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2016/02/27

尾道初の哲学カフェ「嘘をついていいのは、どんな時?」(3)

おはようございます、まつかわです。
尾道レポの続きです。

尾道レポ(1)はこちら
尾道レポ(2)はこちら



たしかに「嘘をついていいのは、どんな時?」を中心に展開したはずの対話が、いつしか「何が真実で何がそうでないか、誰がどうやって判断しうるのか?」問題にメロディーラインをかっさらわれてしまったという話でした。
こういうふうに書くと、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いが消えてしまったかのようですが、これは私が感じ振り返った対話の大雑把な流れにすぎません。
実際には、二つの問いそれぞれに対する発言が並存していたように思います。

そして、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いに関して、後半にもうひとつ忘れられない発言がありました。
もし友だちが嘘をついていたって後から知ったら、嘘の内容はどうあれ、その「友だち嘘をついた」という事実に心が揺れて平静ではいられないと思う。
ここで私は、前半のあるやりとりを思い出しました。
前回、前々回のレポでは省略しましたが、対話の序盤にこんな発言があったんです。

嘘をつくというのはおそらく人間しかしない力だから、嘘をつくことができるということをポジティブに考えてみたい。

これに対して、すぐには他の参加者からの反応はありませんでしたが、前半の終わりか後半のはじめぐらいかな?、どんな流れだったのかは忘れてしまいましたが、こんな反論がだされました。

さきほど、「嘘をつくのは人間だけ」という意見があったけれど、動物も嘘をつく。自分がやったこと(いたずらなど)なのに、やってないフリをすることがある。

これに動物を飼ったことのある人が賛同し、「嘘をつくのは人間だけ」という点は反駁されてしまいました。
しかし、だからといって「嘘をつくことができるということをポジティブに考える」ということまでが否定されたわけではありません。
「友だちが嘘をついたという事実に心が揺れる」という発言や、それまでの嘘をめぐる様々な体験談を聞いて、私はこんなふうに感じました。

何が真実で何が真実でないかわからないことだってあるけれど、やっぱり「嘘をつく」といえる行為は現実に存在する。
それは私たちが、自分の言動が現実を変えうると信じているからじゃないか。
もし自分の言動に何かを変える(影響を与える)力があると信じていないなら、わざわざ嘘をつくなんてしないはず。

自分の言動が何か、あるいは誰かに影響を及ぼしうるということ、そしてそう信じられること。これが、私が今回発見した、嘘のポジティブな側面です。
「よい嘘」ではなく、「嘘をつく」という行為そのものにポジティブさを見出せたのが、新鮮でした。

以上、長くなっていまいましたが、尾道初の哲学カフェ報告でした。
もちろん、ここに書いたことは、私=まつかわが主観的に編集した哲学カフェの様子にすぎません。
参加者のみなさんは、同じ対話を、それぞれ別なふうにみていたかもしれません。
真実はこのとおりでは決してありません。かといって嘘かと言われると困っちゃうのですが‥‥。
ここではポイントを3つに絞って書きましたが、実際の対話はこんな順番で進んだわけではありませんし、もっと別の重要なポイントがあったかもしれません。
それを楽しめるのは、実際に哲学カフェに参加した人だけです。

今回、哲学カフェをさせていただいたAntenna Coffee Houseは、映画のロケ地でも有名な「千光寺新道」を下ったところっていうんでしょうか。国道からだと、線路をくぐってちょっといったところにあります。