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2012/04/06

哲学カフェ「ユートピア・理想郷・理想社会とはどのような場所だろうか?」

こんにちは、まつかわです。
前回の記事で、「東京の哲学カフェは語り方がちがう!」と書きましたが、前言修正。
同じ関西圏でも場所によって全然ちがいました。


3月30日、初めて千里コラボの哲学カフェへ行ってきました。


哲学カフェの様子


テーマは「ユートピア・理想郷・理想社会とはどのような場所だろうか?」。
前回のアンケートから採用されたテーマだそうです。


千里コラボの担当者の方は、ユートピアが論じられなくなったのは人がユートピアを構想できなくなったのか、人はユートピアに関心がなくなったのか、それともその双方なのか、その辺りの論議が弾むものと思っていたそうです。
もちろんそういった論点もでてはきました。
が、実際にその論点に集約することはなく、10近くの論点やイメージが交錯し、なかなか論点を絞りきれない状態でした。


「ユートピア」を共産主義の文脈で理解し、「キケンであるとみなすのが普通」という 人、
「ユートピアとは郷愁に近いもので、未来ではなく過去にある」という人、
「ユートピアとは、他者と自己の境界がないような状態」という人、
「ユートピアは個々人のうちにある」と主張する人もいれば、
「ユートピアは社会的なものであり、個々人のうちというのはありえない」という人も。


途中、「もっとこういう風に進行してほしい」「いやいや、もっとこの点を掘り下げて考えるべきだろう」と議論の進行に関しても様々な意見がでてきました。
こういう意見、でてこない場所では全くでてこないので、新鮮でした。


あの場ではうまく表現できませんでしたが、あとでじっくりふりかえるにつれ、あの日の議論はかなりユートピアの本質に迫っていた気がしています

みんなが「こんな社会になるといいな」という「ユートピア」を共有できれば、足並みそろえてそこに向かって行ける「理想社会」が実現できそうですが、戦争の例をみればわかるように皆が同じ理想を掲げることはキケンなこと。
そう考えると、もしかしたらあの日の議論のように、話がなかなか噛み合ない、はがゆいけれどもそれぞれが自分の意見を堂々と言えるそういう社会のほうが実は「理想的な社会」なのかもしれません。


また、ある年代の方にとってはユートピアは共産主義という特有の時代的文脈で理解さるので、むしろ、60代以上の方と私のような30代以下の若者のほうが、ユートピアという概念を共有しやすそうなのも意外で面白い発見でした。


進行する松川(中)&千里コラボの加福さん(右)