こんにちは、まつかわです。
毎日冷えますね〜。
家族で風邪やインフルエンザにやられちゃった・・・という方も多いようが、みなさんはいかがでしょうか?
本日はアートエリアB1にて、年に1度の恒例イベント、大阪大学/日蘭学生会議のみなさんの企画。あたたかい格好でお越しくださいね。
それから、HPでもご案内していますが、1月7日、ちょっと特別な哲学カフェ、哲学カフェplusを開催します。
☞哲学カフェplus「玉地コレクションから〈顔〉を考える」
会場はもちろん、3回にわたって玉地さんと『〈顔〉の現象学』(鷲田清一著)を読んできた、さする庵です。
テツドク!では、『〈顔〉の現象学』という一冊の本を通して、第1回に「〈顔〉は像でも記号でもない」とはどういうことか、第2回は、「〈顔〉の社会性」をめぐって、そして、第3回の前回は「他者と出会うとはどういうことか」について考えました。
「顔は像でも記号でもない。コードである」などという謎めいた言葉に戸惑うなか、玉地さんが見せてくれた画像や映像が大きな道標になったこと、参加された方は覚えてますよね?
今回は、この「玉地コレクション」(と私が勝手に名付けました)にスポットライトを当てます。
みんなで〈顔〉にまつわる様々な画像や映像を観ながら(玉地さんの解説付き!)、みなさん自身の言葉で、他者と私をつなぐ〈顔〉の謎に迫りましょう。
テツドク!に参加された方も、初めての方も大歓迎です。
どうぞ気軽にご参加ください。
2014/12/16
2014/10/23
テツドク!『顔の現象学』(2)
こんにちは、まつかわです。
先週水曜日、10月18日は、さする庵にてテツドク!を開催しました。
理学療法士の玉地雅浩さんと『顔の現象学』を読む、第2回目です。
1回目の前回は、「顔は肖像や表情なのではない。像や記号ではない。」「顔はわたしを呼び出す」といった本のなかの言葉とともに、「〈顔〉という現象」について考えました。
2回目の今回は、最後に参加者のなかのひとりが言ってくださったように、「〈顔〉の社会性」について考える回でしたね。
その際、一つの要となったのが、これもある参加者が投げかけてくれた「『顔は記号ではないが、コードである』とはどういうことか?」だったのではないでしょうか。
あれこれ話すなかで朧げにその糸口をつかみかるところまではいくものの、なかなかすっきり納得のいく理解に至れずにいましたが、「『動物の顔を動物の顔として見るのは難しい』とはどういうことか?」という質問と、その参考にと玉地さんが示してくださった動画が大きなヒントになりました。
飼い主らしき人に応えるように、同じようにみえる動きをする犬の映像です。
私は、犬が同じような動きをすることはもちろんのこと、それ以上に、人と犬の動きを「同じ動き」として捉える自分自身の見方が大変興味深かったのですが、参加者のみなさんはいかがでしたか?
私は以前にもこの『顔の現象学』を読んだことがあるのですが、このテツドク!では、こうして玉地さんが示してくださる画像や動画のおかげで、言葉とイメージを行ったり来たりしながら思考を深められるのが面白いです。
哲学って言葉でするものと思いがちですが、参加者の問いかけに対してイメージをそっと投げ返す玉地さんと、そこからまた新たな問いを引き出す参加者のみなさんのやりとりをみていると、哲学の問答って言語の次元だけでなく、もっといろんなやり方があるんだなぁと実感します。
次回の開催情報については、こちらをご覧ください。
それぞれの「〈顔〉とはどのような現象か?」とい問いに対する答えをきけること、楽しみにしています。
先週水曜日、10月18日は、さする庵にてテツドク!を開催しました。
理学療法士の玉地雅浩さんと『顔の現象学』を読む、第2回目です。
1回目の前回は、「顔は肖像や表情なのではない。像や記号ではない。」「顔はわたしを呼び出す」といった本のなかの言葉とともに、「〈顔〉という現象」について考えました。
2回目の今回は、最後に参加者のなかのひとりが言ってくださったように、「〈顔〉の社会性」について考える回でしたね。
その際、一つの要となったのが、これもある参加者が投げかけてくれた「『顔は記号ではないが、コードである』とはどういうことか?」だったのではないでしょうか。
あれこれ話すなかで朧げにその糸口をつかみかるところまではいくものの、なかなかすっきり納得のいく理解に至れずにいましたが、「『動物の顔を動物の顔として見るのは難しい』とはどういうことか?」という質問と、その参考にと玉地さんが示してくださった動画が大きなヒントになりました。
飼い主らしき人に応えるように、同じようにみえる動きをする犬の映像です。
私は、犬が同じような動きをすることはもちろんのこと、それ以上に、人と犬の動きを「同じ動き」として捉える自分自身の見方が大変興味深かったのですが、参加者のみなさんはいかがでしたか?
私は以前にもこの『顔の現象学』を読んだことがあるのですが、このテツドク!では、こうして玉地さんが示してくださる画像や動画のおかげで、言葉とイメージを行ったり来たりしながら思考を深められるのが面白いです。
哲学って言葉でするものと思いがちですが、参加者の問いかけに対してイメージをそっと投げ返す玉地さんと、そこからまた新たな問いを引き出す参加者のみなさんのやりとりをみていると、哲学の問答って言語の次元だけでなく、もっといろんなやり方があるんだなぁと実感します。
次回の開催情報については、こちらをご覧ください。
それぞれの「〈顔〉とはどのような現象か?」とい問いに対する答えをきけること、楽しみにしています。
2014/09/16
テツドク!『顔の現象学』(1):玉地さんより
おはようございます、まつかわです。
9月3日(水)にさする庵で開催したテツドク!について、本を紹介してくださった玉地さんより感想が届きました。
たまらずビールを買いに行くとどこかで見た顔、 そう春に阪神百貨店の阪神グッズ売り場で出会った人でした。
9月3日(水)にさする庵で開催したテツドク!について、本を紹介してくださった玉地さんより感想が届きました。
*
8月に久しぶりに甲子園に高校野球を観に行きました。 例年と比べて涼しいといわれた今年の夏ですが
やはり夏です。暑いです。
もちろん知り合いではありません。 会ったのもその時1回きりです。
病院で勤めていた時からどうも私は人の顔に強くひかれると思っていましたが、 さすがにこの件は自分でもびっくりしました。
そんな私が今回みなさんと一緒に考えたいと思ったテーマは「顔」 です。
そして選んだテキストは鷲田清一氏の『顔の現象学』です。
1章だけでも充分2時間かかる本ですので、 どうしても本の内容の紹介に時間がかかります。
だから参加者の皆さんからあまりお話をうかがえなかったのでは、 もっと対話の時間をとれなかったのかと、 終わってからいろいろと反省です。
次回はもう少し皆さんからのお話を出して頂けるように時間配分を 考えたいと思います。
ところでつくづくそう思ったのは今回出てきた意見のどれもが私に とって面白く、考えが深まるきっかけになったからです。
テツドクは準備が大変ですが、 その分今回のように参加者の皆さんから考えるヒントが沢山飛び交 うと私自身が嬉しくなりそして元気になります。
だから次回もできるだけの準備をして、 当日楽しるようにしておきたいと思います。 宜しければ引き続きの、 そしてはじめてのご参加をお待ちしています。
(玉地雅浩)
*
次回開催についての詳細は、こちらをご覧ください。
私もスタッフとして参加させていただいていますが、玉地さんから次々に繰り出される例と、みなさんのやりとりが刺激的で、やはり一人で読むのとはちがう楽しさがたくさんありました。
前回発見したけれど、まだまだ納得のいく答えまではたどりついていない問いもあります。
引き続きみなさんと一緒に「〈顔〉という現象」について考えるのを楽しみにしています。
(まつかわの感想はこちら)
2014/08/07
9/3 テツドク!鷲田清一『顔の現象学』
おはようございます、まつかわです。
バタバタしていて、全然更新できずにごめんなさい。
報告もいろいろたまっていますね・・・。
とりいそぎ、告知だけ。
9月3日にさする庵にて、テツドク!を開催いたします。
理学療法の先生である玉地雅浩さんと、鷲田清一『顔の現象学』を読みます。
しかも、3回にわたってじっくりと!
テツドク!(哲読)鷲田清一『顔の現象学』(1)
今回は3回連続のうちの1回目。
追って、2回目、3回目の日程もお知らせします。
お近くの方は、ぜひふるってご参加ください。
バタバタしていて、全然更新できずにごめんなさい。
報告もいろいろたまっていますね・・・。
とりいそぎ、告知だけ。
9月3日にさする庵にて、テツドク!を開催いたします。
理学療法の先生である玉地雅浩さんと、鷲田清一『顔の現象学』を読みます。
しかも、3回にわたってじっくりと!
テツドク!(哲読)鷲田清一『顔の現象学』(1)
今回は3回連続のうちの1回目。
追って、2回目、3回目の日程もお知らせします。
お近くの方は、ぜひふるってご参加ください。
2014/03/25
アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を読む〜凡庸な悪と無思考性〜
こんにちは、まつかわです。
昨日3月24日は、久しぶりのテツドク!(哲読)。
一人の思想家の思想と言葉をどっぷり味わう2時間でした。
今回、ハンナ・アーレントを選んだのは、映画『ハンナ・アーレント』の公開に便乗してというのもあるのですが、実は私の個人的な希望でもありました。
私がアーレントの文章を初めて読んだのは、大学受験で現代国語の課題文でした。
試験中なのに、そんなことも忘れるぐらい夢中で読んで、受験が終わったあとすぐその『人間の条件』を買いました。自分で購入した最初の哲学書(?)だったかもしれません。
大学院時代に、先輩である三浦さんの研究発表をきいて再び関心をもち、その後もずっと気になる思想家だったのですが、なかなかじっくり学ぶ機会がなく・・・
今回映画のこと、それから三浦さんが別件で大阪に来ることを知り、この機会を逃すわけにはいかないと企画させていただきました。
当日は、
という流れですすみました。
特に議論が紛糾した論点が2つありました。
ひとつめは、「アイヒマンに対するアーレントの『凡庸な悪』という評価は、当たり前のことを言ってるようにも思えるが、アーレントのすごさはどこにあるのか?」という点。
現代の私たちがきくとごくごく一般的な考え方のように思えるが、アーレントがこの文章を書いた時代にこれを書いたことがすごかったのか。それとも、現代の私たちの社会について考えるうえでも意義深い示唆がそこにあるのか。
もうひとつは、三浦さんが参考としてひっぱってきたある事件(どんな事件かは、東京のテツドク!のネタバレになるといけないので伏せておきます)と、アイヒマンが行ったことを、同じ土壌で論じることができるかどうかいう点。
アイヒマンの行為は戦争という特殊な状況だからこそ「凡庸な悪」と言えるのであって、あの事件のあの行為は「凡庸な悪」とは言えないのか。
それとも、あの事件のあの行為もまた、「無思想性(無思考性)」を強制することによって成り立つある組織(社会)が引き起こした「凡庸な悪」であり、それは私たちの身近な組織でも起こっているのか。
白熱した議論が繰り広げられ、「凡庸な悪」の存在を認めることの難しさ、悪が自分のなかにもあるかもしれないと認めることの難しさ、「悪は自分の外にある」という無思考性への誘惑の抗い難さについて考えさせられました。
他に、三浦さんは「今回はそこがメインではないので」とおしゃっていましたが、アーレントが『全体主義の起源』で論じた「全体主義」と『イェルサレムのアイヒマン』における「凡庸な悪」という概念との関係についても、個人的には興味深く、目から鱗が落ちる思いでみなさんの議論を楽しませていただきました。
名古屋からきてくださった三浦さん、さする庵の秋田さん、そして参加者のみなさん、本当にありがとうございました。
テツドク!を発案された桑原さんから引き継いで初めてのコーディネーターということで、たどたどしく、不手際な点もあったかと思います。申し訳ありませんでした。
次回から、資料は多めに用意すること!を肝に命じたいと思います。
三浦さんが解説のなかで紹介されていた他のアーレントの著作も読んでみたくなったので、また、いつか続編を企画するかもしれません。
そのときは、ぜひまた一緒に(今度は「全体主義」についてもじっくり?)、哲学書と対話を通じた思考を展開しましょう。
昨日3月24日は、久しぶりのテツドク!(哲読)。
一人の思想家の思想と言葉をどっぷり味わう2時間でした。
今回、ハンナ・アーレントを選んだのは、映画『ハンナ・アーレント』の公開に便乗してというのもあるのですが、実は私の個人的な希望でもありました。
私がアーレントの文章を初めて読んだのは、大学受験で現代国語の課題文でした。
試験中なのに、そんなことも忘れるぐらい夢中で読んで、受験が終わったあとすぐその『人間の条件』を買いました。自分で購入した最初の哲学書(?)だったかもしれません。
大学院時代に、先輩である三浦さんの研究発表をきいて再び関心をもち、その後もずっと気になる思想家だったのですが、なかなかじっくり学ぶ機会がなく・・・
今回映画のこと、それから三浦さんが別件で大阪に来ることを知り、この機会を逃すわけにはいかないと企画させていただきました。
当日は、
- 三浦さんによる『イェルサレムのアイヒマン』の背景とアーレントの思想の解説
- 三浦さんがB4一枚にまとめてくださった抜粋を読む
- ときおり三浦さんが解説をはさみつつ、参加者も交えて対話
という流れですすみました。
特に議論が紛糾した論点が2つありました。
ひとつめは、「アイヒマンに対するアーレントの『凡庸な悪』という評価は、当たり前のことを言ってるようにも思えるが、アーレントのすごさはどこにあるのか?」という点。
現代の私たちがきくとごくごく一般的な考え方のように思えるが、アーレントがこの文章を書いた時代にこれを書いたことがすごかったのか。それとも、現代の私たちの社会について考えるうえでも意義深い示唆がそこにあるのか。
もうひとつは、三浦さんが参考としてひっぱってきたある事件(どんな事件かは、東京のテツドク!のネタバレになるといけないので伏せておきます)と、アイヒマンが行ったことを、同じ土壌で論じることができるかどうかいう点。
アイヒマンの行為は戦争という特殊な状況だからこそ「凡庸な悪」と言えるのであって、あの事件のあの行為は「凡庸な悪」とは言えないのか。
それとも、あの事件のあの行為もまた、「無思想性(無思考性)」を強制することによって成り立つある組織(社会)が引き起こした「凡庸な悪」であり、それは私たちの身近な組織でも起こっているのか。
白熱した議論が繰り広げられ、「凡庸な悪」の存在を認めることの難しさ、悪が自分のなかにもあるかもしれないと認めることの難しさ、「悪は自分の外にある」という無思考性への誘惑の抗い難さについて考えさせられました。
他に、三浦さんは「今回はそこがメインではないので」とおしゃっていましたが、アーレントが『全体主義の起源』で論じた「全体主義」と『イェルサレムのアイヒマン』における「凡庸な悪」という概念との関係についても、個人的には興味深く、目から鱗が落ちる思いでみなさんの議論を楽しませていただきました。
名古屋からきてくださった三浦さん、さする庵の秋田さん、そして参加者のみなさん、本当にありがとうございました。
テツドク!を発案された桑原さんから引き継いで初めてのコーディネーターということで、たどたどしく、不手際な点もあったかと思います。申し訳ありませんでした。
次回から、資料は多めに用意すること!を肝に命じたいと思います。
三浦さんが解説のなかで紹介されていた他のアーレントの著作も読んでみたくなったので、また、いつか続編を企画するかもしれません。
そのときは、ぜひまた一緒に(今度は「全体主義」についてもじっくり?)、哲学書と対話を通じた思考を展開しましょう。
2013/12/18
“差別”とはなにか
こんにちは、まつかわです。
昨日12月17日はさする庵にて、「対話する哲学教室」を開催しました。
定員いっぱいの15名の方が参加され、『中学生からの対話する哲学教室』第9章を参考に、「“差別”とはなにか」について考えました。
前半は、公民権運動の指導者マルコムXの自伝を読んで、後半はコーネル・ウェストの「積極的差別是正措置」とジョン・ロールズの「無知のヴェール」および「格差原理」の考えについて、意見を交わしました。
特に以下2点で、意見や考える方向性が分かれましたね。
寒いなかご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
今回は残念ながら体調不良で参加できなかった方、お大事に。次回のご参加をお待ちしております。
昨日12月17日はさする庵にて、「対話する哲学教室」を開催しました。
定員いっぱいの15名の方が参加され、『中学生からの対話する哲学教室』第9章を参考に、「“差別”とはなにか」について考えました。
前半は、公民権運動の指導者マルコムXの自伝を読んで、後半はコーネル・ウェストの「積極的差別是正措置」とジョン・ロールズの「無知のヴェール」および「格差原理」の考えについて、意見を交わしました。
特に以下2点で、意見や考える方向性が分かれましたね。
- 自覚がなければ差別ではないのか、それとも差別は常に無自覚に行われるものなのか。
- ある言動が差別的かどうかはそのときの社会的状況を考慮して判断すべきか、それともいったん現状を忘れてあるべき理想の社会から考えるべきか。
もともとアメリカの教科書なので、黒人差別という私たちにとってはちょっと縁遠い問題でしたが、「これは、現代の日本社会でいうとどういう状況なのだろう?」と考える際には、みなさんの経験が役に立ちました。
私にとっては、女性差別についての男性の発言も、新鮮で考えさせられるものでした。
前にも書いたように、このテキストでこの章だけ対話篇ではなく自伝が採用された背景には、“差別”という問題について、差別する側とされる側が立場を超えて対等に対話することの難しいという事情があるのではと私は考えています。
哲学カフェもそうですが、この哲学教室もまた、立場の異なる人々が対等に話し合い共に考えられるような社会づくりに少しでも貢献できればと願っています。
寒いなかご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
今回は残念ながら体調不良で参加できなかった方、お大事に。次回のご参加をお待ちしております。
2013/12/15
17(火)は哲学教室「“差別”とはなにか」
こんにちは、まつかわです。
今週17日(火)は、さする庵にて対話する哲学教室です。
テーマは「“差別”とはなにか」。
お申し込みをお忘れの方は、お急ぎを!
詳細は、こちらをご覧ください。
いよいよ対話する哲学教室も6回目となりました。
テキストの『中学生からの対話する哲学教室』もめでたく重版!だそうです。
この哲学教室だけでなく、学校や塾などいろんな場所でテキストとして使用されているようです。うれしい。
毎回、前半はテキストの各章の冒頭にある対話篇について話し合いますが、今回の章は対話篇の代わりにマルコムXの自伝が掲載されています。
それだけ、差別する側と差別される側との「対話」は難しいということでしょうか。
テキストに対話篇がないぶん、17日の哲学教室でどんな対話が展開されるのか、楽しみです。
ときどき哲学カフェででてくる「逆差別」に関するアメリカでの議論や、ロールズの「無知のヴェール」という考え方についてもご紹介しますので、意見を交わしながら一緒に考えましょう。
今週17日(火)は、さする庵にて対話する哲学教室です。
テーマは「“差別”とはなにか」。
お申し込みをお忘れの方は、お急ぎを!
詳細は、こちらをご覧ください。
いよいよ対話する哲学教室も6回目となりました。
テキストの『中学生からの対話する哲学教室』もめでたく重版!だそうです。
この哲学教室だけでなく、学校や塾などいろんな場所でテキストとして使用されているようです。うれしい。
毎回、前半はテキストの各章の冒頭にある対話篇について話し合いますが、今回の章は対話篇の代わりにマルコムXの自伝が掲載されています。
それだけ、差別する側と差別される側との「対話」は難しいということでしょうか。
テキストに対話篇がないぶん、17日の哲学教室でどんな対話が展開されるのか、楽しみです。
ときどき哲学カフェででてくる「逆差別」に関するアメリカでの議論や、ロールズの「無知のヴェール」という考え方についてもご紹介しますので、意見を交わしながら一緒に考えましょう。
2013/09/10
政府がなかったらどうなってしまうのか?〜後半
こんにちは、まつかわです。
対話する哲学教室「政府がなかったらどうなってしまうのか?」の報告、後半です。
対話する哲学教室「政府がなかったらどうなってしまうのか?」の報告、後半です。
テキストの対話を読んで述べた後は、、ホッブズとロックの思想をご紹介しました。
「これまでは、毎回正反対のようにみえる思想家だったのに、今回はどちらも社会契約論。ということで、「二人の思想のちがいは?」「社会契約論の反対の思想はなんですか?」といった質問がでました。
私はどちらかというとロックの個人を尊重する思想にシンパシーを感じていたのですが、ホッブズの『リヴァイアサン』を改めて読むと、ホッブズが「共通の絶対的な権力」の必要性を説く気持ちも少しわかるような・・・。たとえば、こんな文章。
「すなわち、人間の本性には競争、第二は不信、第三は自負である。
第一の競争は、人々が獲物を得るために、第二の不信は安全を、第三の自負は名声を求めて、いずれも侵略を行なわせる。
第一は、他人の人格、妻、子ども、家畜の主人となるために、第二は自分を防衛するために、いずれも暴力を用いさせる。第三は一語、一笑、意見の相違、その他過小評価のしるしになる瑣末(さまつ)事に関して、それらが直接自己の人格に向けられたか、間接に自己の親戚、友人、国民、職業あるいは名称に向けられたかを問わず、やはり暴力を用いさせる。
社会状態の外では、各人の各人にたいする戦争状態は常に存在する。以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。」
学生のころは全く共感しなかったのに。人間のなかに巣食う、競争や不信や自負の根深さや恐ろしさがわかる大人になったということでしょうか。
もうひとつおもしろかったのは、政治と宗教の関係が、無視できない重要な論点として浮かび上がってきたことです。
社会契約論の反対の思想として、受講者からいくつか案があがったなかに「王権神授説」がありました。しかし、ホッブズの生きた時代は清教徒革命(ピューリタン革命)の時代。王権神授説では限界がありそうです。
そこから、政治と宗教を切り離すことの難しさや、現代日本の私たちの政治状況と信仰との関係についても意見を交わすことができました。
大学で思想史の授業を受けているときはピンとこなかった思想、単に「過去にあった事柄」と捉えていた歴史的事実が、哲学教室ではとても生き生きと感じられます。
受講者のみなさんが、豊富な経験や現代の社会状況を折り込みながら話されるからでしょうね。
テキストのタイトルは『中学生から〜』ですが、さする庵では、大人ならではの哲学教室を楽しんでいます。
次回の「対話する哲学教室」は10月29日。
テーマは「アートの目的とはなにか」です。
詳細は、追ってHP、メールマガジンにてお知らせします。
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2013/09/06
政府がなかったらどうなってしまうのか?〜前半
こんにちは、まつかわです。
8月27日、さする庵にて「対話する哲学教室」を開催しました。
第4回目となる今回のテーマは、「政府がなかったらどうなってしまうのか」(第12章)。
政治系のテーマのせいか、夏だからか、申込の出足はいつもより遅め。
でも、最終的には13名とちょうどよい人数の参加者が集まり、ほっとしました。
前半はいつもどおり、テキストの章の冒頭にある対話を読んで、みんなで議論。
今回は、貧しい学生に対するバス運賃の補助金が打ち切られそうになり、補助金が復活するまでバスチケットを買わないよう人々に訴える活動をする隆史と優香の対話でした。
(テキストをお持ちの方は、110〜111ページをどうぞ。)
なかでも批判が集中したのが、隆史のこのセリフ。
改めて、よくもこんなに意見の分かれるツッコミどころを織り込めるなぁと感心しつつ・・・
特に下線を引いた箇所について、反対派と擁護派が持論を展開します。
「理由があるからって、法律を破っていいんか?」という意見と、「でも、正攻法でどうにもならない状況、やむをえない状況っていうのはある」という意見。
「テレビのレポーターに興味をもたせるためにっていうのはちがうと思う」という意見と、「世論を動かすためには、合理的な方法だ」という意見。
このふたつは、「政治とは何か?」をめぐる問題ですね。
通常の投票による政治で解決できない問題があるとき、どうするか?
これは、マイノリティの問題を考えるうえでも重要です。
それから、もちろん、「窓を叩き割るべき」という隆史に対して、「他はともかく、暴力だけは絶対ダメ」という声があちこちあらあがりました。
こちらは、「暴力とは何か?」「迷惑をかけるとはどういうことか?」という、基本的な社会生活や共生に関わる論点に関わりますね。
窓を叩き割るのは確かに暴力的な行為と言えそうですが、常々、「何が暴力で何が迷惑かの線引きは難しいな」と感じている私は、こんな質問をみなさんに投げかけてみました。
長くなったので、続きはまた次回にします。
8月27日、さする庵にて「対話する哲学教室」を開催しました。
第4回目となる今回のテーマは、「政府がなかったらどうなってしまうのか」(第12章)。
政治系のテーマのせいか、夏だからか、申込の出足はいつもより遅め。
でも、最終的には13名とちょうどよい人数の参加者が集まり、ほっとしました。
![]() |
| みなさんの意見をききながら、なにやら考え込む私。 |
前半はいつもどおり、テキストの章の冒頭にある対話を読んで、みんなで議論。
今回は、貧しい学生に対するバス運賃の補助金が打ち切られそうになり、補助金が復活するまでバスチケットを買わないよう人々に訴える活動をする隆史と優香の対話でした。
(テキストをお持ちの方は、110〜111ページをどうぞ。)
なかでも批判が集中したのが、隆史のこのセリフ。
「でも優香、アメリカやドイツでは、市民の不服従は憲法で認められているんだよ。法律を破るっていっても、ちゃんとした理由があるんだ。じつをいうとぼくは、「これで十分だ」なんて思っていない。テレビのレポーターに興味をもたせるためには、窓を何枚か叩き割るべきなのかもしれない。さぁ、やっちゃおうぜ!」(『中学生からの対話する哲学教室』P.110)
改めて、よくもこんなに意見の分かれるツッコミどころを織り込めるなぁと感心しつつ・・・
特に下線を引いた箇所について、反対派と擁護派が持論を展開します。
「理由があるからって、法律を破っていいんか?」という意見と、「でも、正攻法でどうにもならない状況、やむをえない状況っていうのはある」という意見。
「テレビのレポーターに興味をもたせるためにっていうのはちがうと思う」という意見と、「世論を動かすためには、合理的な方法だ」という意見。
このふたつは、「政治とは何か?」をめぐる問題ですね。
通常の投票による政治で解決できない問題があるとき、どうするか?
これは、マイノリティの問題を考えるうえでも重要です。
それから、もちろん、「窓を叩き割るべき」という隆史に対して、「他はともかく、暴力だけは絶対ダメ」という声があちこちあらあがりました。
こちらは、「暴力とは何か?」「迷惑をかけるとはどういうことか?」という、基本的な社会生活や共生に関わる論点に関わりますね。
窓を叩き割るのは確かに暴力的な行為と言えそうですが、常々、「何が暴力で何が迷惑かの線引きは難しいな」と感じている私は、こんな質問をみなさんに投げかけてみました。
「みなさんが通勤に使っているバスあるいは電車で、学割が打ち切られることになったとします。隆史や優香のような学割復活を訴える運動家に、『学割が復活するまでそのバス(電車)を使わないで』とお願いされたら、みなさんはそのとおりにしますか?」みなさんなら、この質問にどう答えるでしょう?
長くなったので、続きはまた次回にします。
2013/07/05
対話する哲学教室「生きる意味とはなにか」2
こんにちは、まつかわです。
あいだにドゥミ博士の紹介をはさんでしまいましたが・・・哲学教室の報告のつづきです。
「人には運命がある。人生とは少しずつ自分の運命を発見していくもの」と考える遥と、「人生は発明。生きながら自分でつくりあげるもの」という秋子(テキスト129~130ページ)のダイアローグを読んで始まった、6月30日の哲学教室。
遥派、秋子派、そのあいだ派・・・と、意見が見事に分かれる受講者のみなさん。あいだ派のみなさんにも意見をきいていくと、一人ひとり意見がちがうようです。
本題とは全く関係ないけれど、遥が父親と暮らしはじめてからずっと会ってなかった姉妹っていうこの設定、日本の教科書ではなかなかないよなぁ・・・と翻訳時からこの章を読む度に思ってしまう私。
ここでちょっとした論争を招いたのは、ある女性のこんな言葉。
すぐさま、
哲学カフェもそうだけど、こういう疑問は大歓迎。
考えを深めるきっかけになるので、私は「思考のスパイス」って読んでいます。
よくよく聞いてみると、質問した方は「変えられないからこそ『運命』って言うんだ」という立場。それに対して、さきほどの女性は「運命」を生き方のようなものと考えている様子。最初に「『運命』はあると思う」とおっしゃっていたので、途中まで遥と同じ考えかと思ってきいていたのですが、どうもそうではなさそうです。
いくら議論をしても言葉のすれ違いで終わっては不毛なので、「『運命』は『宿命』とちがって変えられると思う人も、変えられないものを『運命』って思うんだという人も、単に言葉の定義を主張するだけでなく、その奥で自分が大切にしている考えは何か、自分に問いかけてみて」と促しました。
さらに、step.2でトマス・アクィナスとサルトルの思想を紹介すると、次々とリアルな感想が飛び出しました。
そして、さする庵の秋田さんからも「『天職』はあると思う?」と、絶妙な問いかけ。
アクィナスが主張する神の存在についてはしっくりこなかった方も、「それならあるかも?」「でも、これが天職だって、誰がどのタイミングで判断するの?」と頭を悩ませます。
私は、「哲学とは思考の地図を描くこと」と思っているのですが、哲学者の思想はいわばその地図のなかの大通り。何度もたくさんの人がそこを通って考えてきた道。でも、その大通りだけを歩いていても見えないことがあります。
哲学者の思想に違和感を抱いてそこから自分の思考を紡ぎだすことは、みんなが知ってる大通りから一歩踏みだして裏道を自分で開拓することに似ているかもしれません。
今回、とりわけ私がハッとさせられたのは、終盤になって出てきたこんな言葉でした。
この言葉には、「運命はある」という大通りを裏道からふりかえってみるような、新たな視点が含まれていました。
それから私も、小さな自分の視点から、大通りに思いを馳せてみることにしました。
ひたすら「神」について考えたアクィナスは「偶然」についてどう考えていたのか。
サルトルが「人間は自由という刑に処されている」という思想を「選択した」とき、どんな気持ちだったのか。etc...
哲学者の思想を道標にしつつ、それに対する違和感と向き合う時間。
哲学史を丸暗記してわかったふりをするのは簡単だけど、それじゃ「哲学する」ことはできません。
モヤっとする違和感を言葉にするのは大変だけど、一人ひとりの経験に基づいたリアルな思考が生まれる瞬間に立ち会うのは、何度体験しても感動します。
さて、次回の対話する哲学教室は、2ヶ月後。
8月27日(火)に開催の予定です。
どんなテーマで、どんな哲学者がとりあげられるかは、今月発行予定のメルマガ8月号をお待ちください。
せっかくテキストとは異なる順番で進めているので、できれば少しでも時事的なテーマをと考えています。
テキストをお持ちの方は、まつかわがどんなテーマを選ぶのか予想してみてくださいね。
あいだにドゥミ博士の紹介をはさんでしまいましたが・・・哲学教室の報告のつづきです。
「人には運命がある。人生とは少しずつ自分の運命を発見していくもの」と考える遥と、「人生は発明。生きながら自分でつくりあげるもの」という秋子(テキスト129~130ページ)のダイアローグを読んで始まった、6月30日の哲学教室。
遥派、秋子派、そのあいだ派・・・と、意見が見事に分かれる受講者のみなさん。あいだ派のみなさんにも意見をきいていくと、一人ひとり意見がちがうようです。
本題とは全く関係ないけれど、遥が父親と暮らしはじめてからずっと会ってなかった姉妹っていうこの設定、日本の教科書ではなかなかないよなぁ・・・と翻訳時からこの章を読む度に思ってしまう私。
ここでちょっとした論争を招いたのは、ある女性のこんな言葉。
「どうしても変えられない『宿命』はあるとおもうけど、『運命』は変えられると思う」
すぐさま、
「『運命』と『宿命』はどうちがうの?」と他の方から疑問が飛び交います。
「『運命』が変えられるってどういうこと?」
「変えられるならそれは『運命』とは言わないのでは?」
哲学カフェもそうだけど、こういう疑問は大歓迎。
考えを深めるきっかけになるので、私は「思考のスパイス」って読んでいます。
よくよく聞いてみると、質問した方は「変えられないからこそ『運命』って言うんだ」という立場。それに対して、さきほどの女性は「運命」を生き方のようなものと考えている様子。最初に「『運命』はあると思う」とおっしゃっていたので、途中まで遥と同じ考えかと思ってきいていたのですが、どうもそうではなさそうです。
いくら議論をしても言葉のすれ違いで終わっては不毛なので、「『運命』は『宿命』とちがって変えられると思う人も、変えられないものを『運命』って思うんだという人も、単に言葉の定義を主張するだけでなく、その奥で自分が大切にしている考えは何か、自分に問いかけてみて」と促しました。
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| みなさん、うーんと唸りながら対話に集中。 |
さらに、step.2でトマス・アクィナスとサルトルの思想を紹介すると、次々とリアルな感想が飛び出しました。
「変えられないものはあると思うけど、(アクィナスが言うような)神様の存在というのはしっくりこない」
「運命って、DNAのことだと考えたらよいのでは?」
「自分の人生は自分自身でつくっていくっていうサルトルの考え方、嫌いじゃないけれど、弱ってるときはキツイ」
(災害や障害などを例に出しながら)「アクィナスのいう神とはちがうかもしれないけれど、なんで俺がこんな目に・・・と運命のせいにしたくなることはある」
そして、さする庵の秋田さんからも「『天職』はあると思う?」と、絶妙な問いかけ。
アクィナスが主張する神の存在についてはしっくりこなかった方も、「それならあるかも?」「でも、これが天職だって、誰がどのタイミングで判断するの?」と頭を悩ませます。
私は、「哲学とは思考の地図を描くこと」と思っているのですが、哲学者の思想はいわばその地図のなかの大通り。何度もたくさんの人がそこを通って考えてきた道。でも、その大通りだけを歩いていても見えないことがあります。
哲学者の思想に違和感を抱いてそこから自分の思考を紡ぎだすことは、みんなが知ってる大通りから一歩踏みだして裏道を自分で開拓することに似ているかもしれません。
今回、とりわけ私がハッとさせられたのは、終盤になって出てきたこんな言葉でした。
「私が『運命』と思っていたものは、単なる『偶然』だったかもしれない」ちょうど私もみなさんのやりとりを聞きながら、「運命」、「宿命」、「神」、「天職」・・・理由のわからないなにかを説明するために、人間は色んなものを発明してきたんだなぁ、と感じていたところでした。
この言葉には、「運命はある」という大通りを裏道からふりかえってみるような、新たな視点が含まれていました。
それから私も、小さな自分の視点から、大通りに思いを馳せてみることにしました。
ひたすら「神」について考えたアクィナスは「偶然」についてどう考えていたのか。
サルトルが「人間は自由という刑に処されている」という思想を「選択した」とき、どんな気持ちだったのか。etc...
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| ちなみに、私の頭のなかの地図はこんな感じ。 ・・・とっちらかってます。 |
哲学者の思想を道標にしつつ、それに対する違和感と向き合う時間。
哲学史を丸暗記してわかったふりをするのは簡単だけど、それじゃ「哲学する」ことはできません。
モヤっとする違和感を言葉にするのは大変だけど、一人ひとりの経験に基づいたリアルな思考が生まれる瞬間に立ち会うのは、何度体験しても感動します。
さて、次回の対話する哲学教室は、2ヶ月後。
8月27日(火)に開催の予定です。
どんなテーマで、どんな哲学者がとりあげられるかは、今月発行予定のメルマガ8月号をお待ちください。
せっかくテキストとは異なる順番で進めているので、できれば少しでも時事的なテーマをと考えています。
テキストをお持ちの方は、まつかわがどんなテーマを選ぶのか予想してみてくださいね。
2013/07/02
対話する哲学教室「生きる意味とはなにか」1
こんにちは、まつかわです。
今日は、ちょうど1週間前の6月25日にあった哲学教室のご報告をしましょう。
『中学生からの対話する哲学教室』というテキストをきっかけに始まったこの企画も3回目。開始当初は「とりあえず3回やってみよう」でしたが、おかげさまで受講者にも恵まれ、毎回濃密な議論が繰り広げれています。
基本的に大事にしていることは、哲学カフェと同じです。
一人ひとりの声に耳を傾け、言葉になりきらないモヤモヤと格闘し、結論を急がず、対話を通して考えることを楽しむ。そして、少しでも明日の自分の暮らしに関わる何か、「役立つ」ってわけじゃないけれど、自分や他者に向き合えるような何かを持って帰っていただけるといいな、と思っています。
でも、哲学カフェと異なることもあります。
まず、ひとつめは、その日のテーマについて意見の異なる二人のダイアローグを読むこと。
哲学カフェでは、複数の体験や例を比較することによって考えるヒントになることがあります。しかし、それは、あの人は家族を想定して話しているのに、こちらの人は職場の場合を想定して・・・と議論がすれ違うリスクにもなります。
また、全員にわかりやすい例を出すのはなかなか難しく、それを探すのにけっこう時間を食ってしまうことがあります。いや、それはそれで宝探しのようで楽しい時間ではあるのですが・・・
この哲学教室では、テキストの各章の冒頭に掲載されているダイアローグを共通の参照点とすることによって、そういうすれ違いが起こりにくくなります。
もちろん、「たしかにこの場合はこうだけど、こういう場合はこうじゃない?」と受講者の方から別の例(反例)が出されて大きなヒントになることもあり。でも、一つのわかりやすい例が用意されていると、出発点がぶれないという利点がありますね。
しかも、一つの事柄について立場の異なる二人の(極端な)意見が示されるダイアローグ形式。
第14章「生きる意味とはなにか」を取り上げた今回の場合は、「人には運命がある。人生とは少しずつ自分の運命を発見していくもの」と考える遥と、「人生は発明。生きながら自分でつくりあげるもの」という秋子(テキストのお持ちの方は、129~130ページを参照してください)。
自分の考えはどちらに近いかと話し合うことによって、参加者の「体験」のほうではなく、一人ひとりの「考えの違い」というのがくっきり浮かびあがります。
誰か一人ぐらいは、遥と同じ考えの人、秋子と同じ考えの人がいるかと思ったのですが、今回は全くいませんでしたね。
参照する考えがあることによって、より細かく一人ひとりの意見のちがいを確認できるおかげかもしれません。
15人いれば15様のツッコミ(=見方)があるものだなぁ、と毎回感心しております。
そして、もうひとつ、哲学カフェとの大きなちがいは、哲学者の思想を参考にすること。
step1でダイアローグについてひとしきり議論したら、今度はテキストをもとに私から二人の哲学者の思想を紹介します。そして、再び哲学者の思想を参考に、再びテーマついて全員で議論します。
・・・と、ここで6月25日の回の報告をしようとして、「対話する哲学教室」シリーズの紹介&感想になってしまっていることに気づきました。(1、2回目報告をさぼっていたツケで?)
長くなるので、続きは別便で。
「テキストタイトルは『中学生からの』だけど、大人がやっても絶対面白いはず!」という思惑どおり。みなさん、経験豊富な大人ならではのリアルな視点から、哲学者の思想にツッコミをいれる様子をご紹介します。
今日は、ちょうど1週間前の6月25日にあった哲学教室のご報告をしましょう。
『中学生からの対話する哲学教室』というテキストをきっかけに始まったこの企画も3回目。開始当初は「とりあえず3回やってみよう」でしたが、おかげさまで受講者にも恵まれ、毎回濃密な議論が繰り広げれています。
基本的に大事にしていることは、哲学カフェと同じです。
一人ひとりの声に耳を傾け、言葉になりきらないモヤモヤと格闘し、結論を急がず、対話を通して考えることを楽しむ。そして、少しでも明日の自分の暮らしに関わる何か、「役立つ」ってわけじゃないけれど、自分や他者に向き合えるような何かを持って帰っていただけるといいな、と思っています。
でも、哲学カフェと異なることもあります。
まず、ひとつめは、その日のテーマについて意見の異なる二人のダイアローグを読むこと。
哲学カフェでは、複数の体験や例を比較することによって考えるヒントになることがあります。しかし、それは、あの人は家族を想定して話しているのに、こちらの人は職場の場合を想定して・・・と議論がすれ違うリスクにもなります。
また、全員にわかりやすい例を出すのはなかなか難しく、それを探すのにけっこう時間を食ってしまうことがあります。いや、それはそれで宝探しのようで楽しい時間ではあるのですが・・・
この哲学教室では、テキストの各章の冒頭に掲載されているダイアローグを共通の参照点とすることによって、そういうすれ違いが起こりにくくなります。
もちろん、「たしかにこの場合はこうだけど、こういう場合はこうじゃない?」と受講者の方から別の例(反例)が出されて大きなヒントになることもあり。でも、一つのわかりやすい例が用意されていると、出発点がぶれないという利点がありますね。
しかも、一つの事柄について立場の異なる二人の(極端な)意見が示されるダイアローグ形式。
第14章「生きる意味とはなにか」を取り上げた今回の場合は、「人には運命がある。人生とは少しずつ自分の運命を発見していくもの」と考える遥と、「人生は発明。生きながら自分でつくりあげるもの」という秋子(テキストのお持ちの方は、129~130ページを参照してください)。
自分の考えはどちらに近いかと話し合うことによって、参加者の「体験」のほうではなく、一人ひとりの「考えの違い」というのがくっきり浮かびあがります。
誰か一人ぐらいは、遥と同じ考えの人、秋子と同じ考えの人がいるかと思ったのですが、今回は全くいませんでしたね。
参照する考えがあることによって、より細かく一人ひとりの意見のちがいを確認できるおかげかもしれません。
15人いれば15様のツッコミ(=見方)があるものだなぁ、と毎回感心しております。
そして、もうひとつ、哲学カフェとの大きなちがいは、哲学者の思想を参考にすること。
step1でダイアローグについてひとしきり議論したら、今度はテキストをもとに私から二人の哲学者の思想を紹介します。そして、再び哲学者の思想を参考に、再びテーマついて全員で議論します。
・・・と、ここで6月25日の回の報告をしようとして、「対話する哲学教室」シリーズの紹介&感想になってしまっていることに気づきました。(1、2回目報告をさぼっていたツケで?)
長くなるので、続きは別便で。
「テキストタイトルは『中学生からの』だけど、大人がやっても絶対面白いはず!」という思惑どおり。みなさん、経験豊富な大人ならではのリアルな視点から、哲学者の思想にツッコミをいれる様子をご紹介します。
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| テキスト、ご希望の方には会場で販売しています。 ちょびっと著者割あり。 |
2013/01/25
2/16 エンディングノートを完成させよう会@さする庵
こんにちは、まつかわです。
今度「対話する哲学教室」を開催するさする庵で、「エンディングノートを完成させよう会」が開かれるそうです。
以前、中之島哲学コレージュでリビングウィルを取り上げたとき、「家族のためにもリビングウィルやエンディングノートを書いておけたらいいけれど、きっかけがないとなかなか・・・」という声が多かったのでご紹介させていただきます。
2月16日 エンディングノートを完成させよう会
☞詳細はこちら
ワークシートやアドバイザー付きというのもありがたいけれど、個人的なおすすめポイントは、あのあたたかみを感じられる心落ち着く空間です。自分の人生に思いめぐらすのにぴったりな場所だと思います。
ご関心のある方はぜひチェックしてみてください。
今度「対話する哲学教室」を開催するさする庵で、「エンディングノートを完成させよう会」が開かれるそうです。
以前、中之島哲学コレージュでリビングウィルを取り上げたとき、「家族のためにもリビングウィルやエンディングノートを書いておけたらいいけれど、きっかけがないとなかなか・・・」という声が多かったのでご紹介させていただきます。
2月16日 エンディングノートを完成させよう会
☞詳細はこちら
ワークシートやアドバイザー付きというのもありがたいけれど、個人的なおすすめポイントは、あのあたたかみを感じられる心落ち着く空間です。自分の人生に思いめぐらすのにぴったりな場所だと思います。
ご関心のある方はぜひチェックしてみてください。
2013/01/23
「対話する哲学教室」、残席わずか!
こんにちは、まつかわです。
さする庵とのコラボ企画「対話する哲学教室」、おかげさまで残席わずかだそうです。
お申し込みくださったみなさん、ありがとうございます。
参加希望でまだ申込されてない方、お申し込みはお早めに。
昨日、神戸で哲学カフェをしたあと、さする庵にて打ち合わせをしてきました。
この新シリーズ、何回かやってみて好評なら続けましょうということになっております。とりあえず、参加希望者が少なすぎて1回で打ち切りということはなさそうで、ほっとしました。
テキストになっている『中学生からの対話する哲学教室』、もともと教科書なので、タイトルには「中学生からの」とついてますが、あくまで「からの」です。大人が使っても絶対おもしろいはず。特に第1回(=第1章)の「"愛”とはなにか」は、参加者から経験に基づく深みのある意見が飛び出すのではと期待しています。
哲学者の思想を学びつつ、対話をとおして参加者のみなさん自身が「哲学者になる」教室を目指します。
さする庵とのコラボ企画「対話する哲学教室」、おかげさまで残席わずかだそうです。
お申し込みくださったみなさん、ありがとうございます。
参加希望でまだ申込されてない方、お申し込みはお早めに。
昨日、神戸で哲学カフェをしたあと、さする庵にて打ち合わせをしてきました。
この新シリーズ、何回かやってみて好評なら続けましょうということになっております。とりあえず、参加希望者が少なすぎて1回で打ち切りということはなさそうで、ほっとしました。
テキストになっている『中学生からの対話する哲学教室』、もともと教科書なので、タイトルには「中学生からの」とついてますが、あくまで「からの」です。大人が使っても絶対おもしろいはず。特に第1回(=第1章)の「"愛”とはなにか」は、参加者から経験に基づく深みのある意見が飛び出すのではと期待しています。
哲学者の思想を学びつつ、対話をとおして参加者のみなさん自身が「哲学者になる」教室を目指します。
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| 打ち合わせでいただいたジンジャーミルクティーとゴーフル。体があたたまりました。 |
2012/11/17
哲学カフェ「SNSを使う理由、使わない理由」
こんにちは、まつかわです。
10月30日、さする庵で開催した哲学カフェの報告です。
遅くなってすみません。色々思うところがありすぎてなかなか言葉にできずにいたのですが、今日こそ書かないと。
テーマは、「SNSを使う理由、使わない理由」。
さする庵の秋田さんに「SNSをテーマにやってみたい」とリクエストをいただいたのがきっかけです。ちょうど私も、Twitterやfacebookに登録はしているものの上手く使いこなせず、一度考えてみたいと思っているところだったので、進行役をかってでることにしました。
はじめに思いついたのは、「SNSは社会をどう変えるか?」、「SNSとコミュニケーション」といったテーマでした。でも、これはすでにネットや本などあちこちでさんざん語られてますよね。SNSの特徴、使い方、メリット/デメリットを教えてくれる情報も世の中にはあふれています。
そうではなく、SNSがひとりひとりの生活をどんなふうに変えるのか、みなさん何のためにSNSを使って、どんなふうに感じているのか聴いてみたい。そう思ってこのテーマにしました。
話の流れから「掲示板はSNSとどうちがう?」とSNSの定義をめぐって立ち往生したり、「SNSはどうあるべきか」「SNSはコミュニケーションツールなのか」といった話題に迷い込むシーンもありましたが、やはりそれぞれの「使う理由」「使わない理由」をきくのが一番楽しく、実りが多かったです。
「遠くに住んでいる友だちとのやりとりのため」
「プライベート用と仕事用でmixiとfacebookを使い分けている」
「コミュニケーションのためじゃなく、情報収集のツールとして使っている」
「登録だけしてるけど、放置状態で使っているとはいえない」
「面倒くさいし時間がもったいない。直接人と会って話すほうがいい」
「なんとなく、こわい」
そんなひとりひとりの使う理由、使わない理由を聞いているうちに、私も自分がなぜSNSを使うのか、自分でも気づいていなかった使う理由がみえてきました。
一番大きな発見は、「SNSって本当に大事なことは書けない」という発言があったように、SNSって確かに当たり障りのないことしか書きにくい、でもそういう雑談のようなやりとりをこそ私は求めてるんだってことでした。
会議やミーティングでは、本当に話すべきことを話す。でも、コミュニケーションって大事なことだけを話していればうまくいくってものではなくて、ちょっとした世間話とかくだらない話をはさみながら相手との関係を築くものなんじゃないかなぁ。そして、普段メールで人とやりとりすることが多い私は、そういう機会が足りてなかったのかもしれない。そんなことを考えました。
facebookの近況報告やtwitterでのつぶやきは、家でひとりで仕事をする時間が長い私にとって、職場でのちょっとした井戸端会議のような機能をもっているような気がします。
コミュニケーションや関係性の、軽視されがちだけどとても大事な側面に気づかせてくれた哲学カフェでした。
この報告を何度も書き直しているうちに、本日は岡山での哲学カフェでした。
また報告書きます。
10月30日、さする庵で開催した哲学カフェの報告です。
遅くなってすみません。色々思うところがありすぎてなかなか言葉にできずにいたのですが、今日こそ書かないと。
テーマは、「SNSを使う理由、使わない理由」。
さする庵の秋田さんに「SNSをテーマにやってみたい」とリクエストをいただいたのがきっかけです。ちょうど私も、Twitterやfacebookに登録はしているものの上手く使いこなせず、一度考えてみたいと思っているところだったので、進行役をかってでることにしました。
はじめに思いついたのは、「SNSは社会をどう変えるか?」、「SNSとコミュニケーション」といったテーマでした。でも、これはすでにネットや本などあちこちでさんざん語られてますよね。SNSの特徴、使い方、メリット/デメリットを教えてくれる情報も世の中にはあふれています。
そうではなく、SNSがひとりひとりの生活をどんなふうに変えるのか、みなさん何のためにSNSを使って、どんなふうに感じているのか聴いてみたい。そう思ってこのテーマにしました。
話の流れから「掲示板はSNSとどうちがう?」とSNSの定義をめぐって立ち往生したり、「SNSはどうあるべきか」「SNSはコミュニケーションツールなのか」といった話題に迷い込むシーンもありましたが、やはりそれぞれの「使う理由」「使わない理由」をきくのが一番楽しく、実りが多かったです。
「遠くに住んでいる友だちとのやりとりのため」
「プライベート用と仕事用でmixiとfacebookを使い分けている」
「コミュニケーションのためじゃなく、情報収集のツールとして使っている」
「登録だけしてるけど、放置状態で使っているとはいえない」
「面倒くさいし時間がもったいない。直接人と会って話すほうがいい」
「なんとなく、こわい」
そんなひとりひとりの使う理由、使わない理由を聞いているうちに、私も自分がなぜSNSを使うのか、自分でも気づいていなかった使う理由がみえてきました。
一番大きな発見は、「SNSって本当に大事なことは書けない」という発言があったように、SNSって確かに当たり障りのないことしか書きにくい、でもそういう雑談のようなやりとりをこそ私は求めてるんだってことでした。
会議やミーティングでは、本当に話すべきことを話す。でも、コミュニケーションって大事なことだけを話していればうまくいくってものではなくて、ちょっとした世間話とかくだらない話をはさみながら相手との関係を築くものなんじゃないかなぁ。そして、普段メールで人とやりとりすることが多い私は、そういう機会が足りてなかったのかもしれない。そんなことを考えました。
facebookの近況報告やtwitterでのつぶやきは、家でひとりで仕事をする時間が長い私にとって、職場でのちょっとした井戸端会議のような機能をもっているような気がします。
コミュニケーションや関係性の、軽視されがちだけどとても大事な側面に気づかせてくれた哲学カフェでした。
この報告を何度も書き直しているうちに、本日は岡山での哲学カフェでした。
また報告書きます。
2012/09/01
便座ヒーターも必要悪?
8/28のさする庵の哲学カフェには12名の方がいらっしいました。
ありがとうございました。
参加された方からのコメントも届いてます。
ありがとうございます。
表題の意味も含めて、当日の様子が少し伝わるかなと思います。
興味ある方はこちらの記事のコメント欄をどうぞ。
あ、1つ前の投稿でまつかわさんも感想書いてくれてますね。
こちらもあわせてどうぞ。
次回は10月後半、テーマはSNS関係を予定してます。
わたしも別の催しの感想をひとつだけ。
8/18、熊さんから報告があったシネマ哲学カフェ『喜びも悲しみも幾歳月』に参加しました。
少し遅れて館内に入りましたがほぼ満席です。
隅にパイプ椅子を出して座りました。
半分ほど過ぎて「第2部」に入る頃、ご年配の男性が館内に入り隣のパイプ椅子腰掛けたのですが、みはじめてすぐ涙、とりわけ終盤の娘の婚姻話とか「バカ」の話のあたりは前のめりで涙涙。何かご自身の経験と重なるものがあったんでしょうかね・・・。
途中大きな音が何度もするので効果音かと思ったら雷でした。
終了後外に出ると豪雨。館内も前方座席の人は床にまで浸水していたようで、外ではシネ・ヌーヴォースタッフの方がバケツで必死に水をかき出してました。
いろんな意味で印象に残った哲学カフェとなりました。
カフェも楽しかったのですが、この辺で。
ありがとうございました。
参加された方からのコメントも届いてます。
ありがとうございます。
表題の意味も含めて、当日の様子が少し伝わるかなと思います。
興味ある方はこちらの記事のコメント欄をどうぞ。
あ、1つ前の投稿でまつかわさんも感想書いてくれてますね。
こちらもあわせてどうぞ。
次回は10月後半、テーマはSNS関係を予定してます。
わたしも別の催しの感想をひとつだけ。
8/18、熊さんから報告があったシネマ哲学カフェ『喜びも悲しみも幾歳月』に参加しました。
少し遅れて館内に入りましたがほぼ満席です。
隅にパイプ椅子を出して座りました。
半分ほど過ぎて「第2部」に入る頃、ご年配の男性が館内に入り隣のパイプ椅子腰掛けたのですが、みはじめてすぐ涙、とりわけ終盤の娘の婚姻話とか「バカ」の話のあたりは前のめりで涙涙。何かご自身の経験と重なるものがあったんでしょうかね・・・。
途中大きな音が何度もするので効果音かと思ったら雷でした。
終了後外に出ると豪雨。館内も前方座席の人は床にまで浸水していたようで、外ではシネ・ヌーヴォースタッフの方がバケツで必死に水をかき出してました。
いろんな意味で印象に残った哲学カフェとなりました。
カフェも楽しかったのですが、この辺で。
2012/08/28
さする庵の哲学カフェ
くわばらです。
先日もお知らせしましたが、
本日、19:00からさする庵で「哲学カフェ」を開催しします。
テーマは必要悪についてす。よろしければどうぞ。(→ 詳細はこちら)
(初めて参加される方は入り口を探して迷われるかもしれませんので、
下の写真をご参考までに)

ちなみに前回6月は
「苦労は買ってでもしたほうがいい?」というテーマで開催しました。
私が進行し、参加者は15名ほどでした。
買える苦労、自分で選んで背負える苦労はいいとして、
買えない苦労、背負わされて逃げられない苦労は
やっぱり大変ではないかという話が出ました。
たとえばこの病気のない人生があるならそれがいいとかそういうことです。
買うというのは修辞的な表現ですが、そこにこだわってみるのは確かに面白いですよね。
苦労することとそれを買うということの並列に不思議な感じがします。
また、苦労の語りは、苦労そのものよりも、
苦労を介して表出される(あるいは相手にそう読み取られてしまう)
妬みや僻みなどといった情念に注意が向いてしまう。
だからこそ、苦労がつらいものであればあるほど
それを語るは静かで穏やかであろうとする。
参加者の話をききながら私自身はぼんやりとそんなことを考えた2時間でした。
「みなさま2時間ご苦労様でした」
最後のオチを言うのを忘れてました。
2ヶ月も経ってなんですが、
この場であの時の最後の挨拶に代えて。
先日もお知らせしましたが、
本日、19:00からさする庵で「哲学カフェ」を開催しします。
テーマは必要悪についてす。よろしければどうぞ。(→ 詳細はこちら)
(初めて参加される方は入り口を探して迷われるかもしれませんので、
下の写真をご参考までに)
ちなみに前回6月は
「苦労は買ってでもしたほうがいい?」というテーマで開催しました。
私が進行し、参加者は15名ほどでした。
買える苦労、自分で選んで背負える苦労はいいとして、
買えない苦労、背負わされて逃げられない苦労は
やっぱり大変ではないかという話が出ました。
たとえばこの病気のない人生があるならそれがいいとかそういうことです。
買うというのは修辞的な表現ですが、そこにこだわってみるのは確かに面白いですよね。
苦労することとそれを買うということの並列に不思議な感じがします。
また、苦労の語りは、苦労そのものよりも、
苦労を介して表出される(あるいは相手にそう読み取られてしまう)
妬みや僻みなどといった情念に注意が向いてしまう。
だからこそ、苦労がつらいものであればあるほど
それを語るは静かで穏やかであろうとする。
参加者の話をききながら私自身はぼんやりとそんなことを考えた2時間でした。
「みなさま2時間ご苦労様でした」
最後のオチを言うのを忘れてました。
2ヶ月も経ってなんですが、
この場であの時の最後の挨拶に代えて。
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