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2015/08/22

さいごのぞう


おはようございます、まつかわです。
8/19(水)は、アートエリアB1にて中之島哲学コレージュ「さいごのぞう」を開催しました。
徳島県立池田高等学校・探究科のみなさんも参加してくださって、58名と久しぶりの大盛況。(お席の確約はできませんが、定員を超えたからといって参加をお断りすることは基本的にしていません。)

進行の青木さんより、振り返りの文章が届いたのでご紹介します。



 これまでこの「絵本で死について考えるシリーズ」は、「絵を見ない」というかたちでした。今回は『さいごのぞう』の作者の井上奈奈さんから朗読動画を紹介していただき、初めて絵本を最初から最後まで、絵と一緒に見るというかたちになりました。井上さんありがとうございました。また、高校生がたくさん来てくれたこともあり、参加者の方にもれまでとは違った風が吹いていました。

 そんな新しい流れのなかの今回。『さいごのぞう』には「絶滅の危機にある動物の保護」というバックグラウンドがあり、参加者の方にもそれについて話された方がいました。それを考えることもまた大事なことです。そのためにも、今回はまず「だれかが、何かがいなくなることを私たちはどう思うのか」を考えたかったので、私はなるべくそういったことを皆さんと考えようとしていました。

 『さいごのぞう』にはたくさんのアイテムが出てきます。皆で話し合ったごとに振り返ってみましょう。

 まずは「りんご」。ひとり寂しくしていたさいごのぞうに話しかけたのが、ぞうの頭に落ちてきたりんごでした。このりんごはぞうがイメージした幻だったという考え方と、本物のりんごだったという考え方の二手にわかれました。



 りんごは幻だと考えた場合、なぜりんごだったのかということが気になります。一つにはぞうの好きなものだったから、もう一つにはむしろありふれたものだったから、という考えがありました。また、りんごが話していることはぞうが考えていることだ、という話もありました。一方、りんごは本物だったという方ではこんな話がありました。ぞうは寂しいがゆえに話し相手をつくった、それがりんごだった。もう一つは少し違って、あまりにも寂しくてりんごと話すことができるようになった、というもの。

 寂しさ、ひとりという感覚。そういったものがあまりにも強くなると、自分をたもてなくなってしまう。自分を安定させるために話し相手が必要だ、という考えがありました。ところが、それは一筋縄ではいかないようです。

 りんごはぞうに、「ぼくを一口たべませんか」と話しかけます。ぞうは毒りんごだってかまわないと、一口かじります。りんごは誘惑でもあり、ぞうにとっては危ないものかもしれない、それでも話してみよう。そういった孤独を抜け出すときの葛藤やぎこちなさ、危なっかしさのようなものを、りんごとぞうのやりとりから考えた方がいました。りんごはただ寂しいぞうの救い手だったのか、少し迷うところです。だれかと接することは、そうすることの喜びもあるけれども、それゆえの悲しみもある。でも本当に一人でいることの寂しさよりも、誰かといることの苦しさの方がいい。そういうお話もありあました。もちろん、一人でいたいという考え方も出てきました。

 さいごのぞうの「牙」。宝石のような牙。ぞうはそれがなければみんなといっしょにいられたかな、とりんごに問いかけます。そして、ぞうの意識が海の中に潜っていくときに、ぞうから牙がこぼれ落ちます。

 牙はそれをもつものにとって、あるいは他のだれかにとって大切なもの。ところが、それはまただれかを傷つけうる武器でもある。それがあることで自分が優れていることになるもの、自分が大切にしていることとしてのプライドは、自分を孤独にするかもしれないものでもある。

 りんごも牙もただ「良いもの」ではなく、「悪い」とまでは言えなくてもどこかトガっているところがある。おそらく牙のもつこんなイメージがあったために、さいごのぞうの「さいご」が安らかだったのかどうか、ずっと迷いが残るような対話になりました。

 牙はまた「人間の影」を感じさせるところがありました。「宝石のような牙」と、牙に価値を見出すのは人間らしいところだということですね。物語の中に「人間」は一度も登場しないのですが、「象牙」のように人間を感じるところはいくつかあります。物語の「語り手」、さいごのぞうのお話を語り継いでいる存在。これも人間を感じるという考えがありました。物語の途中、ぞうはりんごに旅に誘われ海へと出ます。そこで「船」に乗るのですが、これもまた人間らしいものです。そもそも、ぞうがすんなりと船に乗ったことも不思議なところです。

 私は「虹」について参加者の皆さんに問いかけました。海に出たぞうは、夜空にかかる虹を見ます。この虹は何なのでしょうか。



 虹は何かの変化の象徴だということ、そして、虹があるからにはどこかに「光源」があるはずということ。この二つの考え方から、さらに二つの考え方が出てきました。

 真っ黒な夜空なのに鮮やかな虹がかかる。それは別世界に来たしるしだという話がありました。夜に虹がかかることが珍しくもない世界、ぞうはそんな世界にやってきた。この話をされた方は、船についても話されました。船はこの別世界の「もの」が、他の世界からやって来たもののために用意したもの。だから、ぞうは躊躇することなく船に乗った。船は「人工物」かと思われましたが、実はまったく異なる存在が用意したものかもしれません。



 光源について考えた方は、それを「他の動物」として話されました。さいごのぞうには仲間がいないけれど、海にいる他の動物たちは仲間同士で仲良くしている。その姿はぞうにとって眩しすぎて見ることができない、その眩しさをぞうはかろうじて虹として見ることができる。ぞうは虹を見て涙を流すのですが、この虹の美しさはぞうにとって辛いものでしょうね。

 終わり際に、さいごのぞうのお話のなかで死はどんなものだと思われるか問いかけてみました。物語の中でさいごのぞうが「死んだ」と言われないことについて、語り継がれ記憶に残るかぎりまだ「生きている」ということだ、という話がありました。ぞうの問いかけにりんごが答えなかったというシーンがあります。これについて、死ぬまでに何度も問いを繰り返し、とうとう答えに落ち着くことのないまま死んでいくのかな、と考えた方がいました。


 迷いのもとは自分の内側にも外側にもあり、答えにたどり着くあてもなく、それなのに、ただ問い、考えることだけはできてしまう。寂しい、悲しい。それはないことにすることも、消してしまうこともできない。「どうすべきか」よりも「どう感じるのか」「どう思うのか」を考えることのできた時間だったと思います。

(青木健太/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)








カフェマスターを務めさせていただいた私も、みなさんの意見をきいて一人で絵本を読んだだけだと気づけなかったであろうことに気づかされ、考えを巡らすことができました。
参加してくださったみなさん、朗読動画について知らせてくださった井上奈奈さん、進行の青木さん、ありがとうございました。

日本哲学の研究科である宮野真生子さんをお招きし、「いま、ここで哲学すること」について考えます。
『哲学カフェのつくりかた』で中之島哲学コレージュの章を書いてくださった三浦隆宏さんの企画。お楽しみに。