるから心配するのではないか」「心配してほしいというのは、愛してほしいということではないか」という意見もでました。この「心配=愛」説を主張するある参加者からは、「息子はかわいいから心配だけど、娘はかわいくないから全然心配じゃない!」という過激な(?)発言も・・・(そのぶんご主人が娘さんを心配しているそうなので、幸い、愛情不足ということはなさそうです)。

それに対して、「道端で誰かがしんどそうにしゃがんでいたら、それが全く知らない人でも心配はする。だから、心配と愛は関係ないのでは?」という反論がでました。さらに、「でも、イヌ好きの人ならイヌの心配はするけれど、虫が死にかけても心配はしないよね?」と再反論が述べられ、「同じ人間だから、同じ日本人だから、同じ神戸人だから心配する。それもある意味、愛ではないか」と、「愛」の幅広さを指摘する声がでました。

また、「心配=愛」説と関連しつつ異なる見解として、「私は、私が友人に引き継いだ会社の将来を心配しているが、それは友人のためでも、会社のためでもなく、自分自身のためだとおもう」という発言もありました。ここから、「私が子を心配するとき、子どものためと思っていたけど、実は自分のために心配しているのかもしれない。もし子どものためではなく自分のためだとしたら、それは本当に愛といえるのだろうか」と考え込む方もいました。

次回グリグラの哲学カフェは、7月3日(木)に開催します。
詳細はカフェフィロHPをご覧ください。