お待たせしました。
8月9日、岡山大学まちなかキャンパスの城下ステーションで開催した哲学カフェの報告です。
参加者は12名。それに、岡山大学の岩渕さんと私で14名。
岡山市、倉敷市など岡山県内からだけでなく、大阪、神戸、松江など様々な地域からきてくださった方もいらっしゃり、こちらの哲学カフェとしてはわりと人数が多めの回となりました。
松江からの参加者からいただいた、どじょう掬い饅頭 |
テーマは、「みんなちがって、みんないい?」。
神戸からの参加者が事前に提案してくださいました。
有名な金子みすずの詩「私と小鳥と鈴と」からとられた一節ですが、今回は哲学カフェなので、原典となった詩には最後
印象深かったポイントが3つ。
1)学校に関する例がたくさん出た
なかでも、学校の先生をされている方の「発達障害などでノートをとるのが難しい生徒さんに、黒板の板書をカメラで撮影することを許可するかどうかで教員の意見が分かれた」という話。
参加者のなかにアスペルガー障害をお持ちの方もいて、当事者の視点から「学校は、先生の自己満足の場所ではない。ノートをとりながら先生の話をきくのは難しいので、学びやすいやり方を許可してほしい」という意見も。
それぞれが学びやすいやり方をすんなりOKできない(人がいる)のはなぜか、という問題が浮き彫りになりました。
2)ルールやマナーの問題? 趣味や価値観のちがい? それとも???
他に、「隣の家に植わっている植物がどうしても気持ち悪いとしか思えず、迷惑に感じている」という例もでました。
「他者の権利や自由を侵害していなければ、よいのでは」という意見もあれば、「じゃあ、ゴミ屋敷の問題も価値観のちがいなのか?」というツッコミもあり、「様々な価値観をもつ人がいるなかで、ルールやマナーはどうやって成立しているのか?」という問いが浮かび上がりました。
そこから、マイノリティの問題にも触れられ、「みんなとちがうというだけで、『迷惑だ』と言う人がいるのはなぜか」という問題についても考えました。
3)「みんなちがって、みんないい」の違和感って?
さらに「この言葉のとおりであればいいと思う気持ちと同時に、これが教室の標語として貼ってあったら、違和感を抱くと思う」という率直な意見も。
これに対して、いくつかの意見(仮説)がでました。
「みんな、ちがう」と「みんなとちがう」の差異。
「みんなちがって、みんないい」と言いつつ、この信念を他者に押し付けているところ。
すでに多様性が認められている場所なら、こんな言葉は必要ないのではないか。
どこか他人事。
「みんなちがって、みんないい」は自分自身に語りかける言葉であって、他者に言う言葉ではないのではないか。
むしろ現実は「みんなちがって、しょうがない」ではないか。
こうして、いろんな論点や仮説、意見を行き来していて、私も気付かされたことが。
それは、「みんなとちがう」ことは決して悪いことではないけれど、そのことによって、本人の意図とは関わらず、相手がプラスアルファの配慮を要求されていると感じることはあるだろうなぁということです。(小中高生のころ、同級生よりTV番組や音楽に疎かったので、友達は共通の話題を見つけにくかっただろうなぁということを思い出し、そう思いました。)
そのプラスアルファの配慮は、余裕があればできることかもしれないけれど、余裕がないときは難しい。
「みんなとちがう」人を責めるのも、プラスアルファの配慮がない人を責めるのも、なんかちがう。
最初に例がでた学校の問題についても、生徒に犠牲を強いるのでも、先生を責めるのでもなく、学校システムが余裕のあるものになればいいのになと思いました。
というわけで、次回のテーマは「学校とは何か?」です。
9月13日(日)。
学校が好きな 人も、苦手な人も、ご都合があえばどうぞ気軽にご参加ください。