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2010/11/23

哲学カフェ「ゾンビ:元人間について」


こんばんは。神戸の哲学カフェで進行をしたくわばらです。11月21日、コーヒーショップJUNの報告です。

テーマは「ゾンビ:元人間について」。わけのわからないテーマですが、20名ほどの参加がありました。団体で来られた高校生もいらっしゃいました。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。

参加者の中には、ゾンビをご存じない方や、ゾンビ映画をご覧になられたことがない方もおられました。実のところ、私もゾンビに詳しいわけではありませんが、ゾンビとは何かというあたりから話をはじめてみました。

ゾンビには不思議な特徴があります。いくつかあげてみます。

  1. ゾンビ=元人間:一度死んでから生き返っていいるのがゾンビです。生きているといえば生きているし、死んでいるといえば死んでいる(=living dead)。死んでいるからもう死ねないはずなのに、頭を撃たれると死んでしまいます。
  2. ゾンビ=脳を破壊されると死ぬ:ゾンビには意識も自己意識も心も感情もない(視覚などの知覚はある)。しかし脳を撃たれると死んでしまう程度には、脳に役割が与えられています。
  3. ゾンビ=噛まれると感染する:ゾンビに噛まれたり食べられたりするとゾンビになります。しかし跡形もなく食べ尽くされることはなく、ゾンビになれる程度にかじられます。
  4. ゾンビ=食欲がある:食欲はあっても殺人衝動がありません。純粋に人を食べたがるのがゾンビです。etc.


ゾンビは想像の産物ですから、なぜゾンビにそのような特徴があるのかを事実として問うことにあまり意味はありません。

しかしなぜ私たちが「恐怖」をそのような形象として想像し続けるのかということには、考えてみる価値があるのではないでしょうか。それが今回テーマにした理由でした。それゆえ、私たちはゾンビの何を怖れるのか(あるいは怖れないのか)、といった問いから考えてみることにしました。

手がかりにしたのは、ゾンビの恐怖と、ライオンの恐怖の比較です。ゾンビに襲われるのとライオンに襲われるのとは何が違うのか/違わないのか。ゾンビ派、ライオン派、両派から恐怖ポイントをあげてもらいながら考えてみました。浮かび上がってきたゾンビの恐怖ポイントをいくつか上げてみます。

  • 今までの自分とはまったく違った自分として生き返ってしまうことへの恐怖。「くわばら」から「ゾンビくわばら」になること、私が、私のまま、私以外のものになることへの恐怖。それは単に死ぬこと以上の恐怖があるようです。そういえば、「あんな化け物になるぐらいなら殺してくれ!」といった台詞は、ゾンビ映画の鉄板台詞ですよね。さらにそれが、かじられるなかで現在進行形で変容していくことへの恐怖。しかし私が私でなくなっていくことをリアルに現在進行形で感じることは果たして可能なのでしょうか?

  • 「ゾンビ的食物連鎖」への恐怖。自然界から外れた食物連鎖に入っていくことへの恐怖です。ゾンビの食人行動を「食物連鎖」という視点で考えてみることは、いままで想像したこともなかったです!カフェの中ではうまく拾いきれませんでしたが、考えてみる価値がありそうだと個人的には思いました。

  • 「ゾンビ」か「ゾンヒ」か。今回のカフェの中で「ゾンヒ」という新概念が生まれました。善人が善人のまま「ゾンビ」になった場合を「ゾンヒ」と参加者が命名しました。つまり人を食べないゾンヒだったら怖くないのではないかという問いです。しかし、参加者からあがった疑問は、誰の「善」が「善」として受け継がれるのか、というということです。元善人だけがゾンヒになるのか、特定のゾンヒの「善」が伝播するのか。(例:ゾンヒクワバラにかじられると、噛まれたあいてもゾンヒクワバラになるのか。そして特定のゾンヒが増殖するのだとすればそれは恐ろしいことではないか、というのが他の参加者からの問いかけでした。ゾンヒの繁殖性をゾンヒという「種」で捉えるか、それとも特定のゾンヒの繁殖として捉えるか。これはゾンビでも同じことになると思います。面白いですね。映画『バイオハザード』も、種系ゾンビと個系ゾンヒの戦いとして考えることもできそうです。この恐怖ポイントから考えられることはまだまだ他にもありそうです。

  • (元)人が人を食べることの恐怖。食人行為に対して生理的な嫌悪感や恐怖を覚えるのは確かですね。きっと人類学的な理由があるのでしょうが、「人を食べる」という能動性に対する恐怖と、「食料対象になりうること」という受動性に対する恐怖の両方があるような気がします。

  • ゾンビ以前の人間自体がもつ恐怖。ゾンビが怖いのは元々人間が怖いからでは、ということです。たぶん、そうだと思います。というより、その恐怖を目に見える形にするために想像されたのがゾンビではないかと私は思います。

  • あるいは暴力の連鎖への恐怖。秩序が有るようにみえて秩序がなかったり、理屈があるようにみえてなかったり、あるいはそれらが一掃されてしまった世界への恐怖。これは、ゾンビに限らず現代の人間におきかえられるという意見がありまいた。そういえば、人間体人間に暴力がシフトしていくのもゾンビ映画の方程式の1つですね。さらに、確かロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』か、その後の作品だったか忘れましたが、ラストシーンで、人間がゾンビを狩り、飼育し、死なない特性をいかして痛めつけることに興じる人間の姿で終わっていたと思います。(覚えているかた、教えてください)。

  • 恐怖と人称。死は死んでしまえばそれで終わりだし、ゾンビもゾンビになってしまえばそれで終わり。その点では両者に恐怖の違いはないのではないか。だとすれば、当事者視点ではなく第3者視点をとらなければ、変化の恐怖を覚えることはありえないのでは、という意見がありました。なるほど。ただ、問題は、第3者が変化を本当にみてとることが可能かどうかかもしれませんね。心がなくなるとか、私がいなくなるとか、そういう変化について。

意外にもいろいろ話の尽きないテーマとなりました。他にも面白いポイントがありましたが、長くなりましたのでこの辺で終わります。

今回NHKがテレビ取材に来ました。哲学カフェの取材というわけではないのですが、来年放映されるかもしれません。正式な番組名等わかりましたら、カフェフィロのHPでご紹介したいと思います。

それではみなさま、ごきげんよろしく。

2010/11/20

テツドク!〜フーコー『性の歴史1 知への意志』


こんばんは。テツドク!担当のくわばらです。

前回の前置きから2週間以上過ぎました。すみません。

11月4日のテツドク「ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』の報告です。

参加者は定員15名ちょうどでした。当日も申し上げたのですが、フーコーという思想家に、定員に達するほどの参加があるとは思ってもみませんでした。おどろきです。

紹介者は松川絵里さん。中之島哲学コレージュでマイクをまわしたりとか、裏方にまわっていたりするわけですが、今回は表舞台にご登場いただきました。

冒頭、「フーコーにビオグラフィーという仕方の紹介は似つかわしくないないのですが・・・」といった言葉ではじまります。

年表をつけてほしいと頼んだのは、他ならぬ企画者の私なのですが、ああ、なるほどなあと思いました。つまり年表というのは、いかにも人間くさい。時系列順の年譜をつらぬいている、それらをまとめあげるものとして形成される主体や人間のありよう、あるいはその力を注意深く分析した人がフーコーその人でした。



私たちは、歴史を、「歴史上の登場人物の歴史」として理解する仕方にたいへん親しみを覚えています。それは人物=人間の成長と達成の物語の中で歴史上の出来事を理解していくことです。たとえば私は大河ドラマをよくみるのですが、江戸末期の動乱の時代を坂本龍馬を通して知る。年表上のさまざまな出来事を坂本龍馬の登場と形成を軸に配していく。そうすることで、歴史や、年表上に配置された出来事を「人間ドラマ」という時代物として楽しむことができる。

ビオグラフィー上の出来事を坂本龍馬へと糾合していく力=権力の諸関係への注視。ではフーコーを、フーコーらしく知る仕方とは何なのか。冒頭の言葉は、そのことに注意をうながす〈ちょっと待ったコール〉だったのかなと思います。

・・・と、まだ紹介者の第一声を紹介しただけなのに、けっこう書いてしまいました。

さて、今回取り上げられたのは『性の歴史1 知への意志』ですが、タイトルだけみるならば、古今東西の性の歴史や性技を調べあげた本のようにみえるのですが、どうやらそういう本ではないようです。フーコーの言葉をひろってみます。

「性現象に関するこの一連の研究において、私の目的は、性的行動様式の歴史を再構成することではなかった。私は、相次いで姿を現す性的行動の諸形態やそのさまざまなモデルについて研究しようとしたのでもなければ、・・・性現象に関する宗教的、道徳的、医学的、生物学的な諸観念を分析することでもなかった」)(「『性の歴史』への序文」、フーコーコレクション、ちくま文庫、280-281頁)


ではいったい何について書いている本なのかといったあたりが、話の中心となりました。

フーコーの同性愛に対する態度や扱いも気になる方が多いようですが、紹介者も参加者も慎重に言葉を選んで話していたような気がします。フーコーの関心は、おそらく、異性愛や同性愛をどう考えるか、ではなくて、異性愛や同性愛に対する態度や思想のありようが(広義の)真理の「試金石」になってしまうこと、そのこと自体にあると考えているからです。(今まで誰と何人と付き合ったとか、関係持ったとか、性の遍歴だとかが、ゴシップ記事やスキャンダルとして価値をもつのもまた、たぶんそういうことなんでしょうかね?)

答えがむずかしいのではなく、答え方がむずかしい、そんな紹介者泣かせのフーコーですが、この機会にぜひ本を手にとってもらえたらと思います。もちろん、他にも話された内容は多岐にわたるのですが、長すぎますのでこの辺で。

次回のテツドクは、源信『往生要集』。「地獄」と「極楽」の登場です。ごきげんよろしく。

2010/11/16

グリグラ哲学カフェ「認める」

こんにちは。
まつかわです。
今日は、育児サークル〈グリーングラス〉の哲学カフェでした。

会場はこちら、神戸市北区子育て支援センター。


神戸電鉄、北鈴蘭台駅から徒歩10分くらい・・・かな?
神戸の「山のほう」です。
着いたときはあったかかったけれど、途中から寒くなってきて暖房をつけました。

本日の参加者は8名。
テーマは、前回ボツになった「認める」。

「子どものダメなところを認めることはできるか?」
「『あきらめる』も『認める』の一種なの?」 
「相手に『こうなってほしい』と要求することは、認めていないということ」 
「子どもを認めることと、100点を要求することはちがう。100点を要求したからって、子どもを認めてないわけじゃない」
「できる子はできるのが当たり前と思ってあまり褒めないけれど、認めてないわけじゃない。下の子はたまにできると大げさに褒めてしまうけど・・・褒めたからといって認めてるとは限らない」
「もし子どもが自分の思い通りに育ったら、認められる? でも、それって本当に子どもを認めてることになるのかな?」
「『自分で自分を認められない』ってどういうこと?」

相手を認めること、あるいは自分を認めることが問題になるとき、行為の結果、潜在能力、存在そのものなど、様々なレベルの「認める」がフクザツに入り組んでいることがわかりました。

また、前半は「認めることができるかどうか」の決定要因として対象や主体の状態が挙げられましたが、話すうちに「相手が「相手を認められないのは、相手が自分を認めてくれないからかもしれない」と思いなおす方も。そこから、「認める」というのは「認める者」と「認められる者」との一方的な関係ではなく、双方向的な関係のなかで成り立つことなんじゃないかという考えもでてきました。

「私から相手を認めることができたら、相手も私のことを認めてくれるかもしれない」

哲学カフェで得た考えを子育てに試してみようとおしゃってた参加者のみなさん。
お子さんとの、あるいは旦那さんとの「認めてよ合戦」の顛末、楽しみにしてますよ。

次回のグリグラ哲学カフェは、12月21日(火)10:15~12:00の予定です。
参加費100円でどなたでも参加できます。どうぞ気軽にお越し下さい。

2010/11/14

シネマ哲学カフェ/『ソフィアの夜明け』

みなさま

寒くなってきましたね。中川です。

ブルガリアの映画
『ソフィアの夜明け』
で哲学カフェを行いました。

参加されたのは6名。
映画はなかなか盛況の様子。

「ソフィア」ってブルガリアの首都のことなんですねー。
知らなかったです。

さて、カフェの様子ですが、
都市化が進み、ネオナチの暴動が起こる荒廃した街で暮らす
兄弟の話。主人公(たち)の漠然とした「いらいら」みたい
なものがずっと続く「希望の無さ」がこの映画の背景に流れ
ているという話が、まずは出ました。

暗いトーンで淡々と映画が進んで行くので、すこし見ていて
しんどかったという人もいました。

薬物依存の治療を続ける主人公イツォの告白の中の台詞にそ
ういう様子が見て取れると思います。(正確な引用ではない
ですが。)

・すべての人を愛したいし、抱きしめたいんだ。
・「善」なんてどこかにあるのか、もし「善」が足の裏にあ
 るのなら、針で取り出して頭にいれてくれ。
・魂を冷蔵庫に置き忘れてきてしまったみたいだ。

すべての人を完全に愛したい、でもそれができない。
完璧に善いことをしたい、でもそれができない。
だから、すべてのことが空虚に思えてしまう。

自分が輪郭はどんなものか、自分の善さはどのくらいかを見失
った人々の荒廃が描かれていたのではないだろうか。

ひとつの代弁は、イツォが惹かれるトルコ人の女性が行ってい
たのかもしれない。「この世界に何か間違ったことが起こって
る。そう思うでしょ?」いわば、世界の側の何かが悪くて、我
々はそれに巻き込まれているだけだというような。
でも、イツォはそれにイエスともノーとも答えない。

イツォは作品の終わりにすこしだけポジティブな方向に向かう。
それはどのシーンから変わったんだろう、ということが今回の
焦点になった。
「やっぱりあのおじいさんじゃないかな」

絶望の後の朝方、おじいさんに「そこの若いの、荷物をもって
くれ」と頼まれるイツォ。段ボールを引きずるおじいさんは、
盗られるかもしれないのに、イツォに段ボールではなくって、
自分の荷物を渡す。

そのまま、おじいさんのアパートに行ったイツォは「ここは
昔じぶんがいたところだ」と言って、うたた寝をしてしまう。
目が覚めるとおじいさんが子供になっていて・・・

自分が満ち足りていないという絶望をいやすのは、カリスマの
ある予言者のような人ではなくって、そういう「ふつう」の信
頼なんじゃないか、ということが話し合われた。
自分ができないような誇大な期待ではなくって、「荷物をはこ
ぶ」みたいな。

もし、依存や空虚さの夜明けがどこかにあったとしたのなら、
自分の輪郭を失っていたことに忘れてしまうような、ふつうの
信頼だったのかもしれない。

さて、皆さんの哲学カフェへの感想ですが。
「一人で見てただけの時に比べるとずいぶん見方が変わったの
で、哲学カフェに来てよかった」と口々に言っていただけました。

ありがたいですねー。懲りずに続けて行きます。

それでは、また。

2010/11/08

テツドク!〜報告の前に

こんにちは。テツドクという企画を担当しているくわばらです。

11月4日、南森町にある〈さする庵〉にて「テツドク!」を開催しました。取り上げたのはミシェル・フーコー、『性の歴史1 知への意志』。ご参加頂いたみなさま、ありがとうございました。

その報告をしたいのですが、はじめてブログに投稿しますので、ご存じない方のため、テツドクのことを少し紹介させていただきます。

「テツドク!」(哲読)は、「哲学者の言葉にふれてみよう」をコンセプトに、毎回一人の哲学者の一冊の本を取り上げて紹介する企画です。

哲学書を手に取ってみたけれど、開いたページに目を走らせて、そのままそっと書架に戻してしまう。そういう経験をもつひとは少なくないのではないでしょうか。もう少し哲学書との幸せな出会い方がないものか。そんな思い(つき)からこの企画はスタートしました。

哲学書との幸せな出会い。いろいろな考えがあると思うのですが、私は、その文言や人に惹きつけられてしまうこと、細くとも末永いお付き合いがはじまってしまうこと、そういう出会いが幸せな出会いではないかと思っています。

参加者と、哲学書の、幸福な出会い。テツドクでは、取り上げる哲学書の内容を厳密に伝えようとか、簡単に理解できるようにしようとか、そういった事柄はさしあたり脇においておくつもりです。大事にしたいのは、その言葉や人物に参加者の心がざわめき、興味がかきたてられていくことです。

テツドクには紹介者が一人いますが、必ずしも専門家ではありません。というのは、彼・彼女らが何を知っているか・いないかということはたいしたことではないからです。私が願うのは、紹介者の関心に参加者が巻き込まれていくことです。哲学カフェにも共通することかもしれませんが、他人の関心に巻き込まれていく経験の中ではじまってしまうような学びや楽しみがあると信じています。

その意味では、哲学書とのお見合いのようなものかもしれません。引き合わせてしまえばあとはみなさまのご自由に。もし誤りや、偏りや、不正確な事柄があったとしても、興味がわき、この先のお付き合いが長くなるなら、それらを訂正してくれるに有益な本や、先生や、さまざまなツールに自ずと導かれていくことになるのではないでしょうか。

哲学のみならず、思想家や宗教家もまた取り上げています。過去に紹介したリストを以下あげておきたいと思います。

-第1回:九鬼周造『偶然性の問題』
-第2回:市川浩『〈身〉の構造』
-第3回:西田幾多郎『私と汝』
-第4回:鷲田清一『聴くことの力』
-第5回:南方熊楠『南方熊楠随筆集』
-第6回:慈円『愚管抄』
-第7回:岡本太郎『沖縄文化論』
-第8回:中村雄二郎『共通感覚論』
-第9回:ルネ・デカルト『方法序説』
-第10回:ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』

長くなりました。肝心の「11月テツドク!報告」は改めておこないたいと思います。

それではみなさま、ごきげんよろしく。

2010/11/07

老いカフェ

まつかわです。
11月3日(水)、文化の日、みなさんはどんなふうに過ごしましたか?
カフェフィロの西川勝さんと中岡成文さんとわたしは、
大阪ホスピス・在宅ケア研究会が主催する秋のフォーラムへ。

西川さん、中岡さんは大阪大学の先生として「老い甲斐」というテーマで講演。
私はカフェフィロの進行役として「老いカフェ」と進行役を務めてまいりました。
テーマは、「年を重ねることの歓び」。

テーマから、参加者の年齢層が偏るかな?と心配しましたが、
幅広い年齢層から50名以上の方にお越しいただきました。
なかには親子で参加される方も!

「定年したら毎日が日曜日。好きなことをできるのが楽しみ」
「定年退職したら、周囲との関わりがなくなるのではと不安」
「若いころはわからなかった繊細な味がわかるようになった」
「認知症になったらどうしよう」などなど。

老いを現在の問題として捉えている方、未来の不安や希望として語る方。
老いを身体的な変化として捉える方、周囲との関係の変化として捉える方。
どなたも老いを自分自身の問題として考え、率直な声を聞かせてくださいました。

講師のお二人のお話に対して参加者から感想が寄せられるだけでなく、
参加者の体験談や老いに対する思いや考えをきいて、
西川さん、中岡さんからさらに新たな思考が紡ぎ出される場面も・・・。

講演+対話というこの形式。
哲学カフェとはまたちがう進行のコツが必要になりますが、
今後も積極的に引き受けていきたいです。