こんにちは、まつかわです。
本日夕方から明後日まで、看護師さん向けの対話を用いた研修のお仕事です。
新幹線待ちのあいだに、本日2回目の投稿。
東京で開催した質問セミナーだとか、こたつむりカフェだとか、城下ステーションの哲学カフェとか、ぱらママさんでの「ママカフェサプリ」だとか、いろいろ報告を書きかけては、ついつい長くなりすぎて書き終わらず、投稿が下書き状態でたまってしまっています。
ごめんなさい。
代わりに、そんな哲学対話三昧の毎日のなか、最近改めて気づかされたことを、思うままに書いてみます。
それは、哲学にとって、「矛盾」って大事ってこと。
セミナーや哲学カフェに参加されいてるみなさんの様子をみると、普段、私たちって「矛盾してはならない」と求められることが多いんだなぁと感じます。
質問を投げかけながら相手の矛盾を指摘しようとしたり、矛盾しないようにと気をつけるあまり思っていたこととちがうことを話してしまったり。
そういう場面が、哲学対話のなかでも、ちょこちょこと見られます。
それが必ずしも間違っているというわけではない。
でもね、実はけっこうな確率で、矛盾のなかには、哲学するにあたって大切なヒントが埋まっていたりもするんです。
理想はああだけど、なぜか現実はこうなっちゃう。
(たとえば、育児書には「叱るのはいいけど怒るのはダメ」って書いていあるけれど、ついつい怒っちゃうとか)
論理的に考えるとこうなるはずなんだけど、でも実はちがうふうに感じている自分がいる。
そういうこと、ありますよね?
私、哲学対話のなかで、そういう捩れやギャップを見つけると、ワクワクします。
一見矛盾してるようにみえるその捩れやギャップを探っていくと、それまで気づいていなかったものの見方や価値観などの前提(assumption)に気づかされれることが多いから。
理想が間違っているわけでも、現実が間違っているわけでもない。
論理的に考えたことが間違っているわけでも、実際に感じていることが間違っているわけでもない。
よくよく現実をみるとそうはなっていないのに、私たちはそれとはちがう理想や論理的思考を抱いてしまう。それもまた現実。
この(一見)矛盾してるものの奥に、とても大事なポイントがある。
矛盾をなくそうとするのではなく、矛盾の存在を認めて、探ってゆくという態度は、もしかしたら、ロジカルシンキングなどにはない、哲学特有のものかもしれません。
そんなことを考えながら、ふと、恩師がヘーゲルについて話していたことを思い出したり。
最近、こんなふうに哲学対話のなかで、「ああ、あのとき哲学書で学んだのって、こういうことだったんだ」と気づかされることがちょこちょこあります。