先週日曜、6月19日は久しぶりに岡山大学のまちなかキャンパス「城下ステーション」にて哲学カフェでした。
テーマは「震災」。
他の「震災を考える哲学カフェ」がテーマを絞りこむなか、あえてざっくりしたテーマ設定させてもらいました。
できるだけ、いろんな声がききたかったので。
今回は、カフェマスター岩渕さんのご提案で、岡山大学の前田芳男さんに話題提供をお願いしました。
都市工学がご専門なので、当日まで専門家として熊本の支援に行ってらっしゃるのかと思っていたのですが、今回の地震で熊本のご自宅が被災されたとのこと。
ご自宅やその周辺の写真を見せながら、「専門家としてこんなふうに考えていたけれど、実際に当事者になるとこうだった!」と二つの立場のギャップを織り交ぜながら体験をお話しくださいました。
他にも、様々な方が参加されました。
今回の震災で親戚が被災されもどかしい思いをしている方、東日本大震災でチャリティー活動に関わった方、地震の多い地域で生まれ育ち常に危機感を感じてきた方、震災を遠い場所や遠い未来の出来事と感じている方、震災を機にTVや新聞をやめたという方 ‥‥。
「震災を直接体験したことはないけれど、震災の影響で授業が震災一色になり、大学で受けたい授業が受けられなかった。このうえ、やっと出られた哲学カフェのテーマまで『震災』だなんて!」と嘆く方もいました。
「岡山は大丈夫」という方が多い土地で、これだけ「震災」との距離感が異なる人たちが集まり、それぞれが「自分にとっての震災」を率直に声に出せたことが、まず今回の成果のひとつかなと思います。
もうひとつの大きなポイントは、「人間と知の関係」とでもいえばよいのでしょうか。
まず第一に、前田さんの「『想定外』の被害が出るのは、私たちが都合のいい想定しかできないからだ」というご指摘。阪神・淡路大震災からずっと専門家として防災に携わってこられた前田さんの、専門家としての反省と当事者としての実感の込められたその言葉の重みを感じました。
「いつかくるかもしれないけれど、どこかで明日ではないだろうと思ってしまっている自分がいる」
「いざ災害が起こったら、自分はいつもより元気に動いてしまうんじゃないか」
「体験しないとわからないから、3日間水だけで生活してみた」
どれも「都合のいい想定」かもしれません。
震災が明日こないとは限らないし、災害時に置き水や井戸や湧水が使えるという保証もありません。
街がや熊本城のような「そこにあるのが当たり前」だったシンボルが崩壊したときの喪失感だって、とても想像できるものじゃない。
震災を体験してる前田さんだって「次にまた震災に遭っても、やっぱり『想定外』なことがあると思う」と言う。
街がや熊本城のような「そこにあるのが当たり前」だったシンボルが崩壊したときの喪失感だって、とても想像できるものじゃない。
震災を体験してる前田さんだって「次にまた震災に遭っても、やっぱり『想定外』なことがあると思う」と言う。
でも、その一方で、阪神・淡路大震災、東日本大震災の教訓が、瓦礫撤去や支援物資の支給などに役立っていたりする。
3日間水だけで過ごした経験がない状態より、その経験があるほうがいくぶんタフになっている気もする。
震災をきっかけに引きこもりから脱した人がいたり、「日常に弱く、非日常に強い」人はは実際にいる。
私たちの想像力の限界と、経験や本能の可能性との両方を感じました。
いま書きながら思ったのですが、最初に触れた「距離感」も、もしかしたらこの「想像力」や「経験」と関係あるのかもしれません。
3つ目の大きな論点、障害者や持病をもつ人などマイノリティの防災や支援の問題も、何か関係しそうです。
当日、熊本地震への義援金を募りました。
「たいしたことはできないかもしれないけれど、できることで迷惑にならないことがあれば、やってみよう」と思っていたところに、カフェフィロのメンバーが提案してくれました。
集まった12,034円は、カフェフィロ、赤十字を通じて被災者へお送りします。
終了後、派生テーマとして「募金」や「備える」というテーマでもやってみたい!という声がありました。
一息ついてから改めて、みなさんと考える機会をつくれたらと思います。
次回開催は7月31日(日)14:00〜。
テーマは、「なぜ私たちは哲学するのか?」です。
詳細はこちらをどうぞ。
(近々、カフェフィロHPでも案内させていただきます。)