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2011/02/28

2011/2/27中之島哲学コレージュ「言葉のスケッチ」

こんにちは。

2011/2/27に中之島哲学コレージュ「言葉のスケッチ」を開催しました。

参加者は30名ほどでした。


全盲の美術家、光島貴之さんが参加者の対話をもとにその場で作品を制作するという初の試み。



テーマは「雲の手触り」。

雲のかたちってどんなかたち?
雲をどのように感じてる?
曇を触ったことがある?
それはどんな感覚だった?
もし触ったとしたら、どんな感触だと思う?


もくもくしてる。シュークリームを積み上げた感じ。ぷーっと膨らんだお餅みたい。
重たい空気。風の流れに、見上げると、雲がある。
高い山に登った時、触ったことがある。
からだにまとわりつく。つつまれる。霧みたい。
ぼよんぼよん。ねばねば。ぐーっと沈み込む感じ。
そういった言葉とともに制作された作品は・・・・・・














光島さんのウェブサイト「光島ギャラリー 触覚で世界を描き出す」はこちら
投稿者:たかこ

2011/02/16

グリグラ哲学カフェ「学校って必要?」

こんにちは。まつかわです。
昨日は、予告どおり、育児サークル〈グリーングラス〉(グリグラ)での哲学カフェ。
トンネルを抜けるとそこは雪国・・・でした。
踏み固められた坂道。めっちゃすべります!
防寒対策だけでなく足下対策もすべきでした。

前日の夜、グリグラの方から「道路が凍結してて、車の人は行けないかも」と連絡があり、一瞬中止!?とも考えましたが、中止にしたところでそれを参加するつもりの人に伝える術はないし、来る人は来るでしょう。私も楽しみにしていたし、一人でも来てくれたらやるぞ!と行って参りました。

いつも駐車場として利用している園庭もこのとおり。


幸い、誰もこないかもという心配は見事にはずれ、この日もいつもと同じく8名ほどの方が参加してくれました。なかには、久しぶりに顔を出してくれた方や、この日初めて参加する男性の方も。事前にメールで「急にこんなオッサンがやってきたら、驚かれるのでは」とお問い合わせいただきましたが、大丈夫です! 休日に休みをとれない男性が参加されることもあるんですよ。
多数決の結果、この日のテーマはこの男性が提案してくれた「学校って必要?」に決定。

「小さい頃から学校が苦手だった。じっと座っていることも苦手だし、トイレも自由にいけないし、給食も苦手だし、いじめもある。学校があることによって生じている問題は多い。学校って本当に必要なんかな?」
「うちの子は一人っ子だから、同じ年代の子と遊んだりケンカしたりする機会があるのはありがたい」
「うちの子は病気で学校に行けない状態だけど、意外と学校に行かなくてもちゃんと育つもんだなと思う」

とまぁ、最初のうちはこんなふうに、子どもが育つために何が必要か、という視点から議論していたのですが、議論をはじめて40分ほどたったときかなぁ、ずっと黙って他の人の話をきいていたあるお母さんが一言。

「学校は必要です! 学校は託児所なんだから、ないと私が困る!」

子どもが学校に行かず一日家にいたら、お母さんは好きなこともできず、一日「お母さん」でいなければならないじゃないか、というわけです。参加者一同、爆笑。
と同時に気づいたのは、学校に対する期待は、立場によってずいぶんちがうということです。子どもにとっては友だちに会う場だし、母親にとってはつかの間の自由をくれる託児所だし、先生にとってはお金を稼ぐ場である。学校というのは、様々な期待と思惑が渦巻く場であることがわかりました。

気づいたら、議論に夢中になりすぎて、哲学カフェの様子を写真に撮るのを忘れていました・・・。広報失格、すみません。

今年度のグリグラ哲学カフェはこれでおしまい。
また、来年度の予定が決まったらお知らせします。

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くわばらです。足先が冷えます。

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2011/02/14

明日はグリグラ哲学カフェです

まつかわです。
寒いですね〜。
私が住んでいる岡山でも、めずらしく朝から雪が降り続けています。

明日はグリグラ哲学カフェですが、鈴蘭台も相当寒いでしょう。
参加者のみなさん、ぜひ防寒対策はしっかりめに。
「神戸でしょ? 余裕余裕」なんて甘くみてると、神戸電鉄でトンネルを抜けるたびに後悔しますよ。

ストーブと熱いコーヒー用意して、お待ちしております。

シネマ哲学カフェ/『インセプション』

くまです。

インセプションでシネマ哲学カフェを行いました。
14名ほど参加されていたでしょうか。ありがとうございました。

初のDVDシネマ哲学カフェだったわけですが、久しぶりに
すべってこけました。

やれやれ。

シネヌーヴォーさんに相談して、DVD哲学カフェのときにもカフェ後に
上映している映画を前売り料金にしていただくことになったので、「369
のメトシエラ」を見に行きました。

日本の映画、なめてました。
同時代の日本の物語映画は演劇調なので嫌いだったんですが、
うーん、良かった。こけた傷が癒されたかんじです。

テーマは、孤独/ともに生きるでしょうか……。

次回のシネマ哲学カフェをフェリーニの「道化師」でやろうかと思ってたんですが、
この映画でやろうかと思い始めました。

乞うご期待!!

2011/02/06

いしばし商店街哲学カフェ










2010年11月21日(日)
大阪府池田市石橋商店街
タローパン








テーマ
「がんばることに価値はあるか?」






進行役
三木陽(大阪大学文学部3回生)

2011/02/03

2011/1/28中之島哲学コレージュセミナー「『職業教育の教育的意義』 とはなにか」アートエリアB1

*Blog内写真の無断転載を禁止します

ゴリラ問答/言葉で傷つくということ

おはようございます。くまごりらです。

中之島哲学コレージュで「言葉で傷つくということ」をテーマに哲学カフェを行いました。参加者は46名。
言葉で傷ついた経験を話すと、おもーい空気になるだろうと予想していましたので、最初に進行役から例を出しました。

「見ていただいたら分かると思いますが、僕はでかいです。
 熊と言われると傷つかないけど、ゴリラって言われると傷つきますね。ドンキーコングって言われるとそんなに傷つかないですが」。

皆さんのこの例への食いつき方がすごかったですw
ほとんど僕のカウンセリングみたいになりました。
ゴリラという言葉にマイナスイメージを持っているから傷つくのでは?
初めて言われた時に蔑むような文脈で言われたからでは?
誰に言われるかによっても傷つく/傷つかないが変わるのでは?
この辺までは比較的和やかでしたが、

病気の犬の世話をしているときに「かわいそう」と言われて傷ついた。
障害のある方を、ひとりの人間として扱うと新聞に書いたが、「扱う」
という言葉が機械を扱うというニュアンスがこもっているということで
クレームを受けた。

この例が出たくらいから、徐々に場が真剣になっていきました。
何を言っても、どんな状況であっても、その振舞いが人を傷つけてしまう
ことはあるのだから、我々はその振舞いに対して覚悟を持たないといけない。

でも、傷つくということは、その場で「傷ついた」と言うことができる
なら、それは何らかの回復は、もうできている。
だって、本当に傷つくというのは、その場で何も言えなくなって、傷ついたか
どうかすら分からないっていうことでしょう?
そんな風に、言葉を奪われることが傷つくってことなんだ。

傷つくことが、そんな風に何が起こったか分からないから、傷つけること
に対する応答は、常に遅れてしまう。
傷つけたかどうかすら分からないという、その遅れに対して我々は気をつけ
ないといけないんだ。
そんなとき、言葉で傷ついたのに、体がこわばったり、動けなくなったりする。
だから、言葉で話しているつもりで、人を殴るように身体を傷つけているの
かもしれない……。

無数の発見があった、すばらしい哲学カフェでした。
なによりみなさんの言葉が、重く、力強かったです。

「『傷つく』ということが、はじめは 不ゆかいに思うこと程度のとらえ方だったのでどうかと思っていましたが、だんだん論議が深まって、有意義でした。いろいろと考えることができました。」

「大変面白かったがやっと興がのってきた時点でお開きとは残念」

「様々な意見が聴けた」

という言葉が参加者の皆様のアンケートから寄せられました。

さて、このテーマの元ネタは、ジュディス・バトラーの『触発する言葉』です。
もし興味がおありの方は、そちらを読んでもらえると更に面白いかもしれません。

僕もついつい、amazonで発注してしまいました。
さて、勉強。勉強。

*Blog内写真の無断転載を禁止します

哲学カフェ「あなたにとって人権ってなに?」

まつかわです。
ご報告が遅くなって、ごめんなさい。
1月25日(火)に開催された豊中人権まちづくりセンターでの哲学カフェ、寒い平日の夜にもかかわらず、18名の方が参加してくださいました。

テーマは「あなたにとって人権ってなに?」。
実はこのテーマ、最初にセンターの方から提案されたときには変更しようかとおもいました。人によってイメージがバラバラで「哲学する」のが難しいし、前回のアンケートで「もっとテーマを絞ってほしい」という声もあったので。しかし、様々な人権問題に取り組む場所にふさわしいテーマであること、ふだんこちらで開催されている講義形式の講座では扱えないテーマであること、そしてなにより、参加者が熱心で1回目の議論が非常に充実していたことなどから、挑戦してみることにしました。

さて、議論の内容はというと・・・

「差別語は人権問題じゃないか」
「仕事や発言が認められたときの、自分のことが認められているという安心感」
「戦争など命が危険にさらされる状態にないので、生活のなかで『人権』を意識することはない」
「お年寄りがトイレ掃除の仕事をしているのをみると、人権侵害ではないかと感じる」

・・・などなど、予想通り、多種多様な「あなたにとっての人権」が挙げられました。なかには、他の人の話をきいて「え!? それも人権に関わることなの?」なんて反応もあり。
そこで、開始から30分たったあたりで、進行役から「それぞれの考えの相違点と共通点に注目しながら、自分にとって人権とは何か、考えてみてください」と声をかけてみました。
すると、いくつかの争点が浮かび上がってきました。

  • 「人権は権利の一つである」という考えに対して、「『人権』は自分の存在が認められているという安心観を指すひとまとまりの言葉であって、『人間の権利』とは異なる」という意見
  • 「ある人と別のある人の権利と権利のぶつかり合い」に関する発言に対して、「権利は個人と個人のあいだにあるものではなく、社会的なものではないか」という意見
  • 「権利を主張する」という考えに対して、「権利は主張するものではなく行使するものである」という意見

しかし興味深いことに、これらの争点について対立する立場の人にじっくり議論してもらうと、根底では同じ考えを共有していることがわかりました。「個人と個人の関係にも、社会的な権力関係が反映されることはある」、「権利の行使が、具体的には主張という形であらわれることもある」、「自分が認められているという安心感を求める気持ち、それが人権を守ろうという意識の源なのではないか」などなど。

2時間みなさんの議論をきいて、「人権ってなに?」の答えを一言で表すのは難しいけれど、少なくとも次のことはいえるのではないかと思いました。それは、人権とは、社会全体がうまく機能するために誰かを犠牲にするような態度の対極にあるということです。
難しいテーマでしたが、思い切って挑戦してみてよかったです。
今年度の豊中人権まちづくりセンターでの哲学カフェはこれで終わりですが、また機会があれば、このようなふだんから人権問題に取り組む場所で、また対話づくりに関わってみたいです。


会場の部屋に展示されているパネル。
知識を一方的に与えるのではなく、
自分で考えられるよう工夫されています。


こちらは身近な同和問題について考えるパネルでした。
こんなパネルをきっかけに対話するのもいいですね。