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2011/05/31

『ちいさな哲学者たち』

こんにちは、まつかわです。

今日、ミーティングで高橋さんに教えてもらったのですが、
この夏、『ちいさな哲学者たち』という映画が上映されるそうですね。

”3歳児が哲学を学ぶ!?”フランスの幼稚園で始まった世界で初めての子どもたちとの哲学の時間。無限の可能性が溢れ出す2年間の軌跡(シネ・リーブル『ちいさな哲学者たち』作品紹介より)


関西では、シネ・リーブル梅田かシネ・リーブル神戸か・・・。
(その他の芸場情報はこちら
これは、絶対観なければ!
そして、できればカフェフィロでシネマ哲学カフェかなんかしたい!
というわけで、実現できるようここで代表にアピールしておきます。うふふ。

中之島哲学コレージュ/哲学セミナー「自閉症スペクトラム障害とのつきあい方?」

こすがです。
中之島哲学コレージュ/哲学セミナー「自閉症スペクトラム障害とのつきあい方?」の報告をさせていいただきます。進行役は私が務めさせていただきました。

最初はゲストの竹内さんから自閉症スペクトラム障害に関する基本的知識の説明、ならびに自閉症との共生社会を作り上げるための「作法」とは何か、という問題提起のプレゼンをしていただきました。プレゼン後には用語等についての質問を受けつけ、「スペクトラム」という概念について議論となりました。

その後は「共生」についての話に移ってゆきました。共生に対して比較的肯定的な発言が多かったのですが、途中アスペルガー症候群の当事者の方から「共生するよりも、健常者は健常者のみ、自閉症患者は自閉症患者のみ、というふうに分かれて生活するという道もあるのではないか」という発言があり、共生を単に肯定的にのみ捉えるのではない視点が提供されました。

その後ある参加者が自閉症という「病名」が存在すること自体の否定的側面を指摘されました。この発言に対しては全体的に反対意見が多かったのですが、自閉症とは一体何であるのか、ということを参加者が再考する良いきっかけとなったのではないかと思います。
全体的に非常に活発な意見が戦わされました。前述の当事者の方以外にも、身内に自閉症(あるいはその疑いのある人)がいる、という方も数名おられ、その方々の発言は特に熱がこもっていました。
悪天候にもかかわらず、44名もの方々が参加されたということから、自閉症が社会の関心を集めているということを再確認させられました。

2011/05/29

第1回 てつがくカフェ@ふくしま

こんにちは、まつかわです。

カフェフィロ正会員の寺田さんより、「第1回てつがくカフェ@ふくしま」の報告が届きました。


*****

5月21日に開かれた「第1回てつがくカフェ@ふくしま」に参加してきました。簡単に報告します。

福島駅で降りると、いきなり警備員に足止めされました。見ると、防災服を着た菅直人一行が通り過ぎて行きました。会場は、福島駅からそう遠くないショッピング・ストリートに面したビル「パセナカミッセ」に入ってる地域交流スペースです。少し早くついたので、周辺の様子を見ながら歩いていると、仙台の西村さんにばったり。西村さんとはほんとうに久しぶりです。

地域交流スペースの隅にはキッチンがあり、そこでコーヒーやお茶を準備していました。主催者のあいさつで始まります。主催者の方とはカント研究を通じてもう長い付き合いです。「なぜ、〈てつがくカフェ@ふくしま〉なのか?」と題した設立趣意書のプリントが用意されていました。哲学カフェの一般的な紹介の他に福島人の気質・語り口に言及されているのが印象的。

参加者は12,3人。学生から定年退職後の人まで、さまざまです。仕事を抜けてきたという格好のコックさんもいます。「未曽有の災害に見舞われる〈ふくしま〉/この〈出来事〉のさなか、僕らは何を問われているのか?/そもそも、ここで哲学する意味なんてあるのだろうか?/そもそも哲学って何だろう?」案内にある通りの展開になりました。

何を求めてこのカフェに来たかを語っているうちに、おのずと一人一人が震災をどのように経験したかを語り合っていました。震災後もやもやした思いを抱えて暮らしている人びとが多いことがわかります。国家の基本体制=憲法を語る人が一人あった他は、もっぱら身近な経験が語られました。当たり前のことが当たり前でなくなったこと、炊き出しをして自分の目線が変わったこと、仕事に行けなくなってぐちゃぐちゃした思いのまま暮らしていること、ローカル・ラジオの効用、自身をどのように経験したか分かち合いたいという欲求、なぜあの人たちが死にわたしが生き残ったのか…
そこから、今ここで哲学することの意味。行動せず哲学することへの戸惑い、生活の必需を満たすだけでは救われない思い、哲学には哲学の「支援のスピード」がある、「何かしなければ」と駆り立てられていることも傷つきの一つ、〈出来事〉が縮減されることへの疑問、原発の話が出ないのはなぜ…主催者の方がマインド・マッピング風の板書をしてくれました。

後半に入って「ぶつかり合いがなければ対話ではないのでは?」と、問いを決めることが参加者から提案されましたが、いくつかの問いがあげられましたが、問いを絞るには至りませんでした。途中、進行役が困惑しているように見え、西村さんが檄を飛ばす場面も。震災の経験を共有し、じっくり考えてみたいという思いが充
溢したカフェだったと思います。次につながる問いがいくつも見えました。朝日新聞の文化部の記者が取材に来ていました。

夕方、市内のクラシックなビアホールで懇親会。福島、仙台の人々と楽しく談笑して帰ってきました。

以上、いささか雑駁ではありますがご報告まで。

寺田俊郎

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寺田さん、ありがとうございます。

てつがくカフェ@ふくしまのブログにも、報告や参加者の感想、写真(会場の様子とマインドマップ風の板書)が掲載されています。


カフェフィロでは、今後もてつがくカフェ@ふくしまの活動を、できるかぎり応援してゆきたいと考えています。
今回は、広報に協力するほか、とにかくまずは現地を訪れることが大事だろうと、寺田さんに現場の様子を報告してくださるようお願いしました。
今後もみなさんのお力をお借りすることもあるかもしれません。
そのときは、ご協力よろしくお願いします。

2011/05/27

哲学カフェの映像紹介

こんにちは、まつかわです。
こっそり、実験的に、毎日更新を試みています。(いつまで続くかは不明)

8月に、愛知県江南市で哲学カフェを開催します。
(映像鑑賞+哲学カフェという変形バージョンです。)

その主催者である江南青年会議所の方が、ウェブサイトをつくってくださいました。

哲学カフェ konan 2011

「哲学カフェって何?①」をクリックしていただくと、駅での哲学カフェの様子がご覧いただけます。
哲学カフェってどんなことをするの?という方は、ぜひ一度ご覧ください。
言葉で説明されるより、ずっとわかりやすいと思います。

2011/05/26

新企画、哲学書を読もう

こんにちは、まつかわです。
昨日は、「きくちの楽屋」のきくちさんと、新企画について打ち合わせをしました。

中之島哲学コレージュについて
「もっと哲学っぽいこともしたい」
「哲学者の思想をわかりやすく紹介してほしい」
というリクエストが寄せてくださったみなさん。
お待たせしました。

中之島で、ニーチェを読みます

きくち「今回の企画は個人旅行じゃなくてツアーみたいなもんだから、ひとりで読むのとはちがう楽しみ方ができたらええな。はじめて読むひとも、何度も挫折したひとも、大学生・大学院生も、いっしょに『ツァラトゥストラはこう言った』の世界を楽しめればええなぁ


第1回目の6月15日は、序論〜第一部を読む予定です。









2011/05/25

メルマガ登録者

まつかわです。
最近また、メルマガの新規登録者が多いな〜と思って、確認してみました。
カフェフィロメールマガジンの登録者、現在596人です。
あと4人でろっぴゃくにん!!

みなさん、やはりイベント情報を欲してらっしゃるのでしょうか?
一度、アンケートでもとってみたいです。

2011/05/24

哲学カフェ「不謹慎とは?」

2011年5月21日土曜日15時から17時まで、豊中市エトレ豊中6F、とよなか国際交流センター内CCスペースにて、哲学カフェ「不謹慎とは?」が行われました。


進行役や参加者の感想を順次、集めていきます。




このテーマを選んだ進行役は大阪大学文学部4回生の金和永(きむふぁよん)さん。

「不謹慎とは何か?」というテーマで行った今回の哲学カフェで私は2度目の進行役を経験した。前回は初ということもあり、自分の緊張が先立ってしまったが、今回はある程度落ち着いて進行が出来た分、哲学カフェという対話の形式の独特の緊張感を、進行役の場から改めて感じるようなカフェになった。
この緊張感がなぜ生まれるのかはあまりはっきりとしない。ただ、何かを吟味していくということに重心が置かれていることが多い哲学カフェでは(今回はカフェの進行に従って徐々にそちらに傾いたように感じる)様々な体験の語りはひとつの例として取り扱われることになるということが関係しているのかもしれない。ある体験を、それを例として取り扱おうとしながら聴くということと、明確にはそのような傾きをもたずに聴くこととの差は大きいように思う。(金さんより)


今回から飲み物代がカンパ制になりました。









この春より高校の教員になったくまさんも参加。今日は一言も発さず。(よかったら一言感想を送ってください。)












友人の感想。「〜の場合には、華やぎとか笑いを慎むべき」という話題にはならなかったのが残念。もしかしたら、『不謹慎』ということばが日常のものとして使われなくなっているのかもしれない。」(口頭で)

2011/05/15

グリグラ哲学カフェ「震災から学んだこと」

こんにちは、まつかわです。
今週は、震災をテーマにしたカフェに二つ参加してきました。

ひとつは、昨日、高橋さんから報告のあった中之島哲学コレージュの哲学カフェ。

もうひとつは、育児サークル〈グリーングラス〉(通称「グリグラ」)での哲学カフェです。
テーマは「震災で学んだこと」。
中之島哲学コレージュとはことなり、最初はTVなどで見聞きした情報がわーっとでてきました。
そのなかで、みなさんに考えたい問いはなにか尋ねると、こんな問いがでてきました。

「人が生きて行くのに、最低限必要なものは何か?」
「豊かさとは何か?」

この二つの問いをめぐって、途中震災とは別の例も参照にしながら話し合いました。

過去と現在、流通がなければ食べ物がない都会と近所で食べ物を入手できる田舎などを比較すると、「生きて行くのに最低限必要なもの」は時代や地域によってずいぶん異なることがわかりました。学校の連絡網がケータイのメールに送られてくるなど、個人的に「要らない」と思っても、社会的立場上、手放せないものも・・・。

「生きてゆくのに必要なのは、何が起こっても柔軟に対応できるようなタフさではないか。それは、自分の思い通りにならないことを『許す』こととつながっている気がする」

という言葉が印象的でした。


中之島哲学コレージュでは、今回は今後も継続して考えてゆく問題を発掘するという趣旨だったので、進行の高橋さんはひとつひとつの問題についてあまり深くつっこんでませんでしたが、グリグラのほうは、震災によってつきつけられたこの問いを、「ちゃんと哲学する
」という意識で、どんどんツッコミをいれさせてもらいました。
そのせいかどうか、震災というテーマから脱線した時間も多かったけれど、そのぶん、震災が私たちに投げかけた根本的な問いについて考えることができたとおもいます。

中之島哲学コレージュでは「日本」や「大阪」はどうすべきかという単位で発言する人が多かったのに対し、グリグラではひたすら個=「私」の視点にとどまったことも、興味深いちがいでした。

今月、あとふたつ震災に関する哲学カフェがあります。
果たして、福島や東京ではどんな対話が繰り広げられるのか、とても気になります。

2011/05/14

5/11 「震災について、今私たちが考えたいこと」

こんにちは。カフェフィロのたかはしです。


 先日511日に中之島哲学コレージュにて、哲学カフェ「震災について、今私たちが考えたいこと」が開催されました。

進行役を務めた私自身も、震災が起こった当初はとにかく驚き、不安で、また亡くなられた方のことや家族や仕事、故郷を奪われた方のことを思うと自分のことのように辛く落ちこんでいました。そこから、

自分は直接は被災していないのだからもっとできることがある、と気づくまでに大分時間がかかり、それに気づいてからも何をしたらいいだろう、と考え行動しつつ、一ヶ月くらいたって「今回の経験について、哲学カフェをしよう」と思い立ちました。そこからも、「震災について考える」という距離と余裕があるからこそできる試みを、いつから始めたらいいのか悩みつつ、ちょうど二ヶ月たったこの日に開催を決めました。やや長くなりますが、話し合われた内容や進行役として思ったこと、について報告します。



 今回の災害をめぐる一連の事件については、いろいろな発言や報道がすでになされていて、そのなかのどれを聞くべきか、聞かないでいいかの選択自体が、すでに一つの行動であったりするわけですが、と前置きしつつ、報道されていることの繰り返し、「識者」の意見の受け売りではなく、皆さん一人一人の具体的な経験や実感を皆さんにしか語れない言葉で聞きたいと思っている、ということと、政府や電力会社の対応の批判、あの人/組織がこうすればよかったのに、という意見よりもできれば、わたし/たちがもっとこうしたい、こうすべきだったな、という意見が聞きたい、ということを最初にお伝えしたつもりです。

 そのせいか、発言(と発言される方ご自身や社会との距離感)に関しては、わりといつもの哲学カフェに近い出方だったなあ、と感じております。どんなテーマでも、個人的な経験や実際の自分の行為について話される方、それについてどう思うかをちょっと距離をとって話される方、日本とか、大阪は、というような大きな集団性のレベルに関心がある方、前向きな方、不安や心配、あるいは自分の感情にセンシティブな方、いろいろな方がおられますが、今回のカフェでも、このようにいろいろな方が来られた、という印象です。その意味では、よくもわるくも、大阪(在住の人)は「いつもの感覚」にやや近いレベルで今回のことを感じられるようになった、といってもよいのかもしれません。

 次のカフェに向けてのブレインストーミングのような感じで考えていたので、進行役から議論の焦点を提示することはしませんでしたが、いくつかのポイントで、異なる複数の意見が出てきていたと思います。そのポイントを紹介します。


・今回の震災(と被災された方)に対して、どういう態度、心持ちで応じるか、について

 自分が揺さぶられ、私は何をやっているんだろう、とかすごくしんどくなった、という方がいらっしゃり、でも、今の状況に感謝しなければならないと思い直した、この機会をありがたいものとして受け止めたい、というようなことをおっしゃったときに、別の参加者(壮年?の男性)が、「そんなたいしたことやないよ、これからもあると思っていかなあかんし、こんなことたいしたことない、すぐ乗り越えるっておもわなあかん」と言われた方がいました。後の方は、神戸の震災とその救援も経験され、日本にいる限り地震はあると思っているので、「今回の震災も特別なことではなく、少なくとも自分は災害で死ぬかもしれないというリスクは織り込み済みである、当然のりこえていけるし、行くべきである」というご意見だったかと記憶します。進行役の印象では、年配の男性方のほうが、たくましい、といいますか、「沈んでたらあかん、はよ元気になろ、大阪から元気を発信?!」というような方が多かったように思います。でも、私自身は落ち込みやすい(?)ほうなので、大阪でもしんどい思いしている人がいてもいいし、そのような気持ちの動きからもなにか見つけていけるものはある、と思っています。


・震災の「当事者」とは誰か?

 途中で進行役および私たちはたいした被害を被ってないのだから、被災者のことはわからない?被災者とはいえない、というような発言があったので、そこを皮切りにして、「今回の震災の当事者とは誰であるか」と聞いてみました。

 被災の程度によってそれは決まるだろう、という常識的な意見もありましたし、我々の生活に必要な物資を東北地方に頼っている以上、私たちの生活にも影響は出るだろう、その意味では我々も不便や影響を受ける、という意見、日本は災害当事国なので、日本人全体が当事者、という意見などいろいろでした。「当事者だからこうだろう、とか当事者でないからこうではないか、という決めつけでこまった思いをする人が出るのはよくないから、『当事者である、ではない』ということを安易に言うことには気をつけるべき」という意見を慎重に述べられた方がおり、なるほど、と思いました。


・大阪?にできること

 最後の方で、大阪という地域にできること、についてすこし話が盛り上がりました。

 これについては、大阪のみなさんは郷土愛が強いのか、首都機能をリスク分散して関西にも、という意見から、「では首都機能って何ですか?どの首都機能を移したらいいと思いますか?」ということを聞いてみると、「復興庁を関西につ

くる」「大阪証券取引所はすたれかけてるが、リスク管理のためにも東証はもっと分散したほうが」「メディア、マスコミの中心も関西にもあったほうが」というような意見が聞かれました。

 進行役の疑問として、「首都機能ってなぜ東京都、とか大阪府とかだけが持たないといけないんでしょうか、それぞれの地域がそれぞれのメディアや証券取引所を持ってはだめですか?」ということを挙げ、岡山在住のカフェフィロスタッフ松川さんからも「みなさん他の地域がどのような状況かご存知ですか?大阪はほかの地域に対してそれほどなにかができる、と真剣にお考えですか?」と大阪至上主義(笑)には警告が発せられました。


 他にも哲学カフェのテーマになりそうなキーワードとしては、「想定外、って何?」「芸術家(哲学など、生きるのには「無駄」とされる文化的活動を指す)は被災地に何ができるか」「震災と人災」「誠実な沈黙」などが出てきたように思いました。もちろん、「原発」も、ですね。原発については、専門家の意見も聞きつつ話し合いをするべき、という感想もいただきましたが、カフェの中では「私たちはどうして、専門家が答えを出してくれる、わかっているはず、という過剰な期待?をしてしまうのだろうか」というお声もありましたので、すこし開催の方法を考えてみたいと思います。今回の哲学カフェで「話し合われなかったこと」もあり、それもまた/もしかしたらそのことのほうが重要である、ということも忘れないでいようと思います。


 

 福島県の南相馬に実家があり、ご家族とともに被災された阪大の研究室の後輩のTさんがカフェに来てくださり、大変な状況、困難さにやや距離を置きながら、冷静に考えておられることを話してくださり、哲学カフェの要になる発言をしてくださいました。非常に感謝しております、この場を借りて、お礼申し上げます。他の参加者の方にも、貴重なご意見感謝しております。今後もカフェもぜひよろしくお願いします。

 長くなってすみません、次は5/21には福島で、5/28には東京で、震災についての哲学カフェが行われます。東京の進行は私なので、また報告ができますが、個人的には福島哲学カフェの「いま、〈ふくしま〉で哲学するとは?」にとても関心があります。参加したいなー。。。。。


2011/05/11

2011/05/01

原発事故に揺れ動く福島で哲学カフェを。

こんにちは、まつかわです。
仙台の西村さんより、「てつがくカフェ@ふくしま」開催のお知らせをいただきました。


  • 日時:2011年 5月21日(土曜日) 15:00~17:00
  • テーマ:いま、〈ふくしま〉で哲学するとは?
  • ファシリテータ:渡部純(てつがくカフェ@せんだい、@ふくしま)
  • 場所:パセナカミッセ・地域交流スペース(福島市置賜町8-8) 
  • 参加費:コーヒー代 200円
  • 世話人:小野原雅夫(福島大学) 渡部純(県立高校教諭)


参加ご希望の方は、事前に連絡くださいとのこと。
詳細は、てつがくカフェ@ふくしまをご覧ください。