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2012/04/28

中之島哲学コレージュ/「コレージュのかせつ」を考えよう(1)

こすがです。4月25日に開催された中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「「コレージュのかせつ」を考えよう(1)」に参加者された方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。

「社会に対する「あたりまえ」の意見が、私は嫌いです。ホームかアウェイか、自分はどこに所属しているのか、常に考えてしまうので、ゲストの方がおっしゃられたことに少し救いを感じました。私はどこにいるのだろうか、と考え込んでしまうことがあるので…。」

「フリーな空間がいごこちよかったです。ありがとうございました。」

「過去のプログラムを見ると、「参加したかった」というものが多くあって、悔しく思いました。リバイバル開催しませんか?」

「プログラムとしては不充分?なのかもしれませんが、個人的には新しい発見がたくさんありました。」

「不調のまま参加して考えることも哲学だという発見に同感です。私もカゼ気味だったので、前のお2人がまったり進行してくださったので、だらっと参加し(でき)ました。」

今回の参加者は31名でした。ご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。

2012/04/23

エリトア哲学カフェの様子

こんにちは、松川です。

4月8日に開催されたエリトア哲学カフェの動画が、
エリトアのHPにアップされました。
話の内容はわかりませんが、会場の様子がわかります。
「どんなところでやってるのかな?」という方は、こちらからどうぞ。
(更新されても見失わないよう、YouTubeのページをリンクしておきますね。)

「話の内容も気になるよー」という方は、ぜひ参加してみてください。
担当の井尻さんによると、今後もエリトア発行に合わせて開催される予定です。


2012/04/20

哲学カフェ「公立校と私立校の違いとは?」、進行役の感想

4月からカフェフィロに加わることになった三浦です。
名古屋からもイベントの告知や報告をばんばん出せるよう、がんばっていきたいと思いますので、
みなさんよろしくお願いいたします。


こすがさんが参加者の感想をピックアップしてくださったので、進行役の感想を少しばかり記して
おきます。

「公立校と私立校の違いとは?」という私としては単純な問いのつもりだったのですが、さまざま
な要素が絡んできて、個々の参加者の発言から議論の筋を見いだしていくのが今回は非常にむずか
しかったです。

たとえば同じ公立でも、中学までと高校からとでは、入試を経ている以上、全然違いますよね。
後者の場合であれば、進学校だとある程度同じ学力層の生徒が集まっていることもあり、そこでは
「公立校の私立校化」とでも言うものが起きていますし、また両者の差異については、公立高と私
立高を両方経験した人はあまりいない以上、なかなか語りだせないわけです。

そこで、僕としては後半から「中学までに限定したうえで両者の比較をする」という方針で臨んだ
のですが、ここでもたとえば「小学校から私立」という同じ立場の人がいたとしても、一方では
「親の職業がさまざまでバラエティーに富んだ生徒が集まっていた」と発言される方もおられれ
ば、他方では「同じような生徒ばかりが集まっていて息苦しかった」とおっしゃる人もいて、やは
り両者の発言から共通の要素を見つけていくのが非常にむずかしかったです。
その合間には、「宗教や経営、競争という要素が入ってくるのが私立で、そうでないのが公立」
「公立はその地域と密接に関わりをもつが、私立はそうではない」といった、掘り下げてみたい論
点も断片的には出てきたのですが、そこから焦点を絞って進行していくことができなかったです。

というのも、普段であれば、「その話はいまの議論とはあまり関係ありませんね」と発言を遮って
でも話の筋を大事にしたりもするのですが、今回は個々の発言者の方が自分自身が受けてきた教育
を振り返りながら発言されていることもあって、いつも以上に言葉に重みがあり、つい「聴く」こ
とを優先する進行になっていたからだと思います。
だからでしょうか、後半ではとくに「意を決して」という感じで話をされる方が多かったように感
じました。そしてその発言を参加者がみな聞き入っているという雰囲気で、議論という点では失敗
でも発言の共有という点ではまあ良かったのかな、という気もします。(ただ、後者で満足してし
まっては、進行役としてはいけないのでしょうが。)

最後にある参加者の方が言われた、「ここに集まっている人はよい教育を受けてきた人たちであっ
て、その言葉は8割方の教育下位層の人たちには届かないのではないか」という言葉がずしりと突
き刺さる状態で終わりました。

東京でも長いこと「学校と教育」を考える哲学カフェが開催されていますが、中之島哲学コレージ
ュでもしばらく続けていきたいと思っていますので、関心がおありの方はいつでもお越し下さい。

2012/04/19

中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「公立校と私立校の違いとは?」

こすがです。4月13日に開催された中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「公立校と私立校の違いとは?」に参加者された方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。

「様々な視点があって、全然知らないことや、考えたことのなかったことなどに分かり、有意義でした。私立、土曜も授業あり、コマ数も多い。親にはウケはいいけど、生徒はそんないいとは思っていなかったり、そういう、当事者である生徒目線のことも、もっと考えられるのかなと思いました。」

「教育=競争ではない。」

「公立か私立かと選べる階層の人々だけが議論しているように思いました。だから逆に私立は経営のためという意見にとても納得しました。そこそこの高校に行ける子どもならどちらでもかわりないなら、公立に行かせようと思いました。」

「本間氏の言われるように、教育が今の人々を生きることを支えていて、従って、簡単に議論できないと強く感じました。」

「はじめてラボカフェに参加しました。本当にいろんな方が参加されていて、とてもおもしろいと思いました。スタートした時に点と点だったものが徐々ににじんで線がみえてくることが興味深かったです。」

今回の参加者は33名でした。ご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。

2012/04/17

4月の小金井哲学カフェより哲学カフェは・・・

こんにちは、まつかわです。
やまもとさんより小金井哲学カフェを引き継がれた、はなのさんより4月の哲学カフェ開催のお知らせが届きました。



小金井哲学カフェ「働くことは好きですか?」

お勤めされている方だけではなく、学生の方、主婦の方も大歓迎です。「働く」ということについて、対話を通じて「働くこと」の意義や「働く」の意味の再定義などができればと思います。

日時:4月22日(日)13:00-15:00
場所:ピリカカフェ(東京都小金井市本町5-12-14森ビル2F)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)
主催:小金井哲学カフェ(はなの・まつうら)



あ、このテーマ好き。
今週末ですね。お近くの方はぜひ。
詳細は、小金井哲学カフェのブログをご覧ください。


2012/04/12

哲学カフェ「表現の生まれるところ」

こんにちは、まつかわです。
岡山はお花見日和ですが、みなさんのところはいかがでしょうか。

さて、井尻さんよりエリトア哲学カフェの報告が届いたのでご紹介します。

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こんにちは
カフェフィロの井尻です。

4月8日(日)に、東京・池袋のatelier bemstarにてエリトア哲学カフェを開催しました。
昨年12月に続き、フリーペーパー「エリトア」発行記念イベントとしての哲学カフェは2回目。
今回のテーマは「表現の生まれるところ」でした。



「表現の生まれるところ」と聞いて、まず思い浮かぶところは?

「アトリエ」。それから「キャンバス」。
自分は絵を描いているから、そういうところを思い浮かべるという意見。
「山」「田畑」。緑の多い場所で生活するようになり、そういった環境そのものが、
なにかの表現をうみだすところになっているのではという意見。

それらを挙げていくなかで、参加者から指摘されたのは、「『表現』をどうとらえるか」という問題。
たとえば、絵や写真、彫刻といった、いわゆる作品制作行為を、「表現」とするのか。
でも、「生きていることすべてが表現である」。
「赤ちゃんが泣くのも、表現である」ともいえるのではないか。

その両者は異なるようにみえて、「やむにやまれず/本能的に」行う行為であるという点では同じなのでは?
本当に?みんなそうなの?

そこから、参加者のみなさんに「表現」についての具体的体験を挙げていただき、考えることにしました。

「人の表現に触れたとき、自分も何か表現したくなる」
「自分は絵は描かないけど、たとえば、今日ここに来るときにどんな服を着てくるかも、表現といえるのではないかと思う。意識的/無意識的の違いはあっても、みんな表現しているのでは」
「自分はストレス発散のために絵を描く」
「表現することが、毒だしにもなる。けれど、毒を出すようにして出したものが、花として受け取られることもある」
「何かを知って、ほかの人にも伝えたい、共有したいと思ったとき、twitterなどでつぶやく。表現する」
「自分も、共有したいと思って絵を描く。共有したいという気持ちが、人が表現するときには関わっているのではないか?」
「では、アウトサイダーアーティストは?共有したいという思いから描いているのではないのでは?」
「写真を撮ることは、自分の確認作業になっている。発表したら、と言われて発表することをはじめたけど、はじめからそれが目的ではない。けれど、見てもらって、何かうけとってもらえたらうれしい」

「共有」という言葉をめぐっては、「共有は、A=Aと受け取られることではない。AがBと受け取られても、それは共有だと思う」という意見も。



いろいろな意見がで、論点もいくつかみえてきたところで、それまでの流れをふまえ、「表現したいという気持ちは、なぜ生まれるのか」というひとつの問いを設定し、考えていくことにしました。


「表現することで、伝えたいと思うからでは?」
「無人島で、たった一人でも、人は表現するのだろうか?」

ここからさきの展開もとても興味深かったのですが、長くなってしまうので、割愛させていただきます。

今回も、参加者のみなさまが、それぞれの経験としての「表現」から発言してくださっていて、本当に興味深かったです。

みんなの意見をきくなかで「表現というと、絵とか写真とか表現者によって表されたものをイメージしがちだがそれを受け取る人がいるところも、表現が生まれるところになっているのではないか?」といった意見を述べてくださった方もいました。

特に印象に残ったのは、「表現する者は、何かに心を動かされて表現している。表現されたものを見る者も、心を動かされることがある。その、心が動かされたことが交差するときに、何かが生まれるのではないか」という参加者の言葉。
哲学カフェも、そんな場であるといいなと思っています。

今回の参加者は約20人。会場の都合上、事前申し込み制とさせていただいたのですが、すぐに定員いっぱいになってしまいました。ご参加いただけなかったみなさま、申し訳ありません。

エリトア次号発行は6月の予定。エリトア哲学カフェも、あわせて開催できたらいいなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。





freepaper エリトア http://www.eritoa.com/

文責:井尻貴子(カフェフィロ)

2012/04/07

哲学ファシリテーター入門 @東京

3月25日(日)カフェフィロセミナー「哲学ファシリテーター入門」@東京

参加者募集開始から24時間で定員に達した東京初のカフェフィロセミナー。哲学カフェ未経験の方、哲学カフェを運営されている方、ファシリテーターとして活躍されている方など、多くの方々にご参加いただきました。講師は東京のカフェフィロファンにもお馴染みの松川絵里さんです。

前半は哲学カフェに関する講義と質疑応答。
哲学カフェの歴史や目的・特徴から哲学カフェの開き方まで、具体例とともに松川さんにお話しいただきました。
また、質疑応答では、テーマ設定や進行について、哲学カフェ運営者の日頃の悩みについて、松川さんからアドバイスがありました。




後半は、海外で開発された教材「シンキングスキル~哲学者の道具箱」をもとにワークショップを実施。
およそ哲学とは縁が無いような「身近なあるもの」を巡って対話は始まりました。最初は戸惑っていた皆さんも、徐々に松川さんのペースに乗せられ、いつのまにか対話は深まっていきました。

「これは何?」に始まり「なぜそういえるの?」「その根拠は?」「その前提は妥当なの?」「反対のことも言えるよね?」など多くの問いかけによって、「真実を探求する」体験を参加者全員で共有することができました。

哲学対話の素材はどこにでもあること、哲学対話は笑いながらできること、この2点は筆者の新たな発見でした。もっとも、このセミナーを通して「哲学対話はもっと気楽に楽しんでいいんだ!」と認識を新たにしたのは筆者だけではないでしょう。



セミナー後は2次会会場へ移動。松川さんから関西での哲学カフェの様子をうかがったり、哲学&哲学カフェ談義に花が咲いたり、あっという間に時が過ぎていきました。

ご参加いただいた皆さま、有り難うございました。
今回ご参加いただけなかった方々のためにも、第2回のセミナー開催をぜひ実現したいと思います。


廣井 泉

2012/04/06

哲学カフェ「ユートピア・理想郷・理想社会とはどのような場所だろうか?」

こんにちは、まつかわです。
前回の記事で、「東京の哲学カフェは語り方がちがう!」と書きましたが、前言修正。
同じ関西圏でも場所によって全然ちがいました。


3月30日、初めて千里コラボの哲学カフェへ行ってきました。


哲学カフェの様子


テーマは「ユートピア・理想郷・理想社会とはどのような場所だろうか?」。
前回のアンケートから採用されたテーマだそうです。


千里コラボの担当者の方は、ユートピアが論じられなくなったのは人がユートピアを構想できなくなったのか、人はユートピアに関心がなくなったのか、それともその双方なのか、その辺りの論議が弾むものと思っていたそうです。
もちろんそういった論点もでてはきました。
が、実際にその論点に集約することはなく、10近くの論点やイメージが交錯し、なかなか論点を絞りきれない状態でした。


「ユートピア」を共産主義の文脈で理解し、「キケンであるとみなすのが普通」という 人、
「ユートピアとは郷愁に近いもので、未来ではなく過去にある」という人、
「ユートピアとは、他者と自己の境界がないような状態」という人、
「ユートピアは個々人のうちにある」と主張する人もいれば、
「ユートピアは社会的なものであり、個々人のうちというのはありえない」という人も。


途中、「もっとこういう風に進行してほしい」「いやいや、もっとこの点を掘り下げて考えるべきだろう」と議論の進行に関しても様々な意見がでてきました。
こういう意見、でてこない場所では全くでてこないので、新鮮でした。


あの場ではうまく表現できませんでしたが、あとでじっくりふりかえるにつれ、あの日の議論はかなりユートピアの本質に迫っていた気がしています

みんなが「こんな社会になるといいな」という「ユートピア」を共有できれば、足並みそろえてそこに向かって行ける「理想社会」が実現できそうですが、戦争の例をみればわかるように皆が同じ理想を掲げることはキケンなこと。
そう考えると、もしかしたらあの日の議論のように、話がなかなか噛み合ない、はがゆいけれどもそれぞれが自分の意見を堂々と言えるそういう社会のほうが実は「理想的な社会」なのかもしれません。


また、ある年代の方にとってはユートピアは共産主義という特有の時代的文脈で理解さるので、むしろ、60代以上の方と私のような30代以下の若者のほうが、ユートピアという概念を共有しやすそうなのも意外で面白い発見でした。


進行する松川(中)&千里コラボの加福さん(右)