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2014/06/30

7/11 小金井哲学カフェ「一寸先は闇、なのか」

こんばんは、本日ようやくギプスがとれてサポーターに昇格したまつかわです。

賛助会員の佐土原さんより、次回小金井哲学カフェの開催情報が届きました。



日時:7/11(金)19:00-21:00

テーマ: 一寸先は闇、なのか

場所:カフェ  broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)

主催:小金井哲学カフェ 進行:佐土原


参加をご希望の方は、小金井哲学カフェのサイトよりお申し込みください。

ところで、佐土原さんより
女性の参加比率がはっきりと高い日がしばしばあります。
松川さんのところはどうですか?
とご質問いただきました。

そういえば、昨日の哲学カフェの男女比はすごかったです。
松江で「男女共同参画について考えられるようなテーマを」とご依頼いただき、「女らしさ、男らしさって必要?」というテーマで開催したのですが、集まった20名ほどのうち男性はたった2名。残りは全員女性(見た目で判断したかぎりは)でした。
対話が進むにつれて、性差より、個性のほうが強く感じられて非常に面白かったのですが・・・

やはり、テーマや素材によって、参加者層に偏りが生じることはあります。
他にも、なんとなくですが、アート系のテーマや素材のときは若い女性が多かったり、政治系のテーマの時は中年以上の男性が多かったりします。
男女共同参画に関するテーマでも、もし「男性対象で」と言われていたら、他のテーマを提案したでしょう。
周囲の人が「こういう人に考えてほしい」と思うテーマと、本人たちが「こういうテーマなら考えたい」と思うテーマとでは、たとえ根底ではつながっていても、言葉遣いや切り口が異なることもあります。
なので、もし、「カフェフィロに哲学カフェや対話ワークショップを依頼しよてみようかな」とご検討中の方がいらっしゃったら、ぜひ「どんな人に参加してほしいか」もお聞かせくださいね。

松江の哲学カフェについても、また時間をみつけて報告したいと思います。
のんびりお待ちください。


報告:漫画de哲学「暴力とはなんだろうか?」

三浦です。最近、名古屋での哲学カフェの報告がすっかり滞っていて、申し訳ありません。
6/21に漫画de哲学の第3回目を行ないましたが、参加者が計22名にも達し、急きょ店内の他の場所から椅子を持ってこなければいけないほどでした。
名古屋では参加者の方々に、参加してみての感想などを「レビュー」というかたちで書いてくださるようお願いしていますが、今回は大学生の東さんに書いていただきました。
熱のこもったレビューをぜひお読みください。

はじめまして。東という一介の大学生です。ぼんやりした思いをちゃんと言語化したい、その触媒として対話を使おうという手前勝手な理由で哲学カフェを活用しています。拙いですが、レビューを書かせて頂きます。
 
今回の哲学カフェは「暴力とはなんだろうか」がテーマです。最初に提題者から『野望の王国』(原作:雁屋哲)の紹介がありましたが、残念ながら(?)その後あまり参照されることはなく、自由闊達に議論が進みました。暴力の線引き問題見えない暴力の存在暴力はヒトに固有と言っていいか暴力を抑えるための暴などの話題が行きつ戻りつしながら話されていたと思います。

最初に話題になったのは暴力の線引き問題です。
我々は、個別案件に関して意見の相違があるにしても、虐待としつけを区別しています。
つまり、不当な暴力と正当な暴力を区別しています。そして、規律や秩序を守るためには、正当とされる範囲に限り暴力を許容しています。この線引きは何によって決まるのでしょうか?――この問いには「個々人、各時代の価値観によって決まる」という答えで大勢の一致があったと思います。「廊下でバケツ」は、昔は当然の懲罰、現在では教師によるいじめであるわけです。また、永沢君やまるこちゃんが「これくらいはいじり」と思っていても藤木君は「いじめだ」と思っていることでしょう。(逆のパターン;永沢君が「いじめてる」と思っているのに藤木君が「いじりだ」と思っているパターンはあまりない気がします。)
時代による線引きの変化を大きな視野で考えると、現代は、暴力にますます厳しく敏感になっている、換言すると、社会はますます優しくなっていると思います。殴る蹴るの見える暴力だけではなく、同調圧力やセクハラ野次、先進国の発展途上国からの経済的搾取への我々の加担も見えない暴力として市民権を得ています。「人間は対等であるという価値観の広がりがこのような変化を駆動している」という意見や、「このような良識的な価値観に実感がついていってない」という意見、「やさしくなり過ぎ。もっと暴れてくれていいのに」という意見が聞かれました。

また、「「どうして人を殺してはいけないのか?」と問うインモラルな子供を殴って道徳を教えることは正当な暴力といえるのでは」という主張もなされました。同意する方が多かったように見えましたが、個人的には別にほっといてもいいじゃないかと思います。サカキバラ事件のように実際に殺人を犯せば司法により裁かれるので。

議論のためとはいえ、殴る蹴るの暴力と同調圧力を同じカテゴリーにいれることに感じる違和感はなかなか払拭できません。想定している暴力のモデルの違い確認するため、時々各々が定義を述べていました。まとめると以下のような感じです。

・動物を殺して食べること、つまり生きることそのものが暴力である。

・殴る蹴るや窓ガラスを割って回るような行為が暴力である。

・人に何かを強制する行為が暴力である。(etc. 同調圧力、タブーのすり込み)
 
・目的に対して手段が過剰であるような傷害行為もしくはそもそも無目的であるような傷害行為が暴力である。

・理念的には対等であるはずの二者のうちに出来た優劣関係を利用する行為が暴力である。

並行して、「赤ちゃんの夜泣きは暴力とはいえない、暴力的な赤ちゃんは存在しない」ということも確認されました(一同爆笑しました)。これは大変鋭い指摘だと思います。定義の三番目とも関連しますが、私は、暴力の主体となる能力は(そこそこ成長した)人間に固有だと思います。狂暴な動物は存在しますが、暴力的な動物は存在しません。この違いが生じる理由は恐らく、動物はお互いを対等にみる価値観を持っていない、価値観を持つような存在者ではないからです。「話せる」人が「話せば納得して従ったり、不服をいって従わなかったりする相手」を力で従わせることが暴力概念の含意の一つではないでしょうか。安部公房がある対談で「未開人は確かに残酷な行為をするけれど、それを残酷なことだと思っていない。われわれは残酷な行為を残酷と知りつつする」というようなことを述べていました。暴力も同型の構図を持っていると思います。

「秩序を形成・維持するための暴力」「暴力を抑制するための暴力」も幾度か話題になりました。撞着的に見えるこの現象をどう理解すればいいでしょうか。「指導医が研修医4人のうち1人をスケープゴートにして他3人と良好な絆を作っている」という事例が挙がりました。いじめや排外主義などにおいて一般的な現象ですね。暴力は人を目に見えるように味方と敵にわけて、味方の結束力をあげる効果があるのではと思います。また、配布された『野望の王国』の人物紹介に「日本は警察国家だ! 警察こそは日本最大の暴力機構だ! おれはその警察を乗っ取るのだっ!!」と勇ましいことを言っている角刈りさんがいます。このキャラクターはたぶん、「暴力を抑制するためにはより巨大な暴力機構が必要となるが、その暴力機構が乗っ取られたとき誰も止めることができない」というような問題を提起しているのだと思います。

 以下言い足りなかったことや感想など。
私が最初に暴力の定義として「手段の過剰」をあげたときに、「誰が過剰だと判断するのか」と質問され、「被害者や第三者」と答えました。対話中にあげられた、第三者的にみて暴力教師でも生徒たちにとってはよい教師の例は被害者のほうの発言の重みを与える例です。これはこれで真実だと思いますが、第三者が判断する人に含まれているのが個人的にはポイントで、その意義は被害者が暴力に過敏であるケースや鈍感であるケースが存在すると思うからです。

日本人の協調性に関して、『しがらみの科学』という本で面白い調査が紹介されています。その調査では被験者に「まわりの人が自分をどう思っているか、つい気になる」「自分と仲間の間では意見の不一致が生じないようにしている」などの項目がいくつ自分に当てはまるか答えてもらい、さらに同じ項目について、理想の自分ならどう答えるか、他人ならどう答えるか、と主語を変えて答えてもらいます。結果、日本人は「実際は協調的な生き方をしているが」「理想的には独立的に生きたい」「他人は自分より協調的であると思っている」という特徴があることがわかったそうです。また、独立的に生きている人は好ましいと思うかと尋ねたところ、大方が好ましいと答えたらしいです。

今回の哲学カフェでは同調圧力が暴力の一つとして挙げられていましたが、中には、自分が過敏になっているために「あるように感じられる」同調圧力が存在するかもしれません。
さらに、逆に、鈍感である例をあげると、DV被害者はしばしば「私が経験していたことはDVだったのか」と“気付く”といいます。本人が気づいていない被害は実は多いのではないでしょうか(確かめようがないですが)。

 ほかにも書き足りないことはありますがこんなところで。カフェの場の議論ももちろん刺激的ですが、議論のなかで言い足りないことが生まれ、それをお土産に抱えて帰り、改めてこねくり回すことができるというのが哲学カフェの、私にとっての魅力の一つです。
私(三浦)の位置から見た店内の模様

最後の一文がとてもうれしいですね。東さん、ありがとうございました。また、今回の進行役は南山大学の佐藤啓介さん(写真中央の白いシャツの方)に担当していただきました。大人数の対話を見事にさばいて進行された佐藤さんにも感謝いたします。ありがとうございました。

2014/06/27

7/12 哲学カフェ「結婚」@姫路

こんばんは、まつかわです。
先日のセミナーをきっかけに賛助会員になられたricoさんより、「姫路で哲学カフェを開催します」とご連絡いただきました。

お近くの方はぜひどうぞ♪




開催日時 : 7月12日(土)14時~16時
会  場 : mocco (姫路市綿町76 こうしんビル2F )
参 加 費 : 2,000円 (初めてご参加の方は500円OFF!)
別途、moccoの2時間利用料 500円要(ドリンクバー代が含まれます)

テーマ : 結婚(企画者ricoさんがこのテーマを選んだ理由はこちら

定  員: 6名

3日前までにご予約の上、ご参加ください。(Tel:079-335-5530,e-mail:info@studiocue.net)
ただし、定員に達し次第、締め切らせていただきます。
またこの会の特性上、申込人数が3名に満たない場合は開催を中止することがあります。 ご了承ください。


こちらのページに、哲学カフェの説明も。
「studioCUEの哲学カフェってこんな感じ!」のところを読んでおくと、初めての方も安心して参加できそうです。


NSDセミナー@大阪 参加者の感想

こんにちは、まつかわです。
先週末に大阪で開催したNSDセミナーのアンケートをまとめ終えました。

アンケートをみて初めて気づいたのですが、今回は20代〜60代まで、それぞれの年代の方が1〜2名ずつとバランスよく参加してくださっていたんですね。
対話しているときは、年代のちがいを全く感じなかったので、ちょっとびっくりしました。
そういえば終了後、「こんなふうに他人と意見を言い合ったのは、思春期以来」とおっしゃる方がいました。そういえば、部屋の空気もそんな感じでしたね。
対話を通して、みなさん若返っていたのでしょうか?

では、参加者感想をご紹介しましょう。

l   ふりかえりで言ったように、超高速バージョンも楽しかったです。(NSDが大好きで何度も2日バージョンに参加されている方より。)
l   とても楽しめました。対話することで、同じ場を共有した人たちを身近に感じることができて、対話が持つ可能性のようなものを感じることができました。自分自身の今後に役立つと思います。
l   思考することを楽しみました。一日ありがとうございました。
l   大変有意義な時間を持てて、ありがとうございました。

l   進行の手続きについて、事前に少し説明があったほうが初心者には分かりやすいのではと思った。今日はありがとうございました。 

最後の感想についてちょっと補足を。
もちろんNSDの手順についてはセミナーの最初や途中で講師の川崎さんからご説明しています。
が、この方は体験してみてもっと深く知りたいと思われたようです。1日バージョンでは限界があるので、2日バージョンにも参加したいとお申し込みくださいました。
終了後、他にも複数人の参加者から「2日バージョンや3日バージョンにも参加したい!」とご希望をいただきました。

7月に東京で開催する2日バージョンのほうはまだ残席ございます。
気になる方は、ぜひ思い切って体験しにきてください。
詳細はこちらをどうぞ。



2014/06/23

もうすぐ出ます『探求の共同体』

おひさしぶりです。中川です。

シネマ哲学カフェを、じわじわ開催中です。

さて、今日は久々に宣伝に参りました。

映画を見て哲学カフェをやりつつ、学校で働きながら教室で哲学カフェをやってます。

そういうのを、子どもの哲学とか言ったりします。

創始者、マシュー・リップマンの翻訳に携わっていたのですが、それがついに解禁されます。


なかなか分厚く、お値段も……手が出にくいかもしれませんが……

そこをなんとか……よろしくお願いいたします。

さあ、今週末わあ、水戸黄門、シネマ哲学、乞うご期待。

7/5 おひとりさま、最後の終活〜お寺とNPOの「生前契約」〜@大蓮寺

こんにちは、まつかわです。
昨日NSDセミナーでお世話になった大蓮寺さんにて、7月5日「夏のエンディングセミナー2014」が開催されます。


おひとりさま、最後の終活〜お寺とNPOの「生前契約」〜

  • 7月5日(土)13:00~16:00
  • 会場:浄土宗大蓮寺
  • 参加費:一般1,000円、学生800円

※詳細については、こちらをご覧ください。



いまやすっかり「終活」という言葉も定着しましたが、大蓮寺さんでは、10年も前からこのエンディングセミナーを開催されているそうです。
「今年のテーマは「生前契約」。単身者が「死後を誰に託すか」という最大の課題について、お寺とNPOの協働サポートの可能性を考えます。」とのこと。
ご関心のある方は、ぜひチェックしてみてください。


2014/06/22

なぜ人は心配するのか?

こんにちは、まつかわです。
報告が前後してしまいますが、6月5日(木)に開催したグリグラの哲学カフェの報告です。
この日の参加者は10人ぐらいだったかな。会場を北区民センターに移してから、ちょっとずつ参加者が増えてきました。男性も3名。

提案されたのはこんなテーマたち。


多数決を繰り返した結果、選ばれたのは「なぜ人は心配するのか?」でした。


●わからないから心配? わかるから心配?

子どもの将来や老後のこと、会社の経営、家計のことなど、最近心配なことを具体的にあげながら、心配の一つの要因として、「わからないから」という点があげられました。

これに対して、こんな反論がでました。「私は家計について心配しているけれど、夫は全く心配していない。じゃあ私が夫より家計についてわかっていないかというとそんなことはない。むしろ逆で、夫は食費や住居費、光熱費、教育費などが月々どれだけ必要か全くわかっていない。私はわかっているから心配になる」。もちろん、それらをちゃんと賄えるかどうか「わからない」から心配になる。しかしもう一方で、何かを心配をするには、ある程度何かを「わかっている」ことも必要ということがわかってきました。

●心配=愛?
また、心配の他の要因として、「愛があるから心配するのではないか」「心配してほしいというのは、愛してほしいということではないか」という意見もでました。この「心配=愛」説を主張するある参加者からは、「息子はかわいいから心配だけど、娘はかわいくないから全然心配じゃない!」という過激な(?)発言も・・・(そのぶんご主人が娘さんを心配しているそうなので、幸い、愛情不足ということはなさそうです)。

それに対して、「道端で誰かがしんどそうにしゃがんでいたら、それが全く知らない人でも心配はする。だから、心配と愛は関係ないのでは?」という反論がでました。さらに、「でも、イヌ好きの人ならイヌの心配はするけれど、虫が死にかけても心配はしないよね?」と再反論が述べられ、「同じ人間だから、同じ日本人だから、同じ神戸人だから心配する。それもある意味、愛ではないか」と、「愛」の幅広さを指摘する声がでました。

また、「心配=愛」説と関連しつつ異なる見解として、「私は、私が友人に引き継いだ会社の将来を心配しているが、それは友人のためでも、会社のためでもなく、自分自身のためだとおもう」という発言もありました。ここから、「私が子を心配するとき、子どものためと思っていたけど、実は自分のために心配しているのかもしれない。もし子どものためではなく自分のためだとしたら、それは本当に愛といえるのだろうか」と考え込む方もいました。

次回グリグラの哲学カフェは、7月3日(木)に開催します。
詳細はカフェフィロHPをご覧ください。



ただいまNSDセミナー中

こんにちは、「ギプスさん」こと、まつかわです。
ただいまNSDセミナー真っ最中。
例の記述が始まりました。

参加中のみなさんを見守りつつ、中間報告を。


いつも2日間かけてやるNSDですが、今回は1日のショートバージョンにするため、事前に問いを決めさせていただきました。
が、問いを自分たちのものにしていただくため、午前中のうちに一度マイナーチェンジが検討されました。


3つ目の「どんなときに私はxに人間らしいと思うか」のほうが考えやすそうという意見も出つつ、最終的には「人間らしいとはどういうことか」という問いに答えを出したい、ということで、最初の問いに決定。
もとの問いに戻ったわけですが、全員の「これを考えたい」という意思が確認され、みなさんの態度がぐぐっと主体的になったような気がします。
この一見無駄にみえる時間が大事なんですね。

お部屋はこんな感じです。



この感じ、夏休みの宿題をしに友達の家に集まったときみたい。

1日で答えを出すところまで行けるかどうか、ドキドキです。

書評カフェ『100万回生きたねこ』〜青木さんより〜

おはようございます、まつかわです。
大阪は雨ですね。
セミナー受講者の方にはお足下の悪いなか来ていただくことになりますが、NSD日和ではあるかもしれません。
私も無事松葉杖から解放され、スタッフとして参加させていただきます。

その前に、先日の中之島哲学コレージュ/書評カフェ『100万回生きたねこ』の進行をしてくださった青木健太さん(大阪大学大学院文学研究科大学院生)より、報告&感想をいただいたのでご紹介します。


今回はスライドの使い方をけっこう工夫しました。どうしてもクセで「ここの記述にもとづくと…」みたいなまとめ方をしてしまうので、なるべく行間が多い絵本の雰囲気を残す方向にもっていきました。絵本は言葉数が少なく語り過ぎることがないので、何かを考える上で良い始まりをくれるようです。もって行き方によっては、かなり直観的な思考を動かすこともできるんじゃないかなぁ、と。

参加者は45人ほどで小学生くらいの子もいたので、「まんべんなく各世代が来たぞ」と言ってもいいですよね?あのオフィス街のど真ん中で、子供から高齢者までが、生きるとか死ぬとかの話をする時と場を作れたことは、そこに居られなかった何かに場所を空けたんじゃないかと思っています。その「何か」を「死」というのか「生」というのか「いのち」というのかわかりませんが。大袈裟ながらもそう信じたいわけです。

うれしかったので、撮影をお願いしちゃいました。
問いは二つ用意していて、一つ目は「なぜ100万回生きたねこはもう生きかえらなかったのか?」。この問いはねこについて考えるので、ちょっと自分自身のこととは距離を置きながら考えられる感じです。語り出されたことは、自分の生が他人のものなのか自分自身のものなのか、何かを失うことの意味の大きさ、などなどでした

二つ目の問いは、100万回生きたねこのいのちが「自分がこれで満足だと感じるまで何度でも生き返る命」だとして、「あなたは100万回生きたねこになりたいですか?」。なりたくないという人が多いんですが、なりたいという人もちらほら。参加者の方自身に問いを向けたので、ちょっと語りの雰囲気は変わったような気がします。うまく表現できないんですが、一つ目の問いほど輪郭がはっきりしないちょっとぼかしが入ったような語り口です。終わり際くらいにさらに突っ込んで「あなたはすでに100万回生きたねこと同じ命をもっているとして、あなたは1回で死ぬ自身はありますか?」と皆さんに聞いてみました。すると、さっきまで100万回生きたねこにはなりたくないと言っていた人もちょっと揺れる感じに。答えが揺れることはなんとなく想像はしてたわけですけど、いや、それでもこれは実際聞いたらやっぱり大事だと思いました。

たぶん「こういうふうに人生を終えたい」と思っている影に「でもどうだろうなぁ」という不安があって、それでもやっぱり望むことはそれなりにあり。次の瞬間に人生を全否定するものが来ることも、全肯定することがくることもあるわけで。だから、望んでいることを実現しようとする努力もそこにはあるのですが、そのとき不安はたぶん努力の動力系に組み込まれてしまっているんだろうと思います。望んでいることが実現すればそれまでのことですが、実現しなかったときに何が残るんでしょうか。実現しないとして、それでもまだ次の何かを望むんでしょうか。それとも、自分が自分に定めたこととして何かを望んだのだとしたら、その時点でもう望みは叶ったことになるとかでしょうか。何やらこの類のことが、生き死にを考えるときの深度に関わってそうな気がします。





青木さん、ありがとうございました。

次回の中之島哲学コレージュは7月2日「哲学カフェのつくりかた」です。
仙台で哲学カフェを展開されている西村高宏さんをはじめ、カフェフィロのメンバーがゲスト。ふだんはそれぞれの活動に忙しく、会ってじっくり話す機会はなかなかないので、楽しみです。

2014/06/20

100万回生きたねこになりたい?

こんばんは、まつかわです。
本日の中之島哲学コレージュは、書評カフェ『100万回生きたねこ』。
45名の方が参加され、「100万回生きたねこになりたいですか?」という問いかけに思考をめぐらせました。



最年少参加者は、なんと小学生の姉妹。
お姉ちゃん(10歳ぐらいかな?)は、一緒に参加してくださったお母さんが「この子がこんなに話せるなんて」と驚くぐらい、他のみなさんと同じように何度も意見を述べてくれました。
特別扱いされることもなく、青木さんの投げかける質問にもしっかりこたえる姿に、大人と子どもの違いって、私が思っていたよりずっと小さいのかもしれないと感じました。

絵本の力か青木さんの丁寧な進行のおかげか、対話のうねりを感じるというより、ひとりひとりの声に、まるで宝石をのなかの光の屈折を確かめるように、じっくり耳を傾ける時間となりました。




まだ、みなさんからきいた話を消化できていないので、内容について全然書いてませんが、今日はこの辺で。

参加してくださったみなさん、進行の青木さん、会場スタッフのみなさん、ありがとうございました。


(追記:写真のサイズを修正しました。帰りの電車でスマホからアップしたのですが、アプリからアップすると、リサイズされず元のサイズのままアップされてしまうのですね。気をつけます。)

グリグラ哲学カフェ『プレゼントは喜ばなければならないか?』

液晶画面からこんにちは。behbluesです。
6/18、とてもひさびさに毛糸ボールをつかわず進行役をしました。

なんでボールを使わずにしてみたくなったのか、いまちょっと、書いてみたのですが、
哲学カフェ本のうさんくさい宣伝みたいになるし、
照れてしまうきもちも強かったので、
それはいつか、もっと素直に書ける時がきたら。


さて、今回は『プレゼントは喜ばなければならないか?』という問いが選ばれました。

この問いを出した方が抱えていたのは、
「自分の好みは知っているはずの家族から、
記念日に、明らかに自分の好みでは花をもらった。
なんでこれ?!と腹立たしいほどだったが、
家族の気持ちを考えて、喜んでいるふりをした。
リビングに飾ったが、その花があるあいだじゅう、いやな気持ちでいた。」
というエピソード。

今回の報告では、時系列順ではなく、さまざまに出てきた話を、
わたしにとってはこう繋がったよー!というふうに、再構成してみますね。

● 関係性を維持するために、喜んだふりをする必要がある
→でも、同じ「家族」という関係性でも、嬉しくないモノをもらったとき、
 こども相手だと「え〜〜」って言えるかもしれないが、
 夫相手だといえない。何が違うのだろう。
→喜んだふり、ではなく「おかえし」というしくみで返すこともよくある。
 とくにイエという単位が機能しているところでは、
 根強い「おかえし」カルチャー有。

● モノ自体は嬉しくなくても、相手の「自分のために選んでくれた」という気持ちは喜ばしいものではないか
(問いの「喜ばなければならない」ということについて、おおむね相手への表現の話として展開していきましたが、ここではどちらかというと自分の内面の話として目が向けられていた、と言えるかもしれません。)
→贈り手の側にたってみると、「選ぶ」の中には
 たのしい「気持ち」のほかに、
 たとえば記念日にはプレゼントするものだ、とか、
 しんどくなるような「社会性」といったものも、混じり合っていると思う。
→誰かに選んでもらうことよりも、自分で納得して選ぶことのほうが嬉しい。

● 嬉しくないプレゼントを「喜んだフリ」「はっきり断る」はできるが、「上手に断る」のは難しい
→嬉しくない「モノ」 と、 嬉しい「選んだり送ったりしてくれる気持ち」の
 両方がある時に、気持ちのほうだけを受け取る仕方がわからない。
→海外では、たとえば親からと祖父母からもらったクリスマスプレゼントが
 被ったとき、ともだちと交換することは、贈り手にとっても受け手にとっても
 当然。日本の場合、たとえば被ったことを隠したり交換したりしたら、
 そのことを後ろめたく思ったりするのでは。


そのほか、お金や行為といった、「モノ」とはちがうが
「プレゼント」とは似たようなものごとについて、
予期していないときにもらうプレゼントは
「モノ」にあまり重きを置かずうれしく感じる、
お金がないこどもたち同士のプレゼント、
などなどの話がありました。

個人的には、今回カフェのなかでは話されませんでしたが、
途中でぽろっと出てきた「所有権」ということばが気になりました。
プレゼントは、「はいどうぞ」と言った瞬間に、
たぶん贈り手の所有物から受け手の所有物に変わると思うのですが、
受け手の腕の中におさまってもなお、贈り手「の」モノという気分が
双方ぬぐえず、だからこそ嫌悪や拒絶がはばかられるのかなと思ったのです。
そこには、途中で話された「プレゼントには贈り手の人柄がよく現れる」
「プレゼントを贈るということはエゴ」という話もきっと関連するでしょう。

また、これも今回詳しくは話す時間がありませんでしたが、
途中である方がおっしゃった、
「むだなやり取りで学んでいくことがある」ということばにはっとしました。
わたしは何を学んでいけるだろ?

途中でペンを、青→赤→黒→緑の順に持ち替えていったので、
その色がそのままおおまかな話の順番です。(松川さんの発見を拝借!)

最後に、これまでのカフェフィロで、プレゼントについての哲学カフェってあったんかなあ?と思い、ちょっと探してみました。
近そうなものとして、「無償の贈与は成り立つか?」「贈り物」が見つかりましたよ。


読んでくださってありがとうございます。
それでは、液晶画面からごきげんよう。


2014/06/19

旅をする?

こんにちは、まつかわです。
先週日曜日は、岡山大学城下ステーションにて哲学カフェでした。

テーマは「旅をする」。
「旅に出たい」という気持ちはどこから出るのか?という話題から始まり、参加者のみなさんの体験談を交えながら、おおきく、2つの問いについて考えました。

●どこからが旅行?
旅行かどうかは何によって決まるのか?
同じように岡山から京都へ行く場合でも、「日帰り旅行」と捉える人と、「旅行ではない。ちょっとしたおでかけ」と捉える人がいることを考えると、距離や宿泊の有無ではなさそうです。
ああでもない、こうでもないと考えた結果、「そこが自分のテリトリーかどうかがポイントではないか」という仮説が、かなり説得力をもって展開されました。
京都が自分のテリトリーである人にとっては「ちょっとしたお出かけ」だけど、京都がテリトリーではない人にとっては「旅行」になる。

●「旅行」と「旅」のちがいは?
「旅行には行ったことあるけど、旅ってしたことがあるのかな?ないような気がする」という発言から、「旅行」と「旅」のちがいが、もうひとつの問いとしてあがってきました。私たちが結論に至るまでの道筋を、ざっとご紹介しましょう。

  • 「旅行」は何らかの目的があるけれど、「旅」は途中が大事。
  • 「旅行」は帰る日が決まっているけれど、「旅」は帰る日が決まっていない。あるいは、決まっていた日に帰れるかどうかわからない不安や不確定性を孕んでいる。
  • アクシデントやトラブルが生じたとたん、「旅行」が「旅」になることもある。
  • 「旅」にでると、必死にトラブルを解決する過程で人は成長する(「かわいい子には旅をさせよ」)。
  • 上記の理由から、新宿駅周辺は、「旅行」を「旅」に変える不思議な力が働いている。
  • 同じ理由で、スマホがなければ、「旅行」が「旅」に変わる可能性がある。
  • 同じ理由で、ヨーロッパでつくられているガイドブック(場所の名前だけで、写真も地図も行き方もない)も、「旅行」を「旅」にしてしまう恐ろしさがある。
  • スマホがなければ、海外や他府県にいかなくても、「旅」ができるのではないか。
  • 結論:スマホを捨て、旅にでよう!


他に、「旅行でしか体験できないこと」や「旅行嫌いの人とそうでない人はどうちがうのか」などの話題でも盛り上がり、2時間の対話を終えるころには、スマホを置いて旅に出る気満々の人と、「心配性の自分には旅なんて絶対ムリ」という人とで、ひとつの旅を終えたような連帯感と清々しい満足感がありました。

さて、次回の哲学カフェ@城下ステーションは7月6日。
テーマは七夕にちなんで、「人はなぜ恋をするのか」です。
終了後、近所の岡山神社で七夕祭りに繰り出せるよう、時間15:00〜17:00といつもより遅めです。
詳細はこちらをどうぞ。

同じ7月、昨年ミルトークでお世話になったお向かいのオリエント美術館では、「文明の十字路 シリア」という企画展が催されます。
「シリアトーク」なるイベントもあるので、チェックしてみてください。
詳細は、オリエント美術館のHPをどうぞ。
チラシはこちら



2014/06/17

6/28 小金井哲学カフェ「No _____, No Life.」

こんにちは、まつかわです。
小金井哲学カフェより、次回開催のお知らせをいただきました。
空白付きのテーマが、対話を盛り上げてくれそう


日時:6/28(土)18:00-20:00

テーマ:No _____, No Life.

"No Music, No Life."は、あるCDショップチェーンのコピーです。
「音楽がなければ生きていけない」とでも訳せばよいでしょうか。

あなたには「『これ』がなければ生きてる意味がない」のようなものはありますか。

今回は、あなたの「No _____, No Life.」の空白部分をお聞きして対話したいと思います。

主催:小金井哲学カフェ 進行:花野


参加をご希望の方は、小金井哲学カフェのサイトよりお申し込みください。

2014/06/15

NSDセミナー@大阪、東京

こんにちは、まつかわです。

この時期に自転車で派手に転んで靭帯を損傷すると、「サッカーできそう?」という質問責めになります。気をつけましょう。(ちなみに、質問への回答は「絶対無理!」です。)
イベントの報告、怪我のドタバタもあり滞ってますが、お許しを。

6月のセミナー、いつもに比べて出足が悪いなとおもったら、もしやW杯のせいでしょうか?
いつも3日ほどで定員に達するNSDセミナーですが、めずらしく、まだ残席がございます。
W杯にそれほど関心がない方は、チャンス!
ぜひ、この機会に対話の真髄を体感しに来てください。

詳細はこちらよりどうぞ♪
http://www.cafephilo.jp/fes/nsd_osaka.html

私も勉強のために会場スタッフに立候補して、楽しみにしております(それまでになんとしても歩けるようになりたい!)。

それから、『哲学カフェのつくりかた』の感想をくださった方も、ありがとうございます。
めげずに出した甲斐がありました。
関連イベントも準備中ですが、ごめんなさい。著者割は期待しないでください。もともとギリギリの価格設定なので。
それでも収益がでた場合、その一部はカフェフィロの活動資金になるでしょう。

amazonなら送料無料!
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4872594673/ref=redir_mdp_mobile


2014/06/05

信じるって必要?

こんにちは、まつかわです。
昨日、さする庵でテツドク!に参加された方、おつかれさまでした。

今日はこれからグリーングラスの哲学カフェです。
その前に前回、5月1日(木)のご報告を・・・

グリーングラスの哲学カフェでは、毎回参加者からテーマを募っています。

5つのテーマが提案され、選ばれたのは…


「信じるって必要?」でした。

(この写真をfacebookにアップしたら、夫に「『スッピンは失礼か?』がよかったー(>_<)」と言われました。うん、でも、「信じるって必要?」もおもしろかったよ。)



●信じないほうが賢い?
最初に、韓国のフェリー事故や食品偽装、インターネットの情報の信憑性、あるいは子どものちょっとした嘘など、たくさんの例を通して、信じることの危険性が指摘されました。そこから、「何をもって人は何かを信じるのか」、「信じる/信じないの判断をどうやってすべきか」、といった問いがでてきました。それについて、「根拠を見つけるまでは考えてる。考えているうちは、まだ信じていないのではないか」、「限界まで考えたら、『これだけやってんねんから間違えてもしゃーない』と丸投げするしかない」といった意見がでました。

●信じることは賭け?
いくつかの問いのなかで特に意見がわかれたのは、「人は何も信じずに生活できるか?」という問いでした。信じることにはリスクもあるけれど、疑っているとキリがない。人は生きるうえで何かを選択せざるをえないし、何かを選択するとき、そこには何らかの信頼=賭けがあるのではないかとも考えられます。しかし、その一方で、「もしそこに何らかのリスクがあると思っているなら、それは本当に“信じている”ということにはならないのでは? 本当に信じきっているときには、疑いは生じないので、“賭け”にはならないはず」という意見もありました。

●信じたい気持ちはどこからくるのか?
さらに「子どもが一度ちょっとした嘘をついていることがわかってから、子どもが信じられなくなっている自分がイヤ」という声もありました。私たちの心のうちには「信じたい」という気持ちがあるのかもしれません。この「信じたい」という気持ちについて、考えるうえで特に参考になったのが、「市場では相手を信じて安心して買物できるけれど、スーパーマーケットで買物をするときは自分を信じる」という話でした。
「スーパ―マーケットで魚を買うときは、置いてあるもの全部の状態がいいとは信じられなくて選択肢が狭くなってしまう。でも、市場の魚屋さんで買物するときは、魚屋さんの目利きを信じているから、そのお店にあるものならなんでも買える。相手を信じるほうがラクだし、自由になれる」
そこから、相手を信じることにはある種の解放感(ゆるみ)が伴うということが指摘されました。

私たちの日々の選択のなかにある「信じる」について、じっくり考える2時間となりました。


さて、今日のテーマはどうなるか。
楽しみです。


2014/06/03

大阪&東京 NSDセミナー開催!

こんにちは、ひろいです。
本日はNSDセミナー開催のお知らせです。

このNSD体験セミナーは、特性上、毎回少人数で行っています。
定員になり次第締め切りますのでお申し込みはお早めに!


● カフェフィロセミナー:哲学対話入門
ネオ・ソクラティクダイアローグ(NSD)を体験しよう
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哲学カフェだけでなくもっと「哲学対話」のことを知りたい。そんな方々を対象にカフェフィロでは対話セミナーを定期開催しています。
今回は、ネオ・ソクラティクダイアローグ(NSD)の体験セミナーです。
NSDとは、大学、高校の授業や企業研修で実際に用いられている哲学対話法です。哲学の知識はまったく必要ありません。進行役の助けのもと、参加者みんなで問いを立て、実体験から例を出し、例を吟味し、問いに答えます。
東京のほうはNSDの全てのプロセスを体験できる2日間のプログラム、大阪のほうは1日でNSDのポイントを凝縮して体験できるショートバージョンのプログラムをご用意しました(大阪のほうは最初に問いが決まっています。今回の問いは「人間らしいとはどういうことか?」です)。
哲学カフェでは物足りない方、対話のファシリテーションに関心がある方も大歓迎です。みなさまのご参加、お待ちしています。


【大阪】
○日 時:6月22日(日)10:00〜(受付は9:30〜)
○会 場:大蓮寺(http://www.dairenji.com/)
○進 行:川崎唯史(カフェフィロ)
○アドバイザー:本間直樹(カフェフィロ)
○交 通:大阪市営地下鉄堺筋線・近鉄「日本橋駅」より徒歩7分。大阪市営地下鉄谷町線「谷町9丁目駅」より徒歩8分。
○受講料:10,000円(※カフェフィロ会員の方は8,000円)
○定 員:各6名(要申し込み、先着順)

○問い:人間らしいとはどういうことか?

【タイムテーブル】
10:00-10:30 自己紹介・イントロダクション
10:30-11:15 問いを立てる
11:15-12:00 例を挙げる
12:00-13:00 休憩
13:00-15:00 例を記述する
15:00-15:15 休憩
15:15-17:15 例を吟味する
17:15-17:30 休憩
17:30-18:30 答えを出す
18:30-19:00 振り返り・感想


【東京】
○日 時:7月26日(土)7月27日(日)9:30〜(受付は9:00〜)
○会 場:エセナおおた(http://www.escenaota.jp/map.html)
○進 行:松川絵里(カフェフィロ)
○交 通:JR大森駅東口より8分
○受講料:18,000円(※カフェフィロ会員の方は16,000円)
○定 員:8名(要申し込み、先着順)

【タイムテーブル】
1日目
9:30-11:30 イントロダクション+問いを立てる
11:30-12:30 休憩
12:30-14:30 例を挙げる
14:30-15:00 休憩
15:00-17:00 例を記述する

2日目
9:30-11:30 例を吟味する1
11:30-12:30 休憩
12:30-14:00 例を吟味する2
14:00-14:30 休憩
14:30-16:00 答えを出す
16:00-16:30 振り返り・感想

※開催3日前までに下記申込先までお申し込みください。ただし、定員に達し次第、締め切らせていただきます。また、セミナーの性格上申込人数が5名に満たない場合は開催を中止することがございます。ご了承ください。

★お申し込み方法★
お名前、ご連絡先を明記の上、info@cafephilo.jpまでお申し込みください。
※受講料は前払い制となります。お申し込み後、振り込み先をお知らせいたします。

○問合せ・申込み:info@cafephilo.jp(カフェフィロ事務局、担当:廣井)
○主 催:カフェフィロ
 

テツドク!中岡成文とヘーゲルを読む

こんにちは、まつかわです。
先週木曜はさする庵にてテツドク!を開催しました。

この春大阪大学大学院を退職された、私の恩師でもある中岡成文さんが、6月下旬には故郷に帰ってしまうということで、その前にどうしても実現したかった企画です。
何を読むか迷いましたが、中岡さんといえば、ヘーゲル!ということで、『精神現象学』を一緒に読むことにしました。
(一般的にはあまり知られてないかもしれませんが、中岡さんの西田幾多郎論も臨床哲学も、ヘーゲルなくしてないと私は思ってます。)

「ここに精神現象学の主と奴』の全てが詰まってます」と中岡さんが豪語する資料片手にヘーゲルの思想に触れました。

私は学生時代に読書会や授業で何度も同じところを中岡さんと読んでるのですが、何度読んでも新しい発見があって飽きないものですね。

一方では中岡さんの声をききながら、学生時代に頭を抱えながら読んだことを懐かしく思い出し。
もう一方では、参加者のみなさんの多様な、大学で哲学を学ぶ前、初めて哲学書に触れたころの新鮮な喜び、自由に連想を広げて読む楽しみを思い出しました。

申し込みが多かったので、明日もう一度開催します。
明日はどんな展開になるのか、楽しみです。

2014/06/01

5/31 千里コラボ開催報告

5月31日に開催された千里コラボ哲学カフェの報告です。
正会員の赤井さんよりお寄せいただきました。


【千里コラボ開催報告】

日時:2014(H26)年5月31日(土)14:00-16:00
場所:千里コラボ会議室    参加者21名
テーマ:人間にとって目的とは何か。
 
5月の最終日、真夏のような暑さの中大勢の皆さんにお集まりいただきました。今回のテーマはみなさん、とても興味を持っていただいたようでした。
始めの20分ほどは、みなさんでこのテーマを共有化するための時間だったかなと思います。徐々にその中からひとつひとつ浮かび上がって来たようです。
 
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◆わたしの目的
・死ぬとき、良い人生だったと思いたい。そのためには今、しなくてはいけないことや心がけなくてはいけないことがある、そう思って生きています。
・死ぬとき意識がもうろうとなる前、振り返って幸せだったと思って死にたい。
・人生を楽しむことが目的です。やりたいことをやること、むろん将来にわたって楽しむために、今しなくてはいけないことや我慢することもあると思います。
・人のためにどう生きるのか、を考えながら生きるということが目的です。幼い頃にそう言い聞かされていたこともあって、仕事をする場合も、これが目的でした。
 
◆ そもそも人間に目的は必要か?
・人生に目的はないと思います。自分が目的を持って行きているとは思っていません。
・人生に目的は重要ではないと思います。目的はいろいろあるのですが、決定的に重要だとは思いません。
・生きること、が目的です。
・より良く生きること、が目的です。生きているだけではなく善く生きる、正しく生きる、事が目的です。
・目的を持てない人間もいるでしょう。目的を自発的に持たない、持つではなく、周りから目的を持たされないでいる、と言う立場もあるのではないでしょうか。
・生かされていると考える時、人生の目的はどうなるのでしょう。
 
◆目的が生むエネルギー
・人生は小さな目的の連鎖の束のようなもので、最終目的は納得して死ぬことだと思います。
・目的を持つことが生きるエネルギーを生むのだと思います。
・目的を持つことで意欲を持ち、精神の安定につながります。
・   過労死などの現象は目的が手段化することで人生の目的を失ってしまうことによるのではないでしょうか。
 
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たくさんのご意見を頂きました。後半では目的がなくても生きることはできるし、よりよく生きることは可能であることが浮かび上がって来たようでした。
何事かをなさねばならぬ時に、目的を持ち目標を立てる。それは立ち向かっていくエネルギーを生むもの、であるように思います。
 
次回もまたよろしくお願いいたします。