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2011/10/31

哲学カフェ「人はなぜペットを飼うのか?」報告

 こんばんは。たかはしです。
 手前味噌になってしまいますが、寺田さんの教育についての哲学カフェの報告、そして小金井哲学カフェの「メタ哲学カフェ」の議事録、大変面白く読みました。
「哲学カフェ」には決まったやり方はありませんので、どんな話し合いでも、参加された方が楽しく、安心して話しあいができれば、それでよいのだとは思っていますが、上の二つの哲学カフェ報告を読ませていただいて、「今日は面白かった!」と思えた哲学カフェについて、やや進行役目線のメタ的な考察を含め書いてみたくなりました。

 先日の土曜日、千里公民館で開かれた哲学カフェです。テーマは「人はなぜペットを飼うのか?」でした。話し始めていきなり、「『ペット』とか『飼う』という言い方自体に抵抗がある」という意見や、「自分も動物を飼っているが、なぜ、と言われても、別に理由や目的があるわけではない、なぜ家族と一緒にいるかと聞かれても答えられないようなもの」という、最初のテーマを根底からくつがえすような意見が出てきました。進行役の私は困るどころか、「いいぞ、いいぞ!今日の哲学カフェは面白くなりそうだ!」と思って聞いていました。

 私自身は、哲学カフェの問いは、対話の呼び水だと考えています。ですから「人はなぜペットを飼うのか?」という問いについては、それに答えることが目標なのではなく、これについて参加者の皆さんが思うことを話して行かれる中で、いろいろな「発見」があるのが哲学カフェの一つの醍醐味だと思っています。今回のカフェは、参加者のみなさんがテーマについてあらかじめ考えてこられたこともあって、「テーマ自体の前提を疑いうる!」という発見が最初からありました。

 話し始めて最初は、人間と動物の関係について、「癒しを得る」あるいは「愛情をそそぐ」というような(わりと誰でもすぐに思い浮かべる)意見がでてきたのですが、そこからみなさんの発言により、「気晴らし、ストレス発散のようなものと、動物がそばにいる、動物をみたりさわったいすることで得られる、気持ちの変化とは全然ちがう」という話や、「愛情とは何か、愛情とは独りよがりなものではないか」という話、人間と動物は「同じ」なのか「違う」のか、「動物とコミュニケーションがとれるかどうか」「他の種、他者とはなにか」というようなさまざまな問題がそこに関わって来ていることも「発見」されました。
 また、それだけでなく、人間と動物の関係が「飼い主とペット」という関係になったのはいつからなのか、という話が出て、それには都市化や商業化、産業形態の変化など、人間社会の変化が大きく関わっているということが見えてきましたし、「ペット(愛玩動物)」という表現がいいのかどうか、外国では「コンパニオンアニマル(連れ合い)」という表現に変わって来ている、という話から、関係が変わってきているから呼び名が変っているのか、呼び名が変わっても関係は変わらないのか、というような話もできました。

 今回の哲学カフェは、例えて言うと「人はなぜペットを飼うのか?」という小さな穴(問い)からのぞいてみたら、いろいろな星座の連なり、広がりが目に飛び込んで来た!、というような経験に近かったように思います。もちろん、ひとつのテーマをつきつめて考えて行くタイプの哲学カフェもありだと思っているのですが、私自身は「小さな穴やと思ってのぞいてみたのに、大きな世界が広がってたぞ!」という哲学カフェが割と好きです。

 みなさんはいかがですか?? 大阪でも「メタ哲学カフェ」やってみますかね??

学校と教育を考えるカフェ「学校文化」

こんにちは、まつかわです。
カフェフィロ正会員の寺田さんより、10月22日に開催された「学校と教育を考える哲学カフェ」の報告が届きました。(寺田さん、ありがとうございます!)
さっそく、ご紹介させていただきます。




ぼくは日ごろあまりカフェの報告を書きません。「哲学カフェの対話はその場かぎりのものだと考えているから」と、ふだんから言っているし、それはただの言い訳にすぎないわけでもないのですが、対話の内容を振り返ってみることの意味を否定するものではありません。そこで、今回は珍しく報告を書いてみます。

いつものCafé Klein Blueに15人くらいの参加者。現役の教員もおられました。学校と教育を考えるカフェは一般的なテーマのカフェより、参加がいつも少なめです。
今回のテーマは「学校文化」。
最初学校文化と聞いてイメージすることを自由に話してもらいながら、問いを見つけることにしました。
校則、学校行事、学校で身に付けた独特の物の考え方・行動の仕方が社会生活にも影響すること、「楽しいところだ」と言わせられるところ、閉じられた領域、個人よりも集団が優先される教育、など思い思いのイメージが次々とあげられていきます。そのうち、学校文化は変わっているのかいないのか、世代の違いによって学校文化の経験が違うのではないか、という問いが出たので、昔と今とで違っている点を述べあってみました。その結果、学校文化は、小さいところでは変わっているが、大きなところでは変わっていないという結論が出ました。しだいに、個人よりも集団が優先されるというところから、個性を尊重する文化がないということが話題の中心になっていきました。

そこで、とりあえず「学校で個性を育てる教育は可能か、それが不可能であるとすれば、学校が閉じられていることと関係があるか」という問いを進行役から提案しました。すると、「個性」の意味があいまいなので暫定的に「個性」の意味を規定しようという提案があったので、しばしやりとりの末「自分の考え・感じ方を表現できる力」と暫定的に規定して対話を再開しました。

また、学校は閉じらているというが、それは確認されたのかという疑問が出されたので、それについてしばらく話しました。その結果、外来者が入りにくい、教員の移動が少ない、構成員のほとんどが学校という社会しか知らない人々である、子どもの拘束時間が長い、学校のなかにも学級という閉じられた空間がある、という多重の意味で閉じられている、ということで意見が一致しました。

閉じられていて多様性に乏しい空間では、自分の個性に気づく機会も少なく、自分を表現する動機も雰囲気も生じにくいという発言ある一方、個性的であることは、閉じられている・いないにはかかわりがない、という意見の応酬。異なった意見に対する批判が人格攻撃だととられることが多く、それが自分を表現することを妨げている、意見は違っても一緒にいることができるという文化がない、などいろいろな考察が次々と披露されました。

やがて「なぜ」と問われなければ自分が本当は何を考えているのかもわからないし、自分を表現することもできない、という意表を突く意見が出て、それが中心になって対話が進行しました。「なぜ」と問う文化のないところでは個性を育てる教育は不可能である、というテーゼに多くの参加者が共感を示したところで、「夕焼け小焼け」のチャイムが鳴って帰る時間になりました。

最後の「なぜ」という問いをめぐる対話も魅力的でしたが、随所でメタ・ダイアローグ的な発言が出て、進行が修正されたお陰でいっそう対話的な進行になり、充実感がありました。また、子どもが受け身・弱者であるかのように話しが進んでいるが、子どもも能動的に環境に適応する選択をしながら学校で生きている、という指摘も印象的でした。

次回は「学校教育における集団性と個性」というようなテーマで話すことになりました。


(報告:寺田俊郎/カフェフィロ正会員)


「学校と教育を考える哲学カフェ」は、2ヶ月に1回、偶数月に東京で開催されています。
ということは、次回は12月ですね。
詳細については後日(11月20日ごろ)、カフェフィロのメルマガやHPでご案内できると思います。
関心のある方は、ぜひチェックしてください。

メルマガ(無料)のご登録はこちらよりどうぞ。



2011/10/26

小金井哲学カフェのお知らせ


こんにちは、松川です。
カフェフィロのイベントではありませんが、小金井哲学カフェのやまもとさんより、次回の哲学カフェについてお知らせいただきました。
お近くにお住まいで関心のある方は、ぜひチェックしてみてください。


日時:11月5日(土)15:00-17:00
場所:シャトー小金井2F(JR武蔵小金井駅から徒歩5分)
テーマ:当日決めます
参加費:飲み物代のみ(カフェでの1ドリンクオーダーをお願いしております)

参加申し込み等の詳細は、小金井哲学カフェのブログをご覧ください。
http://koganei-philosophycafe.blogspot.com/

主催:小金井哲学カフェ(やまもと)


小金井哲学カフェのブログには、前回の「メタ哲学カフェ」の議事録進行役の感想もあります。
参加者が哲学カフェをどんなふうにとらえているのか垣間みれて、とても興味深いです。


2011/10/25

「ちいさな哲学者たち」岡山で上映!!

こんにちは、まつかわです。
普段は大阪〜神戸あたりで活動している私ですが、実は1年ちょっと前より岡山に住んでいます。
そして先日、映画『ちいさな哲学者たち』が岡山でも上映されるとの情報をゲットしました!!
シネマ・クレール丸の内にて、10月29日(土)より上映のようです。

あんまりいないかもしれないけど、もし岡山在住の方がいらっしゃればぜひ!
哲学の時間を通して少しずつ変わっていく子どもたちの様子は、いろいろ考えさせてくれるはずです。
(注:シネマ・クレールのまわしものではありません)



・・・岡山でも、シネマ哲学カフェを開催してみたいなぁ。
いつまで上映してるのかしら。 上映期間は2週間、11月11日までだそうです。
それより、参加してくれる人はいるかしら。
今回は準備する時間がなくて実現は難しいかもしれないけれど、岡山で関心のある人がいたらぜひコメントください。

岡山でも哲学したいまつかわでした。

2011/10/19

中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「話がかみ合わないとはどういうことか?」

こすがです。10月12日に開催された中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「話がかみ合わないとはどういうことか?」の参加者の方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。

「話が「かみ合う」事と「伝わる」事は違うんだと思いました。自分が「かみ合わない」と思うこともあるけれど、思われてる事も多いかも…と思いました。」

「「話」と一口に言っても、議論から主婦同士の会話まで、様々な形がある事に気付いた。その様々な形(ルール?)に適応するように使いわけをしたり、あるいは出来なかったりしてかみ合わないと感じるのかもしれない。「気が合う、合わない」「通じる、通じない」「かみあう、合わない」の違いを改めて考えてみたい。」

「話のかみ合わなさについていろんな視点から考えることができて楽しかったです!帰りながら友人ともっと話をしてあれこれと考えを深めたいです。」

「話を聞いているうちにかみ合わないのが普通というか、それでもいいんだなと思いました。お互い、「かみ合ってないよね」と思ってしまっても逆にかみ合っていることになると思うので。たいしたことではないなと。私が、「かみ合わない」という状況だなと感じるのは、相手が、もしくはお互いに何か隠したいことがある、守りたいものがある心理状態で対話しているときで、そういうときはもう、仕方のないこと、とあきらめて、かみ合ってないと感じても根底に好意が流れていることを感じる相手と、かみ合うまでの道のりを楽しむことがダイゴ味なのかなと思いました。」

「今日も楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました。5周年おめでとうございます。」

当日は44名の方々にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。

2011/10/07

てつがくカフェ@ふくしま特別編 開催のお知らせ

こんにちは、まつかわです。
てつがくカフェ@ふくしまを主催している渡部さん(カフェフィロの会員でもあります!)より、特別編開催のお知らせをいただきました。




 てつがくカフェ@ふくしま 特別編

テーマ : 〈いま、健康をてつがくする〉



     ―福島で人間らしく生きるために―


日 時 : 10月22日(土) 14:00~17:00

場 所 : 福島ビューホテル 安達太良の間 (福島駅西口正面 ・ 西館3階)るそう


世話人 : 牧野英二(法政大学文学部 教授)
 小野原雅夫(福島大学人間発達文化学類 教授)
 渡部純(福島県立高等学校 教諭)
 齋藤元紀(法政大学サステイナビリティ研究教育機構  PD)
 大森一三(法政大学サステイナビリティ研究教育機構  RA)

参加費無料、事前申し込み不要
(当日参加可ですが、準備の都合上あらかじめ下記問い合わせ先まで参加の連絡を頂けると助かります)

主催 : てつがくカフェ@ふくしま法政大学サステイナビリティ研究教育機構

問い合わせ先 : fukushimacafe★mail.goo.ne.jp (★を@にかえてご送信ください。)




福島で第1回カフェ以来久しぶりに東日本大震災、特に、原発事故の問題について考えることになります。
「ご参加いただける方々にはありったけの思いを語っていただけるよう、いつもより長めの時間を確保しました。」とのこと。
てつがくカフェ@ふくしまのブログに、主催者からのメッセージやこれまでの報告もたくさんあります。
ぜひご覧のうえ、ふるってご参加ください。


そうそう、カフェフィロのニューズレター『哲学喫茶瓦版』2011年9月号は震災特集です。
てつがくカフェ@ふくしまの渡部さん、小野原さんのインタビューもございます。
カフェフィロ会員のみなさまには間もなく届くはず。お楽しみに。
(カフェフィロ会員へのお申し込みはこちらよりどうぞ。)


2011/10/05

中之島哲学コレージュ/書評カフェ『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』

こすがです。9月28日に開催された中之島哲学コレージュ/書評カフェ『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』の参加者の方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。

「生きづらさを抱えている人への理解が大切ではないかと思います。相手に対する気づかいを第1に考えていかないといけないのではないかと思いました。この2時間の間に様々なことを考えました。本日は、参加することができて、とても楽しかったです。」

「本当に多様な意見が聴けて驚きました。(対立する意見や様々な経験)そして進行役の方がとても考えながら誠実に進めようと判断を常にしながらでいらっしゃったのがとても良かったです。こういうふうにここでもう一回考えてもいいんだとかどんどん日常の会議などは進んでいくので大変参考/発見になりました。関係性や場についてはその場での合意(認めあう自由さなど)があれば話しやすいと思いました。こういういろんな人がいると知ることがよいのではと思いました。大変ありがとうございました!」

「たしかに「解決策」はわからないですよね…。ただ、関係性について社会要因論でも自己責任論でもない、居心地のいいHAPPYな<答え>を自分たちは求めてるんだなあ…って発見できただけでも収穫でした。」

「みんな、不器用ながらも必死で自分のことばで話す姿が印象的だった。進行役の人も一生懸命聞いていたので(マトがはずれた発言でも)おどろいた。また参加したいと今回参加してみて思いました。発言することはまだはずかしいけど、いろんな意見をきいて考えられただけでもよかった。」

「最後の次回の設定「話がかみあわないとはどういうことか」というのが哲学カフェのおもしろさかなと思いました。結論がでないという場はおもしろいですね。普段ないシチュエーションだなと思いました。」 

当日は52名もの方々にご参加いただきました。


ご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。

初めて参加した人の感想は?


こんにちは、まつかわです。

先月末の中之島哲学コレージュのあと、参加2回目の方に感想を聞く機会がありました。
参加されたのは9月13日の哲学カフェ「見えないものはなぜ恐いのか」と、28日の書評カフェ『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』です。
初めて参加された方がどんなふうに感じるのか、とてもわかりやすく聴かせてくだったのでご紹介させていただきます。

913日(火)の「見えないものはなぜ怖いのか」の回から初めて参加させていただきました。
今までも、神戸でこのラボカフェのチラシはよく見ていて(どこでだろう、おしゃれなカフェとかにあったような)、ぜひ一度行ってみたいとずーっと思っておりました。でもなかなか日にちが合わなくて、あの日は休みで、やっと行けるーと思い夢がかなったような気持ちでした。

初めてで、まったくどういうものかわからず参加しましたが、[実際に参加してみて]ほんと意見の層が広く意見に対して思うことがあれば自分の感じることを自由に言ってよさそうだな、と思いました。(流れの把握は大事ですが)

そのうち、どんどん、「初めてですが‥‥」という人も意見を言っていたので初めてでも[発言して]いいんだな、と思い、この場に、意見を聴いた上での居るものの責任感みたいな感覚で、「この意見も入れてほしい」「このまま終わっていいのか」と最後のほうに[自分の意見を]言いました。言いたいというよりは言わなければいけないかもという感じでした。(けっして苦痛とかではなく、でも勇気みたいなのはやっぱりいったかな?)

そうそう、あと素朴な感想として、今まで、お話が前の位置にまた戻るというのがあんまり発想なくて、日常でも意見言い遅れたりしたらどんどん先に進むしまた戻すのってわるいなー言いにくいなーと思っていました。よっぽど言いたい時は「話戻りますけど~」と遠慮して言いながらなんとか言うっていう、どちらかというと流れをとめてはいけないような呪縛??でマイナスのイメージがありました。でも哲学カフェでは、そんな抵抗はなくちゃんと最初に戻って話をするのが新鮮でした!


Nさん、ご感想(+ブログ掲載にご了承いただき)ありがとうございました。
初めて参加した方が、あの場をどういうふうに感じるのか、どうやって発言のきっかけや勇気を得るのか、大変参考になります。
特に、「お話が前の位置にまた戻るのが新鮮」という感想。私なんかは、戻るのに慣れてるので、「そうか、慣れてない方は流れを止めるのを遠慮することがあるだ」と改めて気づかされました。大事なポイントで流れをとめて立ち止まるのは大切なことなので、初めて参加する方にはぜひお伝えするようにしようかな。