ページ

2015/06/02

哲学カフェ@千里コラボ開催報告

日 時:2015530() 14:0016:00
テーマ:「人間にとって外見とは?」

皆さま、こんにちは。赤井です。
大阪府の千里ニュータウンの中心にある千里コラボで行われている哲学カフェの様子をご報告します。今回から定員を20名に増やしましたがすぐに申込みで埋まってしまいました。初めての方も多くご参加いただきましたが如何でしたでしょうか。

さて、人間に取って外見とはステイタスだ、と言う発言から始まりました。自分の外側で他の人に見せていることにまつわる発言が続きます。
例えば、外見とは端的に服装のことだと思った、とか「欺瞞の塊ですね。外見に騙される。」など。他人を意識してTPOがあると思う、人と合わせると生きやすいと思います。というところから、自分と他人の関係の話題へと移っていきました。

外見とは自分の外にある環境のようなもの、との発言から、他人の見た目がバイアスになり、判断基準になってしまう。選挙の候補者は究極の外見へこだわっていないだろうか。あるいは、アイドルやタレントの外見は商品である、と言う話が続きます。

すると、商売顔でも整形でも当人の努力の有無はあるにせよ自己表現は道具ではないか。自己表現として外見は作れるか?と言う問いが生まれました。

外見は教えるのではなく、発想の豊かさとか価値観の違いが現れるものだと思う。パッと会った時は中身が分からないから理解の階段を上ると思うが、その後、何をするかというと、その後がしんどくないようにわざと乱したりしてココロの安定を図る。と言う意見が出て外見を作ると言ってもよく見せるだけではないことに気がつかされました。

また、コスプレの話となり、コスプレは自分のため、快感ではあるが人の目が要るという話から、外見は見る人の側の中身とリンクしているのではないか?と言う別の問いが生まれました。

見る側の中身としては美意識があるだろう。例えば美人の基準は時代によってかなり変化するものです。最近はインターネットによって直接会わないままコミュニケーションを取ることも多くなりましたが、外見無しのコミュニケーションゆえにトラブルも多いのでしょうか。
ソックリさんや、一卵性双生児は外見が見る人にどのように影響しているのでしょうか?

ロボット(アンドロイド)は、人間に似ている=不気味と思うが、若い人は違うようです。それは人間としてみるか、ロボットとして見るかで異なるのでしょうか。

ところで、外見にはボディーランゲージや言葉を除いた表現(ジェスチュア)も入るという意見が出ると、「口のうまい人や詐欺師の手口も見せかけている、と言う意味では外見だろう」と、表現を広く含んで外見を捉える考えが出されました。

さて、人間にとって・・・と言うことなので「自分にとって外見とはなにか」と問いました。
すると、経験を語っていただく中から真反対とも思える意見が出ました。ひとつは外見によって判断されることを否定するが故に、外見に構わなくなった。と言う意見。もうひとつは、そのように思っているにも関わらず、他人の外見に魅力を感じ強く引きずられ、自分の労力を注ぐ対象としてしまうことがあった、と言う意見。
そしてこのように窮屈な外見との関わりからふっと楽になることが出来るためには、自己肯定感が大事だと思うと言う意見がありました。


2時間があっという間でした。このように切り口も色々に忌憚のないご意見を頂き、ご参加いただいた皆さまありがとうございました。