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2014/05/01

ワガママはどこからか?

おはようございます、まつかわです。
今日はこれからグリーングラスの哲学カフェです。
その前に、前回の報告を書かないと・・・。
忘れていたわけではなく何度も書こうとしたんですが、おもしろい回ほど、まとめるのが難しいんですよねぇ。
(そういう場合はまとめたりせず、個人的な感想をここに書かせていただくことが多いのですが、助成金の関係でグリグラさんとは毎回報告を書く約束をしています。)

前回の卒業式につづき、今回は入学式と重なって、やはり参加者は少なめ。
でも、おひとり新規参加者が。中之島哲学コレージュでよくお会いする女性が来てくださいました。

参加者から提案されたテーマは3つ。

  • 健康になるために
  • ワガママはどこからか?
  • 世の中から優しさが減ってきたのはなぜか?

何度か多数決を繰り返し、僅差で「ワガママはどこからか?」が選ばれました。




色分けの意味は特にありません。
ただ、途中でペンがかすれてくるので青→緑→赤と持ち替えただけです。
でも、話の流れが可視化できて、予想外に気に入ってます。


●ワガママと感じるのはどんなとき?
まず最初に、「ワガママと感じるのはどんなときか」について、いくつか発言がありました。

  • 幼稚園の入学式や卒業式に一家総出で出席する家庭がでてきて席が足りず、他の子の両親が出席できない事態に。他の両親の席をとってまで祖父母の出席はワガママだと思う。
  • 高校受験に親がついてきて、他の受験生がバスに乗れなかった。小学校受験ならともかく、高校受験に親がついてきて迷惑をかけるのはワガママ。
  • 何をワガママと思うかどうかは、その人の年齢にもよる。幼い子どもならワガママとは感じないけれど、ある程度大きな子だとワガママだと思うことも。
  • 年齢にかかわらず、病気のときはある程度甘えていいと思う。でも、どこまで許容するかの判断が難しい。
  • 騒音で困って相手に対応を求めたら、「ワガママ」と言われた。すごく大変なのに「ワガママ」と言われると腹が立つ。
以上のような発言から、「ワガママとは、自分のことしか考えない人」という意見と、あるいは「相手の許容範囲を超える要求をしたときに、ワガママと感じる」という意見がでました。ここで、「ワガママ」の判断基準は、そう思われる客体のほうにあるのか、そう思う主体のほうにあるのか、という問いが浮かびあがってきます。

話し合ううちに、「これぐらいお願いしても大丈夫だろう」と要求する側と、要求を受ける側の許容範囲のズレが、「そんな要求をするなんて、ワガママだ」という判断につながるのではという意見もでました。

●ワガママの効用
もう一方で、「ワガママは必ずしも悪いものではないのでは」という考えをもつ人もいました。その理由は、「ワガママには、相手との距離を縮める効果がある」というもの。さらにその人は、「ワガママにはワガママで返さないと失礼だ」と持論を展開されました。
相手には相手の主張・理屈が、こちらにはこちらの主張・理屈がある。言ってもらわないとこちらも相手の希望がわからないし、相手もこちらの希望がわからない。互いに自己主張し合ってはじめて、歩み寄りも可能になる。

その方は、「ワガママを許す」というのは、決して「相手の要求どおりにする」ということではなく、「本音を引き出す」ことだとおっしゃいました。

それを「ワガママ」と呼ぶかどうかは意見が分かれそうですが、「たしかに、『自己主張するな』という関係より、自己主張し合う関係のほうが健全だな」と私は思いました。「こんなお願いしたらワガママになるかな」と遠慮しているうちに、お互い何を思っているのか理解し合うチャンスを逃し、お互い「こちらはこれだけ我慢しているのに」という不満ばかりが溜まってしまう。そんな経験があるからです。相手の許容範囲がわからない以上、大切な人には「ワガママ言っちゃってもいいや。イヤなら断ってくれるだろう」くらいの気持ちでいたほうが、よい関係を築けるのかもしれません。


他にもおもしろい話があったのですが、長くなったので、報告はここまでにしておきます。
さて、今日はどんな話が展開されるのでしょう? 楽しみです。
いってきます。