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2015/05/12

哲学カフェ「住みたいまち」

こんにちは、まつかわです。
先日、5月9日(土)は岡山大学のまちなかキャンパス、城下ステーションにて哲学カフェを開催しました。

テーマは「住みたいまち」。
参加者は、7名。
ほかに、途中「ごめんなさい!急用で参加できなくなっちゃっいました」と一瞬だけどわざわざ顔を出してくださった方、終了後に「仕事終わった〜」と来てくださった方も・・・岡山もええまちじゃが。

岡山、井原、倉敷、博多、東京、茨城、埼玉、大阪などなど、参加者がこれまで住んだ、あるいは訪れたことのあるまちの名前をあげながら、それぞれの「住みたいまち」について(意外と?)具体的に話し合いました。
住みたいまち/住みたくないまち、好きだから住みたいまち/好きだけど住みたくはないまち、便利なまち/愛着のわくまち、いま住みたいまち/老後を過ごしたいまち、一度でいいから住んでみたいまち/一生住みたいまち、ベッドタウン/職住近接・・・様々な切り口から「住みたいまち」を分析していくなかで、個人的におもしろいなと思った論点が2つありました。

ひとつは、「どこからどこまでを一つの『まち』と考える?」という点。
今回初めて参加してくださった方の「出雲には神様がいる!」という発言が大きなヒントになりました。
出雲の人は、本当に神様がいると信じているかどうかは別として、神様の存在を前提とした暮らしをしていて、日常会話のなかでも「●●の神様」という言葉がよく出てくるそうです。
他のまちでは「え?なにそれ?」「なんでイキナリそんな話題が出てくるんだろう?」と思われるのに、自然に人々の会話や生活にとけ込んでいるもの、他にもありますよね?
博多出身の方曰く、「博多では天神祭を中心に1年がまわっている」そうです。
大阪における阪神タイガースもそうかもしれません(阪神タイガースの成績ってそれによって周囲の機嫌が変わるので、野球好きでない人にも影響が・・・)。
それがそのまちの「まち感」を構成するのではないかという論が展開されました。

もうひとつ興味深かったのは、まちの持続可能性という観点です。
私は大阪市と京都市のあいだにあるベッドタウンで生まれ育ったのですが、最近帰省するたびに、「まちも年をとったなぁ」と感じるんです。
30年ほど前、働き盛りの人がたくさん引っ越してきて新興住宅地として発展したんですが、同じような年代の人が多いので、住む人が年を重ねるにつれて、まちに以前ほど活気がなくなってきてしまう。
たぶん、古いものと新しいもの、色んな年代のものが混在しているまちなら、そんなふうに一気に年をとることはありません。
人も建物もいろんな年代のものが混在しているから、一気に子どもが減るとか、地域一帯の建物が一気に老朽化してダメになるということはありません。少しずつアップデートされてゆく。
・・・という話をしていたら、「山もいろんな年齢の木があるのがよいと聞いたことがある」と指摘してくださった方がいまして。
私も林業に詳しい人からその話をきいたことはあったのですが、まちの問題と結びつけて考えたことがなく、今回改めて、「そうか、私が考えていた問題は、まちの持続可能性の問題だったのか」と気づかされました。

参加者のみなさんは、いかがだったでしょう?
心にのこった言葉はありましたか?


次回、城下ステーションの哲学カフェの開催予定は未定です。
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