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2013/10/31

報告:“アート”の目的とはなにか

Happy Halloween! ハロウィン生まれのまつかわです。
みなさま、いたずらorお菓子の準備はできましたか?

さて、さする庵にて2ヶ月に一度開催している「哲学教室」の報告です。
10月29日に第5回を開催しました。
テーマは、芸術の秋にちなんで、「“アート”の目的とはなにか」(『中学生からの対話する哲学教室』第3章)。

今までで一番、語り足りない哲学教室だったかもしれません。
語り足りないと言っても、うまく話せなかったというより、予想をはるかに超えて、もっと話せる、もっと考えられる、もっと展開できるんだという手応え。
アートや芸術について語る機会が、これまで圧倒的に不足してたんじゃないかしらと思うくらい。
一見、日常生活に直接は関わらないテーマでありながら、(だからこそ?)一人一人の思考の芯に触れられた気がします。

前半は、いつもどおり章冒頭の対話を読みます。
拾ってきた流木を磨いてテーブルの上にセッティングしたものに「荒れ狂う魂」とタイトルをつけ、アートだと主張する徹。
それに対して、タイトルをきかないと何をしようとしたのかさっぱりわからない、自分なら発砲スチロールでつくった頭をつけて黒猫にするねという兄の竜介。

受講者のみなさんに「徹の流木はアートだと思いますか?」と尋ねると、うまいぐあいに、ほぼ同数で意見が分かれました。それぞれに理由をきいてゆきます。


アートだと思う人の意見は・・・

  •  数ある流木から、わざわざ、その流木をピックアップしてるから
  •  本人がアートだと思えばアート
  •  芸術とは、特徴(真実)を浮かび上がらせるもの
  •  みる人が「面白いね」と言ったらアート
  •  アートとは、思考の枠組みを変えるもの
  • 「見てみたい」と思わせるから


アートではないいう人の意見は・・・

  •  アートとは、万人がみてアートと納得するもの(例:モナリザ)
  •  アートとは、自然ではなく人工的なもの、手をかけられたもの
  •  アートとは、心が動くもの


こうしてきいていくと、「アートとはなにか」について様々な判断基準があることがわかります。この人とこの人の意見はどんなに説得しようとしても相容れないだろうな、というような立場の違いも浮かびあがり、ドキドキしました。
人が「これはアートで、これはアートではない」と判断するときの指標は、直観的なもので、説明によって共感を得られるという種類のものではないのかもしれません。

しかし、そんななか、たった2時間の哲学教室のなかで、自分のなかのアートの定義を劇的に転回してみせた方がいました。
最初に主張された「万人がみてアートと納得するものがアートだ」という定義から、「本当に万人がアートと認めるような作品はあるのか」「作品の値段とアートとしての価値は比例するのか」といったいくつもの問いとの格闘をとおして、最後に「これはアートだとかアートじゃないとかいうふうに、問題作として話題になるような作品はアートといっていいのではないか」という定義に辿りつく過程で、最初の定義に含まれつつ見えていなかった「みんなが無視できないもの」「アートのもつ社会性」といったポイントが鮮明に浮かびあがってきたことに感動しました。

哲学教室では、哲学者の思想を学ぶだけでなく、参加者ひとりひとりが哲学者になることを目標としています。
途中何度も言葉を選び直し、自分の発言の矛盾を自ら指摘し、思考の推敲を重ねてゆく彼の態度は、間違いなく哲学者といってよいでしょう。

他の方も、自分の言葉で自分の考えを語りながら、「もっと語れそう」「もっと考えられそう」という手応えを感じられたのではないでしょうか。
後半は、アリストテレスやニーチェの芸術論を、彼らの芸術論以外の思想との関連も補足しつつご紹介しましたが、テキストにはない方向からのつっこみも展開されました。
予想以上の盛り上がりになかなか話を区切るのが難しく、少し時間をオーバーしてしましました。ごめんなさい。


さて、次回の哲学教室は、12月17日の予定です。
人権週間が近いということで、「“差別”とはなにか」(『中学生からの対話する哲学教室』第9章)を取りあげます。
詳細は、後日、さする庵のHPカフェフィロのHPメールマガジンでお知らせいたします。