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2014/04/29

"現実"は受けいれるべきものか?

おはようございます、まつかわです。
ただいま、年に一度のカフェフィロ総会にため、大阪に向かっております。
高速バスで3時間ほどかかるので、先週22日に開催した「対話する哲学教室」を振り返っておきましょう。

第8回目の今回は、「"現実"は受けいれるべきものか」。
なぜこの時期にこのテーマかって?
年度始めのこの時期は、毎年いろいろ考えちゃうんです。
個人的な働き方や、カフェフィロの運営について。
問題を抱えたままこの調子で続けてていいのか、少しでも理想に近づくべく何かを変えるべきか。
思いきって始めたほうがいいこと、逆にやめたほうがいいことはないだろうか。
多少キツくても理想を追求すべきか、それとも自分の心地よさを優先させるべきか。
それで、このテーマを選びました。



参加者は19名と、いつもより少し多め。

前半は、いつもどおり、テキストの章冒頭にある対話を読んで話し合います。
サッカーのロッカールームで、勝つために筋肉増強剤を飲むことを勧める利夫と、「ほんとうの自分」で勝負すべきという大介。
「ここで受け入れるべきかどうか問題になる"現実"は何でしょうか?」と問いかけると、参加者の意見は大きく2つに分かれました。
一方では「利夫のほうが、他のチームの人たちも筋肉増強剤を飲んでいるという現実を受けいれている」という意見。もう一方は「大介のほうが、肉体的な能力という自分の限界=現実を受けいれる姿勢がある」という意見とが拮抗します。

後半は、ストア主義のゼノンと、快楽主義の祖として知られるエピクロスの思想を参考に、さらにテーマについて議論しました。
その結果、ゼノンとエピクロスそれぞれの思想から、興味深い発見が一つずつありました。

まず最初にみなさんの関心を集めたのは、エピクロスの欲求の捉え方。「快楽こそが善であり、人生の目的だ」と考えたエピクロスでしたが、「だらしない生活を続ければ、様々な弊害が生じる」と享楽的な生活を否定しました。
それをきいた秋田さんの口から、「快楽主義は、ストイックが土台にないと成立しない」というテーゼが出てきました。
「高校の倫理の授業できいたときはよく思えなかったエピクロスの印象が変わった!」という感想もいただき、私としてはしてやったり。エピクロスの深みを理解していただけてよかった!
この点について理解を深めるために、テキストにはない欲求の3分類についてもご紹介しました。これも盛り上がりましたね。

ゼノンについては、「私たちの選択も含め、全ては自然法則に従って生じる」という思想にも関わらず、なぜあるがままの快楽に身を任せようとせず、禁欲的(ストイック)であろうとしたのか、という鋭い批判が展開されました。
その結果、ゼノンの自然観と倫理観を矛盾なく結ぶには、大前提として「アパテイア(心の平穏)」という目的がなければならないこと、そして、アパテイアの根拠は十分に議論されていないのではないかということが確認できました。


私にとっても非常に学びの多い回でした。
参加者のみなさん、さする庵の秋田さん、ありがとうございました。

この教室も次回は9回目。
さらに欲張りに、より対話的な姿勢を追求できたらと思っています。


2014/04/28

報告:漫画de哲学「考えるとはどういうことか?」


三浦です。4/19にカフェティグレで行なわれた『ジョジョの奇妙な冒険』を題材にした漫画de哲学「考えるとはどういうことか?」(進行:奥田太郎さん)の報告を、愛知教育大学の教員養成課程(社会専攻)に在籍する望月今生さんが書いてくださいましたので、代理で投稿いたします。

 1つのテーマについて、対話を通じて深く探求し合うこと。私はそれを中心的な活動とする集まりを作ろうと計画しているのですが、中々上手くいきませんでした。そんなとき、偶然インターネット上で見つけたものが、この哲学カフェです。そこでは、幅広い年齢層の方々が、哲学的な1つのテーマについて、対話を通じて深く探求し合う空間がありました。
 
 今回は「漫画de哲学」第2回ということで、テーマは「考えるとはどういうことか?」。荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第二部(戦闘潮流)第12170貢が題材でした。参加者の方々の主張を全てまとめて、分かりやすく記述するというような芸当は私にはできないので、まず、ある言葉をピックアップしたいと思います。それは、「変化」という言葉です。この言葉に関係して、外界・内界の変化が無い、もしくは、その変化を知覚できなければ、考えるという行為は不可能であるという主張や、ただ変化があるだけではなく、その変化が「心のアンテナ(志向性?)」に捉えられなければ思考は働かないという主張がなされました。また、ただ変化を捉えるだけでなく、それを能動的に「意味」や「価値」に結び付けて認知することが考えることである、という一歩踏み込んだ主張もありました。このことを、「経験に構造を与えることである(構造化)」と表現した方や「自由」という概念に関係づけた方もおり、変化という言葉から多くの主張が生まれてきたように思われます。この変化を捉えるものは「意識」だけでなく、「無意識」もそれと同じように捉えるのではないか、考えることとは言語を前提としているのではないか、という指摘もありました。
 
個人的には、人間と人工知能の相違点を突き詰めていけば、今回のテーマに一定の回答を与えることができるのではないかと思います。例えば、意味や価値を人工知能が理解した場合、その人工知能は、人間と同じように考えることができると言えるのではないでしょうか。もちろん、人工知能が理解したその意味や価値は、人間がプログラムした人工のものであり、そうとは言えないという反論が出ると思われます。しかし、私たち人間が理解している、または、個人的に持っている意味や価値も、他者の手垢まみれであり、他者からプログラムされたといっても良いものではないでしょうか。なぜなら、他者の意味や価値からはっきりと分離している、または、それらの影響を受けていない私だけの意味や価値などは存在しないと思われるからです。このように考えた場合、人間と人工知能の相違点とは何でしょうか。この問いの答えとして、「人間と人工知能の決定的な相違点は、『意志の有無』である」という主張がありました。考えるとは、その根底にきわめて人間的な「意志」を持っているのかもしれません。


今回から「哲学カフェ、やってます」のボードが登場!
 今回の最後では、参加者の方々が1人ずつ、「考えるのをやめたカーズ」とはどのような存在であるかについて発言する時間があり、カーズはもう生物ではなく物体であるとする主張や、カーズは人間を超えた存在であるという主張がなされました。特に、そのカーズを「苔」のようなものであるとする主張が記憶に残っています。

 今回の漫画de哲学において、「考えるとはどういうことか?」という問いに対して、明確な答えというものを見つけることはできなかったと思います。しかし、参加者の方々が年齢や立場を気にせず、1つのテーマについて真剣に対話し合うという体験は、とても意義のあるものであると思いました。私は学生という立場なので、普段、幅広い年齢層の方々と対話する機会がありません。大学の演習室では生まれない主張、観点に触れることができ、とても貴重な体験をしたと思います。ご一緒してくださった皆様、ありがとうございました。
 
ティグレでは終了後に任意でランチを食べたりしています。ある
参加者の方曰く、「このランチの時間が哲学カフェで生じた言い
足りなさやモヤモヤを解消するよい装置になっている」のだとか。
この日も1時間半にわたり「アフター哲学カフェ」がなされました。
 
前回に引き続き、今回も哲学カフェ初参加の方による新鮮な眼による報告文でした。突然の申し出にもかかわらず快諾して下さった望月さんに深く感謝いたします。ありがとうございました。

2014/04/27

小金井哲学カフェ「ロックの精神とは?」

こんばんは、まつかわです。
小金井哲学カフェより、次回開催のお知らせが届きました。


日時:5月2日(金)19:00-21:00

テーマ: ロックの精神とは?

場所:カフェ  broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)

主催:小金井哲学カフェ 進行:佐土原


参加をご希望の方は小金井哲学カフェのサイトよりお申し込みください。


哲学カフェ「ひとりがいい?」

こんにちは、まつかわです。
今日は午後から岡山の医療関係者の方とやってる「ケアを考える会」に参加してきます。
その前に先日の哲学カフェについて報告をさらっとしておきましょう。

4月24日夜は、岡山大学城下ステーションで哲学カフェを開催しました。
進行役は、大阪の中之島哲学コレージュにもときどき登場してくださる、森本誠一さん。
シネマ哲学カフェの進行もされてますね。

この日はお仕事で岡山にいらっしゃるということで、せっかくなので、森本さんが考えたいテーマで進行役をお願いしました。
私も一参加者として対話を楽しみました。

正面奥が、森本さん。松川はめっちゃ考え込んでます。
久しぶりの平日開催ということで、何人くらい集まるかドキドキでしたが、岡山大学の先生や、職場が近いかたが集まってくださいました。児島からわざわざきてくださった方も・・・ありがとうございます!

「ひとり焼肉」など、ひとりで行動することについても話題にでましたが、より深い精神的な「独りでいること」につちてのやりとりに、より多くの時間が割かれたように思います。
結婚やパートナーをもつことの意味、自然のなかで一人で過ごす時間、人ごみや雑踏で感じること、贅沢な孤独とそうでない孤独、ひとりで病いとともに生きることの難しさ、死に向き合うこと・・・。
「ひとりでいたい」と思うときの「ひとりでいる」とはどういうことか。
「ひとりでいるのがツライ」と感じるときのそのツラさは何に起因しているのか。
さまざまな例や体験をもとに、考えました。

個人的には、「ひとりでいる限り、思考が何度も同じところに返ってきて、同じ思考を何度も繰り返してしまう。先に進めない」という言葉が、私とは全く別の経験から出された発言だったにも関わらず私自身の体験にも当てはまり、興味深かったです。
他者がいないと先に進めないということが、「ひとりでいること」と「他者とともにいること」のなにか本質的なちがいを表しているように感じました。

次回、城下ステーションの哲学カフェですが、まだ予定が決まってません。
ごめんなさい。
平日にするか休日にするか、ちょっと迷っています。
決まり次第、カフェフィロHPなどでお知らせします。


2014/04/26

5/18 てつがくカフェ「震災と看護2:看護にとっての〈使命感〉とは?」

こんにちは、まつかわです。
本日2度目の投稿です。

5月18日に、カフェフィロ会員である仙台の西村高宏さんが再び京都にやってきて、てつがくカフェ「震災と看護2」が開催されます。



てつがくカフェ@せんだいのHPにも詳細情報が掲載されています。
どうぞご覧ください。


5月のむこのそう哲学カフェ

こんにちは、まつかわです。
今週は、平日夜に大阪のさする庵さんで哲学教室をしたり、岡山で哲学カフェをしたりと大忙しでした。参加してくださったみなさん、ありがとうございました。
その報告もせねばなりませんが、むこのそう哲学カフェから5月の開催情報が届いたので先にお届けいたします。



5月4日(日)  シネマカフェ「ホノカアボーイ」
5月28日(日) 哲カフェ「ふるさとは遠きにありて思うもの?」
5月25日(日)  eカフェ“Why some people want to have a power?"

ご関心のある方は、ぜひ、むこのそう哲学カフェの赤井さんのブログもご覧ください。


2014/04/16

東急セミナー:対話を楽しみながら思索を深める哲学カフェ

こんにちは、まつかわです。
昨年秋から東急セミナー二子玉川校でカフェフィロメンバーが提供する講座があることをご存知でしょうか?
ご好評いただいたおかげで、今期も開講されることになりました。
「対話を楽しみながら思索を深める哲学カフェ」。
今期は「友情」「旅」「嘘」「生きる意味」などのテーマが取りあげられるようです。

初回は4月24日(木)。
月に一度、テーマを変えて開催されます。
木曜午前中とお仕事がある方は難しいかと思いますが、毎回定員オーバーの哲学カフェを進行する寺田さんがメイン講師なので、受講できる方はぜひ。
各回のテーマなど、詳しくは東急セミナーのこちらのページをご覧ください。

2014/04/15

4/20 哲学Bar「お金」

こんにちは、まつかわです。
賛助会員の山本さんより、哲学Barのご案内が届きました。


【哲学Bar】
お酒を飲みながら、テーマについて話し合います。
参加ご希望の方は、
biwako.philosophycafe@gmail.com までご連絡下さい。

日時:4/20(日) 19:00-21:00
場所:BAR【Lowo=Tar=Voga】
参加費:各自の飲食代のみ
テーマ:「お金」

※BAR【Lowo=Tar=Voga】
 Open19:00~
 京都市中京区北車屋町271-4森川ビル1F
 店電話075-251-2810
 地図URL:http://goo.gl/maps/bPX4s
※お店の場所が解り辛い場合は、直接上記電話番号までご連絡ください。

主催:Bar Lowo=Tar=Voga


お金をテーマにした哲学カフェは、カフェフィロでも何回も開催していますが、お酒を飲みながらだとまたちがう視点がでてきそう?
お近くの方は、ぜひご参加ください。



2014/04/14

4/26 小金井哲学カフェ「少子化・移民・自殺」

こんにちは、まつかわです。
小金井哲学カフェより次回開催のお知らせが届きました。


日時:4/26(土)18:00-20:00

テーマ:「少子化・移民・自殺」

少子高齢化に対して様々な対策が検討されています。

最近では、女性手帳や移民受け入れなどが話題となり、賛否両論を引き起こしています。
これらは、分母(高齢者を支える側の生産年齢人口:20~64歳)を増やすことが目的と思われますが、これらの施策とは別に、存命の分母を減らさない施策、例えば自殺や交通事故死を減らすというのも一つの手だと思います

その他、単に老年人口と生産年齢人口の比率の改善だけではなく、法制度、人々の意識改革、テクノロジーによるサポートなどで、少子高齢化の問題を軽減できるかも知れません。

今回は、少子高齢化問題の本質は何か、現在議論されている施策の是非、さらに我々で
少子高齢化問題を改善できるアイデアなどが思いつくことができるかなどについて話し合いたいと思います。

場所:カフェ broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)

主催:小金井哲学カフェ 進行:花野


社会的問題をみんなで考える回ですね。
参加をご希望の方は小金井哲学カフェのブログよりお申し込みください。

報告:哲学カフェ「人は何に芸術性を感じるのか?」

三浦です。先月22日に行なわれた哲学カフェの報告を、高木美歩さん(南山大学総合政策学部 哲学ゼミ所属)に書いていただきましたので、代理で投稿いたします。

知人から哲学カフェという存在があることは聞いて知っていましたがどのように運営されているのかはわからず、どきどきしつつ初参加させていただきました。当日は駅から近い喫茶店に、大学生からご年配の方まで様々な方が集まっていましたが、皆さん哲学という共通点で結ばれているということが面白いと感じました(哲学を学んでいますが、非常にマイナーという印象があります…)。
今回のテーマは「人は何に芸術性を感じるのか?」。安田さんの進行で話し合いが始まりましたが、すぐに「芸術」という言葉の含む対象の広さ、そして各参加者の方の持つイメージの多さに気づかされました。また色々なバックボーンを持った参加者の方のお蔭で、伝統的な手法などを学習した上で実践されるもの(技術の洗練)と技法などによらず個人の発想や意志を表現すること(自己表現)という「権威」と「個人」という軸、また所謂芸術作品や伝統芸術などが脈々と残る傍ら、制作されても残らずに消えていくものの存在から、芸術になるまでには時空のスクリーミングが必要という解釈が提示されました。これは良いものは長く残るという発想ですが、他方で演奏などの即興芸術やどんなに制作者の意図を熟知している人間でも完全な再現は不可能であるというライブ感という二つの軸も対立していたように感じます(例えば、演奏会を録音したCDとは?)。そしてもう一つ、作品の価値は制作者の意図とは別に鑑賞者によって決められるという可能性です。作品は制作者の意識の表現ですが同時に誰かに見られる存在でもあるという指摘もあり(道具と芸術品の違いとは?)、付随して金銭的な評価をどう考えるべきかという議論も盛んだった印象です。
この芸術性と相対する際に発生する評価軸を考える上で、個人的にジョン・ケージの4:33やマルセル・デュシャンのは私たち鑑賞者と制作者、権威と発想の軸を示唆する良い題材だと感じました。
また、今回のテーマが芸術性であって芸術ではないことについても、最初にもう少し丁寧に言葉の整理をすべきだったのかもしれません。ただ終盤に出てきた「芸術性は多くの作品が少なからず持っているが、芸術になるかどうかは洗練が必要ではないか」という指摘は、暫定的なまとめになるのではないかと思います。
盛り上がってきたところで時間切れとなってしまいすっきりした終わりとはなりませんでしたが、芸術経験や関心のある方ない方様々いる中で、皆さんがそれぞれの立場から活発に発言されていたことが、私たちが生活の中で芸術に対して何らかの関心を持っているという表れのように思いました。
また今回のディスカッションを通して、これから「芸術」と向き合う際には自分が何に「芸術性」を感じているのかということをより深く考えつつ味わう、良いきっかけになったと感じます。このように、そのままでは漠然としている自分の価値観が、話し合いや他の人の意見によって整理されていくのは、哲学の面白さであり快感ではないでしょうか。また、集まった参加者がリラックスしつつも一つのテーマについて真剣に知恵を巡らせるというのもなんとも言えない充実感があると思います。
哲学カフェでは普段学生をしていると接する機会のない年齢や職業の方々と初めてお会いしましたが、会話が弾み、楽しい時間を過ごすことが出来ました。議論の最中も聞きなれない専門用語が飛び交うわけでもなく、生活の中で感じていることを立ち止まって論理的に考えてみようという頭の体操になる時間ですので、まさにカフェに立ち寄る気分で参加できます。普段何かと「気難しい・おカタい・ややこしい」イメージを持たれがちな哲学を学ぶ人間の一人として、哲学カフェを通じて気軽に哲学に親しんでもらえるととても嬉しいと思います。私自身、新しい発見の為にもこれからも参加していきたいです。ご一緒してくださった皆様、ありがとうございました。
 
2013年の4月から開始したティグレでの哲学カフェも
早いもので丸一年がたちました。
 
就職活動の真っただ中でお忙しいなか、南山の学生さんということで教員の奥田さんに「報告書いて!」とムチャ振りされ、それを快く引き受けてくださった高木さんに感謝申し上げます。
高木さんも最後に書かれていますが、老若男女が集まる哲学カフェの場は、学生の方々にとって「学校のなかでは接する機会の少ない大人たち」と言葉を交わせる貴重な機会だと思います。学校の先生からよりも多くのことが学べるかもしれませんよ。

2014/04/13

本日14:30より むこのそう哲学カフェ「ほんものとにせもの」etc.

こんにちは、まつかわです。
今年は桜が早かったですね。みなさんお花見できたでしょうか?
私は、この1週間花粉症と膀胱炎のダブルパンチでしたが、近所で通りすがりに堪能しました。

まだ回復途中なので、グリグラ哲学カフェの報告は後回しにさせていただいて、むこのそう哲学カフェの赤井さんより、4月のイベントのお知らせです。



なんと!哲学カフェは本日ですね。
ギリギリセーフ!?・・・でもないか。
お近くで間に合う方は、ぜひぶらりとどうぞ。

「そんな急に行けるかい!」という方は、来週のeカフェに参加してみては?
ちょうど前回ゲストハウスに宿泊したときに、ドイツ人宿泊者に「スマホが壊れたからパソコン貸して〜」的なことを言われてあたふたした私としては、電子機器にまつわる英語のやりとりがどんなふうか気になります。


2014/04/03

グリグラ哲学カフェの日の移動

こんにちは、まつかわです。
今日はグリーングラス(グリグラ)の哲学カフェでした。

いつもグリグラに行くときは……

岡山から新幹線と地下鉄と神戸電鉄を乗り継ぎ神戸市鈴蘭台へ。
哲学カフェ終了後、神戸電鉄と阪急を乗り継ぎ、豊中市の大学へ。
ひと仕事して、モノレールと父の車を乗り継ぎ、大阪府内だがほとんど京都に近い枚方市の実家に宿泊。
翌日また大学で一日仕事して(途中、コレージュや哲学教室なども挟みつつ)岡山に帰る。

……というコースでしたが、今回、ちょっと変えてみました。

岡山から高速バスとモノレールを乗り継ぎ豊中市の大学へ。
一日仕事して、阪急で新開地へ。
新開地の格安ゲストハウスに一泊して、翌朝、鈴蘭台へ。
哲学カフェをして、三宮から高速バスに乗って岡山に帰宅。

かなりラクです!
経費もちょっぴり浮くし、今後はこのコースでいこう。

格安かつ居心地のいいゲストハウスを教えてくださった参加者の方に感謝です。

長くなったので、内容の報告はまた次回。しばしお待ちを。


2014/04/01

「彼氏(彼女)がほしい」を哲学する

こんにちは、まつかわです。
遅くなってしまいましたが、3月11日のグリグラ哲学カフェの報告です。

この日は中学の卒業式ということで、リピーターの方は少なめでしたが、2名ほど初めての方がきてくださいました。ひとりは、「むこのそう哲学カフェ」に参加されたことがあるという男性。それからもうひとりは、ご自身も大学で哲学カフェを実践しているという学生さん。

「彼氏がほしい」、「春画」、「就活」という3つのテーマが提案され、多数決で「彼氏(彼女)がほしい」に決まりました(提案時は「彼氏がほしい」でしたが、男性からの要望で、後から「(彼女)」を付け足しました)。

一人何回あげてもいい多数決です。

報告が遅くなってしまったのは、どうまとめるか迷ってしまったからです。
全回が「夫婦とは」と現実を見つめるテーマだったので、今回はもう少し夢をあるテーマをということで提案されたのですが、さて・・・。




●願ったら叶うの?
私がおもしろいなと思ったのは、「彼氏がほしい」というテーマから、最初に「彼氏」ではなく「ほしい」という気持ちについての議論が展開したことです。
火種をつけたのは、「願いには、願ってもいい願いと、願うだけではダメな願いと、願ってはいけない願いとの3種類ある」という発言でした。すなわち、世の中には、願うだけで叶うことと、願うだけでは叶わず努力が必要な願いと、いくら願っても努力しても叶わない事柄があると。ここから、「彼氏がほしい」と思うなら、それをアピールするなんらかの行動が必要ではないか(しかし、自分の周りで「彼氏(彼女)がほしい」と言ってる人がそれをしているようには決してみえない)という意見(批判?)がでてきました。

●つき合うってどういうこと?
しかし、アピールするなら、ある程度対象を絞り込んで、その対象に合ったアピールをする必要があるでしょう。ここから、「そもそも 『彼氏(彼女)がほしい』と思う感覚が理解できない」という人が現れました。どういうことかきいてみると、「好きな人ができて、その人と一緒にいたくてつき合いたいと思うのは理解できる。でも、まだ好きな人もいないうちから『彼氏がほしい』というのは、対象が曖昧で、いったい何を望んでいるのかわからない」とのこと。なるほど。
この発言をきかっけに、議論は「ほしい」に関する考察から、「彼氏(彼女)とは何か?」「つき合うとはどういうことか?」へと話題が移ります。「夫婦より恋人のほうが楽しいのはなぜか?」と恋人関係のポジティブな側面に注目する人もいれば、過剰な束縛やデートDVなどの問題などを挙げ、「好きな人がいても、つき合いたいとは思わない」という人もいました。

●「彼氏がほしい」は願いか、欲望か?
さらに・・・
「『彼氏(彼女)がほしい』と言う人は、本当にそれを願っているというより、ただそう言いたいだけでは?」 
「『彼氏(彼女)がほしい』という願いの奥には、『結婚したい』と同じように『自分の将来を確定したい』『安心したい』という気持ちがあるのでは?」 
「いちいち相手をくどいたり、会う約束をしたり、小さい欲望をそのつど叶えるのはしんどい」
・・・と率直な意見が飛び交うなか、議論はもう一度「ほしい」に戻ってきました。
「〜がほしい」「〜したい」と一言でいっても、「願望」「意志」「欲望」「祈り」など色々あります。「彼氏がほしい」というのは、はたして「願望」なのか「欲望」なのか。
決着はつきませんでしたが、最終的に、自分ではコントロールできない「縁」や誰かの無事を願う気持ちなど、自分の力だけでは実現できない限界のなかで、それでも何かを求めてしまう気持ちがあるということを確認できました。

「彼氏(彼女)がほしい」というテーマ、最初はどうなることかとおもいましたが、意外にも、人が自分の限界を超えて何かの求める気持ちについてじっくり考えることができるテーマでした。


さて、次回グリーングラスの哲学カフェは、4月3日(木)。
10:30から神戸市北区民センター(神戸電鉄「鈴蘭台駅」より徒歩4分)にて開催します。
これまでと会場が異なりますので、ご注意ください。
みなさんのご参加お待ちしております。