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2011/12/29

忘れていいことを話すということはとりあえずいまそれについて覚えているということ〜哲学カフェ@さする庵

くわばらです。投稿が続きます。12/23、さする庵にて哲学カフェを開催しました。定員ぴったし20名の方にご参加いただきました。ありがとうございました。

哲学カフェの進行は久しぶりで、進行役って何するんだったっけ…という感じでしたが、みなさまのおかげで楽しい時間を過ごすことができました。

個人的には「結婚記念日は忘れていいことでは?」という意見が興味深かったです。正確には「記念日」という記憶のあり方といいましょうか。メモリアル・デイ、ですから、文字通り記憶にとどめ、忘れないための、結構巧みな集合的記憶・記録のあり方なんでしょうが、こういうのはいつ頃からスタートしたんでしょうね。哲学カフェのテーマになりそうです。

今回、とある新聞記者の方が取材のためにいらっしゃいました。記事になるかどうか、なったとして今回のカフェが取り上げられるか分かりませんが、掲載される場合にはブログでお知らせします。

後日、記者の方から今回のカフェについて幾つか電話で質問を受けました。震災のことが念頭にあったのですか、とか、今回の哲学カフェで一番印象に残っていることは、とか、そういった質問ですが、ビール飲んでましたので適当に答えてしまったような…まあ、いいか・・・。

哲学カフェ終了後に参加者の皆さんと忘年会をしました。こちらも多くの方にご参加頂き、いろいろご意見を伺うことができてよかったです。みなさん、いろんな理由で哲学カフェに参加されてるんですね。

旧年最後の、年忘れ哲学カフェでしたが、新年もどうぞ哲学カフェにご参加ください。ちなみに、新年、中之島で最初の哲学カフェも私が進行します。後日改めて告知します。

みなさま、よいお年を。

2011/12/28

なぜ身体が問題なの?〜テツドク:浜田寿美男『身体から表象へ』

1ヶ月遅れですが11月24日テツドクの報告です。定員を超す17名の方にご参加頂きました。ありがとうございました。

「なぜ身体が問題なんですか?」参加者が投げかけた問いです。『身体から表象へ』では身体から出発することの意義が繰り返し述べられます。紹介者の玉地さんが作ってくれた資料から言葉を拾ってみます。

人間の心理現象をその根本から考えようとするかぎり、身体というところからはじめないわけにはいきません。現に、発達過程のなかで最初に登場するのは、この身体で直接に生きる世界です。(2頁)

身体で直接に周辺の時空世界をなぞり、また身体でもって人どうしがたがいにやりとりをかわし、この身体の世界の網の目のうえに表象の世界が立ち上がっていく。そこではじめて私たちの生活史を支える舞台がととのうのです。(14頁)

紹介者の玉地さんは今回で計3回ご登場頂いてます。その度、理学療法士として経験してきた具体例を交えつつ説明してくださるのですが、毎回「あなたはどう考える?」という宿題と課題をもらっている気がします。今回は「人をコトバで動かす(動いてもらう)というのは、簡単にみえて簡単ではない」という話の辺りが、私が受け取った宿題かもしれません。それがどういう問題かを組み立てるのが難しいという意味でも。

冒頭の「なぜ身体?」という問いなのですが、玉地さんは哲学史や心理学史を踏まえて話されていたような気がします。私だったらどう答えられるかなと思ったのですが、例えば指を曲げるとか、歩くとか、屈伸するとか、何でもいいのですが、体って、私と関係なく勝手に動く。ある程度は私の意思らしきものの指令とつながっているような気もしますけど、大半はオートマチックに、勝手に動いてくれる。というより、勝手に動いてくれないと大変に困るわけです。だから、そういう体にとっての世界とか、体同士の世界というか、そっちにはそっちのロジックが別にあって全然不思議ではないし、むしろ私の方が体のおまけみたいなもんだよな・・・とか、つまりそっち側のロジックとか哲学的意味は考えてみると面白いと思うのですが、どうでしょうか。浜田さんの動機とはまったく異なるでしょうが。

今回もはるばる東京からの参加者がいらっしゃいました。ありがたいことです。もちろん近郊からいらっしゃった方にも感謝です。浜田さんの他の著作に関するご質問がございまいた。『自白の心理学』(岩波書店、2001)が興味深く(かつ他人事ではなく)読み進められると思うのですが、今回取り上げた本の内容により近くて読みやすいものは『「私」とは何か ことばと身体の出会い』(講談社選書メチエ、1999)かなと思います。図書館で手にとってみてはいかがでしょうか?

次回、1月は松川さんによる「テツドク、続」というか「フーコーリターンズ」となる『真理とディスクール』です。昨年『性の歴史』を取り上げてくださいましたが、今回はどんな話になるのでしょうか。初めての方も、読んだことがないかたも、この機会にぜひ。

2011/12/22

おひとりさま カフェ  報告

こんにちは、まつかわです。
藤本さんから、10月に開催した第1回おひとりさまカフェの報告が届きました。


 結婚しても、しなくても、 子どもがいても、いなくても
 男も 女も、 所詮、いつかは「おひとりさま」 

そういう唱い文句で「おひとりさま カフェ」をはじめることにしました。



今回はその1回目です。老いについた考えました。
「よい」老後、「よく老いる」とは、どのようなことなのでしょうか。


  日時:10月30日(日)午後13時30分〜16時30分
 場所:カフェPS 
  テーマ : 老いと向き合うために   「良寛」
  話題提供  伊藤忠清さん 患者のウェル・リビングを考える会
 進行    藤本啓子  カフェ・フィロ


話題提供者の伊藤忠清さんが当日のカフェについて報告くださいました。


第一回の「おひとりさまカフェ」が秋雨煙る10月最終日曜日の午後開かれた。
会場は「書評カフェ」や「メディカルカフェ」が開かれる王子公園、カフェP/S。この日のテーマは「老いと向き合うために ”良寛” 」。 あいにくの悪天にもかかわらず、会場は満席の盛況。施設に従事されている女性と男性、そうでない者たちだが、驚くのはその年令幅、 優に70年を超える。 

「おひとりさま」の代表としての良寛さんの万葉調の和歌を通して彼の生きざま、死にざまを管見ののち、経済至上主義に利用された科学技術とくに医療技術の異常なまでの進歩が、現代人にこころ豊かに生きることと、静かに平穏に死ぬことを困難なものにしているのではないかなどの、当然バラエティに富んだ、それぞれの意見や、体験談が飛び交い、会話は弾む。 

後半に入ったころからは、当初想像もしていなかった展開になり、「自立」という言葉が話題の中心になって来た。世の中では 普通、ちゃんとした職業について収入があり経済的に自立していればそれでよし、と思われているが本当にそれでいいのだろうか? 年金生活者は職業についていないが定収はある!
良寛さんは経済的に自立していなかったんじゃないのか?いや良寛さんにとっては托鉢が職業だったんだ。という笑い話にまで発展(?)した。

我々が日ごろ気軽に使っている「(暗黙の裡に経済的に)自立」という言葉。考えてみると結構奥が深い。経済的にというのは手段であって本質ではないのだろう。やがては間違いなく死ぬ人間だが、今を生きていることも間違いのない事実だ、ならばその今日ただいまこの時をどう生きるか。この辺を見据えて実行できる人を本当は自立した人というのだろう。家族も、地域社会も大切だけれど、「おひとりさま=自分自身」がふわふわしていて流されていては話にならない。「自」立というのは「おひとりさま」の不可欠条件だと思う。

「おひとりさまカフェ」は本当に楽しい。これからもずっと続けてほしい。
次回にはどんなテーマが取り上げられるのだろう。楽しみなことである。


以上です。

おひとりさまは、高齢者だけの問題ではなく、シングルの若者にとっても生きていく上で問題になることではないかと思っていますので、今後、そうした話題をテーマに「おひとりさま カフェ」ができればと思います。

藤本啓子

2011/12/21

エリトア哲学カフェ「アートを学ぶということは?」

こんにちは
カフェフィロの井尻です。

12月18日(日)に、東京・高円寺のカフェ アンリ・ファーブルにて哲学カフェを開催しました。
今回は、フリーペーパー「エリトア」第3号発行記念イベントとしての哲学カフェ。
なので、テーマは第3号の特集と連動した、「アートを学ぶということとは?」でした。



「アートを学ぶということ」と聞いて、何を考えますか?という問いかけに対し、
最初に挙がったのは、「図工の時間」。
それは、学校で、先生が教えてくれて。でも、こどもの学びって、本当はもっと、自然発生的なものなのでは?という意見から、「<学ぶ>と<教わる>」、「学習」、「<学ぶ>と<習う>」といったことについて話がすすみました。

<学ぶ>と<習う>は違うよね?
でも、その違いってなに?
<習う>ではなくて<倣う>だと、どうなんだろう?
習うこと/倣うことはできても、学ぶことはできないのでは?
いや、<習う>や<倣う>は、<学ぶ>の前段階であり、その一部なのでは?
「自主性」や「受け身」といった語がキーワードとなり、それぞれが、<学ぶ>という語に対して持っているイメージが、だんだんはっきりしてきたところで、
「アートを学ぶことはできないのでは?」という意見。そこから、

「アート」ってなに?
どんなときに『アートだ』と感じる?
アート=アートする(表現する)だと思っていたけれど、アート=美術史的な知識、技法と捉えることもできるよね?
<アートする>ことは学べないのでは?
<アートする>って表現する、つまり、キャンバス上に線をひいたり、色を塗ったりすることだけ?
展覧会に行って、「あっ」て思う、それも<アートしている>ことになるのでは?
予想を超えるものに出会うと、感動する。その、予想を超えた感動を与えてくれるものが「アート」かもしれない。
じゃあ、「感動する」ことは、教えられないから、学べないよね。
いや、教えられないけど、学べるんじゃない?

といった意見が出て

もういちど「学ぶとはどういうことか」「アート/アートするってどういうことか」を、参加者のみなさんに、体験談を交えつつ話していただきました。

そこで印象的だったのは、発言者の方々が「消化して」「腑に落ちる」「咀嚼する」といった身体感覚を伴う言葉を使われていたこと。

また、どちらも、そのような身体感覚を伴って、何かを発見し、納得する行為であるという点で、「アート/アートする」ということと、「学ぶ」ということは、その経験として近しいのではないかという意見も出ました。

また、「アート」も「学び」も、その行為のなかで私たちは、自分の価値観に気づいていく、はっきりさせていくのではないかといった発言もありました。

参加者14人、大きくテーブルを囲んで、じっくり話した2時間でした。



今回、会場の都合上、事前申し込み制とさせていただいたのですが、すぐに定員いっぱいになってしまいました。ご参加いただけなかったみなさま、申し訳ありません。

エリトア哲学カフェ、今後も継続して開催していく予定です。
どうぞよろしくお願いします。

free paper eritoa http://www.eritoa.com/

2011/12/20

中之島哲学コレージュ/哲学セミナー「超高齢社会——どっちつかずの身体たちが形づくる社会」

こすがです。12月14日に開催された中之島哲学コレージュ/哲学セミナー「超高齢社会——どっちつかずの身体たちが形づくる社会」の参加者の方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。

「老いを通して、"家族のあり方""個人の尊厳"を考える機会になりました。 ・家族には、絆(しがらみ、愛憎、くされ縁)には、負の要素がプラスにもなる事 ・"私にしか解ってあげられない"辛さ、"言いたくない事"等個人と家族のありかたを考えさせられた。老いを考える上で、「生きる事」「死ぬ事」を再度、考える機会になった。」

「とても興味深くききました。老い=医療と見る視線がまんえんしているなと思いました。医療化・専門化社会というか。圧倒的重みを持つ家族の話と専門家集団の論がうまく均衡を保つあり方を模索してみたいと思いました。終わってから何人かの人が「怒り」を示していたのも、そういう事なんだと思います。圧倒的な重みを持つからこそだと思います」

「認知症について、新しい視点が見えました。ありがとうございました。今後、介護の必要性がますます増大する中でこういった良い内容のセミナーが無料で受けれてすごく良かったです。」

「家族のあり方を再考しました。自分も専門職でありながら認知症の親を支える家族であるので、自分の立ち位置を自覚して家族として生きていこうと思いました」

「専門職と家族の関係、ちがい… どちらもを否定するのではなく、そのどちらもそれぞれの意義、役割があるのだということ。現在、障害者の介護職をしている者として、全く応用できるお話でした。」

当日は52名の方々にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。

こどもとする哲学対話

こんにちは、松川です。
12月23日の哲学カフェ+忘年会は、定員で締め切られてしまいましたが、
こちらはまだ大丈夫です。

カフェフィロセミナー「こどもとする哲学対話」

まだまだ情報の少ない「こどもの哲学対話」について、国内外の様子を知り、実践者の声をきき、自ら体感する貴重な機会になればとおもっております。
ぜひ、ふるってご参加ください。

チラシの写真から小学生ぐらいをイメージされるかもしれませんが、同じ方法が、高校などでも実践されているんですよ。

前半は、フランスやハワイなど「こどもとする哲学対話」が盛んな各国の教室を訪問し、日本の高校や小学校で実践してきたカフェフィロの高橋が、国内外の「こどもとする哲学対話」の様子、方法についてご紹介します。
海外の実践については本やネットで調べようとしても外国語・・・という状況。
高橋さんが長年にわたって自分の足で集めてきた知を、凝縮して教えてもらおうという、なんとも贅沢でわがままなレクチャー・・・と、お願いした松川は自負しております。

また、 勤務先の小学校でこどもたちとの哲学対話に取り組まれてきた、西宮市立香櫨園小学校の金澤先生をゲストにお招きして、こどもたちの変化、難しい点についてもお話いただきます。
やっぱり、ふだんからこどもや保護者や他の先生と触れてる現場の先生の声も、きいてみたいでしょう?

後半は、実際に教室で使われている「コミュニティボール」を体験していただきます。
コミュニティボールは、特別な進行の能力や経験がなくても使いやすいツールですが、今回は、見てるだけではわからないその意義や注意点についても解説していただく予定です。

お問い合わせ・お申し込みは、下記宛先までお願いします。

ご不明な点があれば、遠慮なくお尋ねください。


カフェフィロ事務局(担当:松川)
info★cafephilo.jp
(★を@に置き換えてご送信ください)

2011/12/19

12/23「忘れていいこと」予約受付終了

こんにちは。カフェフィロスタッフのくわばらです。
12/23、さする庵で開催予定の哲学カフェは定員の20名に達したため、参加申込み受付を終了しました。参加申込みされたみなさま、当日会場にてお待ちしております。

そうそう、はじめてさする庵にこられる方へ・・・みなさま、結構よく道を迷われます!

大阪天満宮というわかりやすい建物が近くにあって、目印になるのですが、近くまで来ていながらたどり着けない・・・(他ならぬ私がいまだに迷うことがあります)。
はじめての方は、念のため以下の地図を片手にお越しになるのがいいかもしれません。
地図はこちら

1Fに「ル・レストラン・ドゥ・ヨシモト」というフランス料理店がはいっている建物の2Fです。入り口はそのお店の右側、脇にあります。





11月のテツドクの報告がまだでした。何とか年内に報告したいのですが・・・

2011/12/13

中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「年をとるとできることとは?」

こすがです。12月7日に開催された中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「年をとるとできることとは?」の参加者の方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。


「比較により違いがわかるとの発言は印象に残りました。参加者が何と比較して考えていたのかが見えて面白かったです。過去の自分、今の若者、身近な老人など」


「哲学カフェは初めてだった。「一つの問題を考え、共有する」何も生み出さず、目的も見えない。はじめは不可解に思ったが話し合う内に何か引き込まれる気がする。またカフェにきたいと思った。カフェをする意義を話してみたい」


「良いテーマだったと思います。"老い"について考えたことが無かったので考えるヒントを得ることができて良かったと思います。」


「今回のテーマは、発言する方達がとてもユニークでした。気づき刺激や、そこに問題が立ちはだかるかどうかだと思いました。新しい事とかをどうしても求めてしまう。違ったやり方や気持ちをどういい方向に舵を切れるかどうかなんでしょうか。」


「ポジティブな意見、ネガティブな意見様々ありました。私は、老いることをポジティブに考えています。できることを多くして、何か苦難にあたったとき、できることの選択を増やしたい。」


当日は42名の方々にご参加いただきました。ご参加いただいたみなさま、お疲れさまでした。

2011/12/07

セミナー「哲学対話入門:NSDを体験する」参加者感想

こんにちは、まつかわです。
先週の土日は、セミナー「ネオ・ソクラティックダイアローグ(NSD)を体験しよう」を開催しました。
受講者のみなさん、2日間、本当にお疲れさまでした。


問いを立てる、例を挙げる、例を吟味する、答えをだす。
NSDでは、そのそれぞれの段階において、どうやって進めるかも含めて全員で話し合ってすすめます。
今回は、「相手をわかるとは?」という問いがたてられ、仮の答えを出すところまでいきましたが、最終的に答えを決定するところまではいきませんでした。
しかし、受講生のみなさんの妥協しない態度は、講師の本間さんの「哲学的な問いや哲学的な答えがあるのではない。問い方や答え方が哲学的かどうか」を体現していたと思います。

NSDはハードなので、お菓子が必須。

アンケートから、受講された方の声をご紹介しておきましょう。

まず、受講の動機は?
「ネオ・ソクラティックダイアローグを知りたかったから」
「対話を人としっかりしたかった。」
「じっくりと対話を経験する機会を得られると思ったから。“対話する”とはどんなことなのか、最近ずっと考えていたので、それを考えたり、考えを深めるきっかけになるかもしれないと思ったから」
「前回の受講がinterestingだったので」(2回目の方)


実際に受講してみて、いかがでしたか?
「今回もinterestingでした。」
「“聞く”ということの大切さを改めて実感しました。」
「みんなで問いを立て、例を出し合い、ひとつの例について2日間という長い時間をかけて対話する・・・というプロセスの中で、いろいろな考えや意見を聞けたことは興味深かったし、良い経験になりました。」


片付けが終わったあと、会場を提供してくださったとよなか国際交流協会の方から「NSDって何の役に立つんですか?」と尋ねられました。
個人的には、何かの役に立つというよりも、本当の対話とはどのようなものか、他者と自分の認識がどんなふうに異なるのか、共通の認識をもつことがいかに大変かを思い知るために、時おりこうした対話に触れるはとても意義があると感じています。
「いまこの場面で多数決をとるのは適切か」
「多数決だとどんな問題が生じるか」
「私たちが話し合っていることは本当にこの言葉で表せるのか?」
「この発言の仕方は、対話的かどうか」
こうしたやりとり一つ一つが、他者や自分の考えに耳を傾けようとする人にとって(役に立つというよりも)糧となるのではないでしょうか。

2011/12/02

セミナー「ワークライフバランスから“働く”を考える」

こんにちは、まつかわです。
お元気ですか?
私は二日ほどインフルエンザで寝込んでおりました。
なんとしても、今週末のカフェフィロセミナーまでに完治するぞ!と気合いで治しました。
みなさんも気をつけてくださいね。

そう、明日はいよいよ、カフェフィロセミナー「NSDを体験しよう」です。
NSDはとてもハードなので、お菓子を用意します。
何がいいかな。とても迷います。

・・・とその前に、先日の中之島哲学コレージュの報告を簡単にしておきましょう。
11月25日(金)は、日蘭学生会議の方を招いて、ワークライフバランスについて考えました。

実は、彼女たちがオランダに視察に行く前は、ワークシェアリングに焦点をあてるつもりでした。
当日、会場から「ワークライフバランスを考えるうえでワークシェアリングは欠かせない。まず、ワークシェアリングをとりあげるべきでは?」と声があがったとおり、実際にワークライフバランスを考えるうえでワークシェアリングは欠かせない要素(制度?)だと思います。
しかし、実際にオランダに行ってみると、オランダではワークシェアリングが当たり前すぎて、むしろ、彼が大切にしている生活(ライフ)と仕事(ワーク)とのバランスのとり方が印象に残ったそうです。
ワークシェアリングが当たり前のこととして受け入れられているのは、発表のなかで触れられた充実したパートタイム制のおかげなので、全く触れられなかったというわけではありませんが。
「ワークシェアリング」というシステムから「ワークライフバランス」という概念に移すことで、テーマは少しぼんやりしてしまうというリスクもありましたが、会場からは「ワークライフバランスというときの"ライフ"って何だろう?」「お金が十分にあっても働くか?」といった積極的な問いかけがでてきました。

今回私は企画段階から関わらせていただき、進行も日蘭学生会議の方におまかせすることになったので、一応何かあったらフォローできるようにとカフェマスターとして参加させていただいたのですが、結局当日は、参加者のみなさんと同じように、他のみなさんの声をききながら、(たいしたフォローもせず)自分の働き方についてあれこれ考えていました。


個人的にとても印象的だったのは、最後から2番目に発言された方の「20代はバランスなんて気にせず、がむしゃらに仕事をしたほうがいい。そういう時期があったほうがいい」という意見(記憶をたよりに書いてるので、もし間違っていたらごめんなさい)。
それをきいて、同世代の友人たちがバリバリ働いてる20代後半をごっそり病床で過ごした私は、発言された方の意図とはちがうだろうけど「がむしゃらに働く時期もあれば、そうでない時期もあっていい」と都合のいいように解釈し、「20代はがむしゃらに働けなかったけど、みんなが一生がむしゃらに働くわけじゃないのなら、いつか私にもがむしゃらに働ける時期が来るかな」と、少し前向きな気分になりました。


ひとつ心残りだったのは、「出産・育児は女性に関わること」として捉えられていたことかなぁ。出産はともかく、育児は関わろうと思えば男性にも関わることなので(関わりたくなければ女性も関係なく過ごせるし・・・それが少子化につながるのですが)。
オランダのようにパートタイムとフルタイムの切り替えが容易で、待遇にも差がなければ、男性が育児休暇をとっても家計が打撃を被ることはないし、「出産・育児は女性に関わること」という意識も覆されるのではないでしょうか。

「働くこと」に関心のある人が多い会場だからと、参加者のためにと思って準備した企画でしたが、思いのほか自分自身のワーク&ライフについて思いを巡らせた2時間でした。