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2015/08/29

『さいごのぞう』、作者の井上奈々さん

おはようございます、まつかわです。
カフェフィロセミナーのため、東京に来ています。
こちらは涼しいですね。

先日の中之島哲学コレージュついて、『さいごのぞう』の作者の井上奈奈さんが、青木さんの報告を読んで、ご自身のブログで触れてくださいました。

井上奈々さんのブログはこちら

私たちカフェフィロは、ふだん「対話」というその場で消えていってしまうものを扱っています。
それはそれで参加者だけが味わえるよさがありますが、絵本という、手にとって確かめられるものがあるってやっぱりいいですね。
『さいごのぞう』、あの場で考えられたこともたくさんありましたが、まだ他にも考えられることがありそうです。
参加してくださった方も、参加できなかった方も、井上さんのように、報告を読んで絵本を手に取り、思い巡らせてみてはいかがでしょう?

いつかまた別の場所で、またいろんな人とあの絵本を味わい、語り合う機会を設けらえるといいな。


2015/08/28

10/31 ねりまの哲学対話“ねりテツ” 「あなたとわたしの自慢の正体」

連続で失礼します、まつかわです。
対話学舎えんたらいふの齊藤さんより、もうひとつお知らせです。
これ、意外とこれまでカフェフィロで扱ったことのないテーマかも???


◆【10/31】 ねりまの哲学対話“ねりテツ” 
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「自慢ばなしで恐縮ですが・・・」「ねぇ、それって自慢??」
自慢ばなしって、話す側が“そうする”ものなのでしょうか。
それとも、聞く側が“そう感じる”ものなのでしょうか。
そもそも自慢とは、いったいなんなのでしょう? ナドナド…
次回のねりテツは、「自慢」を囲んでアレコレはなしてみましょう。
いつものように、どなたでもご参加いただけます。
事前準備も予備知識も、一切不要です。お気軽にどうぞ。

・日 時:10月31日(土)15:00-17:00
・場 所:喫茶ポルト(西武池袋線・江古田駅から徒歩2分)
     http://coffee-bar-port.jimdo.com/information/
・テーマ:「あなたとわたしの自慢の正体」
・参加費: 300円+カフェでの飲食代   
・申込先:ms.entalife@gmail.com(齊藤)
・定 員:10名(要予約。原則ご予約3名さまから開催)
・詳 細:対話学舎えんたらいふ ねりテツページ


8/29 ほんの虫 対話の路『14歳からの哲学 -考えるための教科書-』

こんにちは、まつかわです。
カフェフィロ賛助会員でもある対話学舎えんたらいふの齊藤さんより、イベントのお知らせが届きました。
第1回の日程がカフェフィロセミナーと重なっていますが、セミナーに参加しない方はチェックしてみてください。



◆【ロングラン!随時開催】  ほんの虫 対話の路 
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2015年秋から定期的・継続的に、<読書と対話>を行います。
何冊かの本を道連れ“フェロー”にしながらの対話の時間です。
ねりテツの場だったり、有志の読書会というスタイルだったり、
あるときは、Skype対話だったり…さまざまなかたち、
さまざまな場所で行いたいと思います。
対話の路を一緒に歩いてくださる方々との沢山出会いを
心待ちにしております。

〇●〇●
<粛々と先行しています>
『14歳からの哲学 -考えるための教科書-』
(池田晶子/2003/トランスビュー)を読みます。
・日 時:第1回‥‥8月29日(土)
     ※その後、月1回のペースで開催予定
・場 所:お申込みされた方へのみ個別にご連絡
※個人の古民家をお借りしているため非公開です。
(練馬区内。西武池袋線・富士見台駅から徒歩5分)

参加費: 無料 *飲食物持ち寄り歓迎
・問い合せ先:ms.entalife@gmail.com齊藤)
・定 員:あと最大2名受付けております(応相談)
・詳 細:対話学舎えんたらいふ 
​ほんの虫ページ

<近々開場します>
『ニッポンには対話がない~学びとコミュニケーションの再生』
(北川達夫・平田オリザ共著/2008/三省堂)
やっぱり「共感」って手強いから、皆で読みたい!
一度ねりテツでもやりましたが、これからも粘り強くやります。
ご興味ありましたらばぜひ!

2015/08/22

さいごのぞう


おはようございます、まつかわです。
8/19(水)は、アートエリアB1にて中之島哲学コレージュ「さいごのぞう」を開催しました。
徳島県立池田高等学校・探究科のみなさんも参加してくださって、58名と久しぶりの大盛況。(お席の確約はできませんが、定員を超えたからといって参加をお断りすることは基本的にしていません。)

進行の青木さんより、振り返りの文章が届いたのでご紹介します。



 これまでこの「絵本で死について考えるシリーズ」は、「絵を見ない」というかたちでした。今回は『さいごのぞう』の作者の井上奈奈さんから朗読動画を紹介していただき、初めて絵本を最初から最後まで、絵と一緒に見るというかたちになりました。井上さんありがとうございました。また、高校生がたくさん来てくれたこともあり、参加者の方にもれまでとは違った風が吹いていました。

 そんな新しい流れのなかの今回。『さいごのぞう』には「絶滅の危機にある動物の保護」というバックグラウンドがあり、参加者の方にもそれについて話された方がいました。それを考えることもまた大事なことです。そのためにも、今回はまず「だれかが、何かがいなくなることを私たちはどう思うのか」を考えたかったので、私はなるべくそういったことを皆さんと考えようとしていました。

 『さいごのぞう』にはたくさんのアイテムが出てきます。皆で話し合ったごとに振り返ってみましょう。

 まずは「りんご」。ひとり寂しくしていたさいごのぞうに話しかけたのが、ぞうの頭に落ちてきたりんごでした。このりんごはぞうがイメージした幻だったという考え方と、本物のりんごだったという考え方の二手にわかれました。



 りんごは幻だと考えた場合、なぜりんごだったのかということが気になります。一つにはぞうの好きなものだったから、もう一つにはむしろありふれたものだったから、という考えがありました。また、りんごが話していることはぞうが考えていることだ、という話もありました。一方、りんごは本物だったという方ではこんな話がありました。ぞうは寂しいがゆえに話し相手をつくった、それがりんごだった。もう一つは少し違って、あまりにも寂しくてりんごと話すことができるようになった、というもの。

 寂しさ、ひとりという感覚。そういったものがあまりにも強くなると、自分をたもてなくなってしまう。自分を安定させるために話し相手が必要だ、という考えがありました。ところが、それは一筋縄ではいかないようです。

 りんごはぞうに、「ぼくを一口たべませんか」と話しかけます。ぞうは毒りんごだってかまわないと、一口かじります。りんごは誘惑でもあり、ぞうにとっては危ないものかもしれない、それでも話してみよう。そういった孤独を抜け出すときの葛藤やぎこちなさ、危なっかしさのようなものを、りんごとぞうのやりとりから考えた方がいました。りんごはただ寂しいぞうの救い手だったのか、少し迷うところです。だれかと接することは、そうすることの喜びもあるけれども、それゆえの悲しみもある。でも本当に一人でいることの寂しさよりも、誰かといることの苦しさの方がいい。そういうお話もありあました。もちろん、一人でいたいという考え方も出てきました。

 さいごのぞうの「牙」。宝石のような牙。ぞうはそれがなければみんなといっしょにいられたかな、とりんごに問いかけます。そして、ぞうの意識が海の中に潜っていくときに、ぞうから牙がこぼれ落ちます。

 牙はそれをもつものにとって、あるいは他のだれかにとって大切なもの。ところが、それはまただれかを傷つけうる武器でもある。それがあることで自分が優れていることになるもの、自分が大切にしていることとしてのプライドは、自分を孤独にするかもしれないものでもある。

 りんごも牙もただ「良いもの」ではなく、「悪い」とまでは言えなくてもどこかトガっているところがある。おそらく牙のもつこんなイメージがあったために、さいごのぞうの「さいご」が安らかだったのかどうか、ずっと迷いが残るような対話になりました。

 牙はまた「人間の影」を感じさせるところがありました。「宝石のような牙」と、牙に価値を見出すのは人間らしいところだということですね。物語の中に「人間」は一度も登場しないのですが、「象牙」のように人間を感じるところはいくつかあります。物語の「語り手」、さいごのぞうのお話を語り継いでいる存在。これも人間を感じるという考えがありました。物語の途中、ぞうはりんごに旅に誘われ海へと出ます。そこで「船」に乗るのですが、これもまた人間らしいものです。そもそも、ぞうがすんなりと船に乗ったことも不思議なところです。

 私は「虹」について参加者の皆さんに問いかけました。海に出たぞうは、夜空にかかる虹を見ます。この虹は何なのでしょうか。



 虹は何かの変化の象徴だということ、そして、虹があるからにはどこかに「光源」があるはずということ。この二つの考え方から、さらに二つの考え方が出てきました。

 真っ黒な夜空なのに鮮やかな虹がかかる。それは別世界に来たしるしだという話がありました。夜に虹がかかることが珍しくもない世界、ぞうはそんな世界にやってきた。この話をされた方は、船についても話されました。船はこの別世界の「もの」が、他の世界からやって来たもののために用意したもの。だから、ぞうは躊躇することなく船に乗った。船は「人工物」かと思われましたが、実はまったく異なる存在が用意したものかもしれません。



 光源について考えた方は、それを「他の動物」として話されました。さいごのぞうには仲間がいないけれど、海にいる他の動物たちは仲間同士で仲良くしている。その姿はぞうにとって眩しすぎて見ることができない、その眩しさをぞうはかろうじて虹として見ることができる。ぞうは虹を見て涙を流すのですが、この虹の美しさはぞうにとって辛いものでしょうね。

 終わり際に、さいごのぞうのお話のなかで死はどんなものだと思われるか問いかけてみました。物語の中でさいごのぞうが「死んだ」と言われないことについて、語り継がれ記憶に残るかぎりまだ「生きている」ということだ、という話がありました。ぞうの問いかけにりんごが答えなかったというシーンがあります。これについて、死ぬまでに何度も問いを繰り返し、とうとう答えに落ち着くことのないまま死んでいくのかな、と考えた方がいました。


 迷いのもとは自分の内側にも外側にもあり、答えにたどり着くあてもなく、それなのに、ただ問い、考えることだけはできてしまう。寂しい、悲しい。それはないことにすることも、消してしまうこともできない。「どうすべきか」よりも「どう感じるのか」「どう思うのか」を考えることのできた時間だったと思います。

(青木健太/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)








カフェマスターを務めさせていただいた私も、みなさんの意見をきいて一人で絵本を読んだだけだと気づけなかったであろうことに気づかされ、考えを巡らすことができました。
参加してくださったみなさん、朗読動画について知らせてくださった井上奈奈さん、進行の青木さん、ありがとうございました。

日本哲学の研究科である宮野真生子さんをお招きし、「いま、ここで哲学すること」について考えます。
『哲学カフェのつくりかた』で中之島哲学コレージュの章を書いてくださった三浦隆宏さんの企画。お楽しみに。

2015/08/19

取材三昧?

こんにちは、まつかわです。
今日の岡山、大阪はだいぶ涼しいです。
台風が近づいているせいでしょうか?

今年度に入ってから、取材のご依頼がやたら多いです。何故?

新聞をはじめ、フリーペーパー、雑誌、ラジオ、TVなど、毎月2〜3件はあるんじゃないかなぁ。
といっても、他の哲学カフェの取材の背景情報として、哲学カフェについて1時間ほど電話でお答えさせていただくだけで、掲載されるのはほんの一言ということが多いですが。
(とある30代向けファッション誌 のは、日程さえあえば、プロのスタイリスト&カメラマン付きでインタビュー記事が載ったかもしれないのに、撮影日の日程がどうしても合わず残念!)

正直なところ、時折「ん? 私が伝えたかったニュアンス(ポイント)とちょっとちがうような‥‥」ということもなきにしもあらずですが(それでご紹介を迷ってしまうこともあるのですが)、哲学カフェや哲学対話を広く知っていただく貴重な機会。
できるかぎり、ありがたくお受けさせていただいております。

取材を受ければ全部が全部世間に出回るわけではないので、一部ですが、こんな感じ。

朝日新聞(2015.4.3)「『哲学』人気じわり 迷える時代の羅針盤か」

北日本新聞(2015.5.30)「『哲学カフェ』県内で盛り上がり 多様な視点で対話」

City Life KOBE(2015.8)「カフェフィロ


カフェフィロへの取材のご依頼は、info@cafephio.jp(カフェフィロ事務局)へお願いします。
ご掲載の際は、掲載紙などお送りいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。


2015/08/16

哲学カフェ「みんなちがって、みんないい?」

こんにちは、まつかわです。
お待たせしました。
8月9日、岡山大学まちなかキャンパスの城下ステーションで開催した哲学カフェの報告です。

参加者は12名。それに、岡山大学の岩渕さんと私で14名。
岡山市、倉敷市など岡山県内からだけでなく、大阪、神戸、松江など様々な地域からきてくださった方もいらっしゃり、こちらの哲学カフェとしてはわりと人数が多めの回となりました。

松江からの参加者からいただいた、どじょう掬い饅頭

テーマは、「みんなちがって、みんないい?」。
神戸からの参加者が事前に提案してくださいました。
有名な金子みすずの詩「私と小鳥と鈴と」からとられた一節ですが、今回は哲学カフェなので、原典となった詩には最後にはまで(誤字ご指摘ありがとうございました!)触れず、シンプルにこの言葉をきいて思いつく経験や考えたことを語りました。

印象深かったポイントが3つ。

1)学校に関する例がたくさん出た
なかでも、学校の先生をされている方の「発達障害などでノートをとるのが難しい生徒さんに、黒板の板書をカメラで撮影することを許可するかどうかで教員の意見が分かれた」という話。
参加者のなかにアスペルガー障害をお持ちの方もいて、当事者の視点から「学校は、先生の自己満足の場所ではない。ノートをとりながら先生の話をきくのは難しいので、学びやすいやり方を許可してほしい」という意見も。
それぞれが学びやすいやり方をすんなりOKできない(人がいる)のはなぜか、という問題が浮き彫りになりました。

2)ルールやマナーの問題? 趣味や価値観のちがい? それとも???
他に、「隣の家に植わっている植物がどうしても気持ち悪いとしか思えず、迷惑に感じている」という例もでました。
「他者の権利や自由を侵害していなければ、よいのでは」という意見もあれば、「じゃあ、ゴミ屋敷の問題も価値観のちがいなのか?」というツッコミもあり、「様々な価値観をもつ人がいるなかで、ルールやマナーはどうやって成立しているのか?」という問いが浮かび上がりました。
そこから、マイノリティの問題にも触れられ、「みんなとちがうというだけで、『迷惑だ』と言う人がいるのはなぜか」という問題についても考えました。

3)「みんなちがって、みんないい」の違和感って?
さらに「この言葉のとおりであればいいと思う気持ちと同時に、これが教室の標語として貼ってあったら、違和感を抱くと思う」という率直な意見も。
これに対して、いくつかの意見(仮説)がでました。
「みんな、ちがう」と「みんなとちがう」の差異。
「みんなちがって、みんないい」と言いつつ、この信念を他者に押し付けているところ。
すでに多様性が認められている場所なら、こんな言葉は必要ないのではないか。
どこか他人事。
「みんなちがって、みんないい」は自分自身に語りかける言葉であって、他者に言う言葉ではないのではないか。
むしろ現実は「みんなちがって、しょうがない」ではないか。


こうして、いろんな論点や仮説、意見を行き来していて、私も気付かされたことが。
それは、「みんなとちがう」ことは決して悪いことではないけれど、そのことによって、本人の意図とは関わらず、相手がプラスアルファの配慮を要求されていると感じることはあるだろうなぁということです。(小中高生のころ、同級生よりTV番組や音楽に疎かったので、友達は共通の話題を見つけにくかっただろうなぁということを思い出し、そう思いました。)
そのプラスアルファの配慮は、余裕があればできることかもしれないけれど、余裕がないときは難しい。
「みんなとちがう」人を責めるのも、プラスアルファの配慮がない人を責めるのも、なんかちがう。
最初に例がでた学校の問題についても、生徒に犠牲を強いるのでも、先生を責めるのでもなく、学校システムが余裕のあるものになればいいのになと思いました。


というわけで、次回のテーマは「学校とは何か?」です。
9月13日(日)。
学校が好きな 人も、苦手な人も、ご都合があえばどうぞ気軽にご参加ください。

2015/08/15

こたつむりcafé「あなたは何者ですか?

こんにちは、まつかわです。
城下ステーションの8月の哲学カフェの報告を書こうとして、それより前に開催したこたつむりcaféの報告を書きそびれていることに気づきました。遅くなってごめんなさい。

7月31日のこたつむりcaféのテーマは「あなたは何者ですか?」でした。

最初に、私から今回のテーマのきっかけになった「恋愛感情などない相手から、『あなたを女性だと思ったことはない』と言われて(おそらく褒め言葉なのだけど)モヤっとした」という体験をお話しさせていただきました。
その後、参加者のみなさんからは、性に限らず、血液型、国籍、民族、文化圏、言語、職業、家族、成績、拘り、癖、病気、障害…様々な例がでてきました。
人はどのようにして自己認識を獲得するか?
自己認識が変化するのはどんなときか?
同じような性向をもっていても、それを自分のアイデンティティとして認識する人とそうでない人がいるのはなぜか?
自己が思う自分と、他者からみた自分がズレのどうしてか?
‥‥などなど、具体例から自己認識の謎に少しは迫れたでしょうか。

個人的には、総合成績別クラスがアイデンティティに及ぼす影響が衝撃的でした。
成績でクラスを分けるなら、科目ごとにしてほしい。
性とは全く関係ない例だけど、刷り込みがアイデンティティに与える影響は大きいという意味では、性の問題にも通じるところがありそうです。

次回のこたつむりcaféは、8月24日(月)。
なるべく金曜に開催することにしていますが、どうしてもスケジュールが合わず、月曜にすることになりました。
みんなでラブソングを持ち寄って語り合う予定です♪
詳細はこちらをご覧ください。

2015/08/14

NSD感想「『全員で登っている』という感覚」

こんにちは、まつかわです。
お盆真っ只中、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

7月に東京で行われたネオ・そくらティックダイアローグ(NSD)
のセミナーについて、ご受講くださった吉野さんより感想が届きました。
掲載の許可をいただいたので、ご紹介させていただきます。
特に、学校の授業に対話を取り入れたいという方、必読です!



勤務している高校で、補習として哲学対話に近い形で「現代文・小論文ゼミ」を行っています。その後早速、NSDで学んだ「誰も遭難しないこと」をより意識して進行するようになりました。やはり、いかに有限の時間の中で、全員が前提を理解し合意し、(私たちが感じたような)満足感を伴って下山までたどり着けるか、というのが難しいところではあります。しかし以前よりも、教室が「全員で登っている」感覚を増した気がします。そして「松川さんだったらこういう場面でこういう確認をしたな」とかを思うことが多く、改めて学ばせていただいたことにお礼申し上げます。

また、「全員が合意を形成していく」ということは、NSD前には「その通りだな」と思っても、体験することによって、その一段深い徹底ぶりと心地よさに驚き、体得することができました。学校教育では「学びの共同体」の理念の中で「一人残らず学びを保証する」という言い方がされますが、その目指すべき次元だけでなく、一人の尊い人間、共同体の成員、あるいは将来の市民として「理解」と「合意」をしていくことの心地よさを目指すものとして、理解が深まったように思います。

(吉野真文さん/春日部女子高校教員)



さて、吉野さんの感想のなかで、山登りの比喩がたくさんでてきました。
これは、セミナーで私が、NSDを山登りに例えて説明させていただいていたからです。

NSDには決まった手順があり、各々のステップで全員が合意(「納得」といったほうがわかりやすい人もいるでしょう)してから進むというルールがあります。
これ、頭で理解するのは簡単かもしれませんが、実際に実現するのは非常に難しい。
ついつい、「ちょっとひっかかるけど、みんながOKって言ってるからいいか」と、十分に納得できないまま進んでしまいます。
そして、その小さなひかっかりが、必ずと言っていいほど、後で大きな障害となって現れます。
ときには、対話を続けるのが困難な状況に陥ることも。

‥‥‥と言っても、体験したことのない人にはピンときにくいので、私はセミナーの最初にこう説明してます。
「NSDは山登りと一緒。①プロセスが大事、②時間と忍耐が必要、③置いてけぼりをつくらない!」。
すると、みなさん2日間の覚悟もできるし、遭難する前に「ちょっと、ひっかかるんだけど」、「疲れて頭が回らないから休憩したい!」、「いま山登りでいうとどの辺り?」というふうに、みんながどんな状態で今どこにいるのか、確認しやすくなります。
そして、「遭難」(対話を続けるのが困難な状況)を避けることができます。(哲学対話における遭難も、大抵、ちょっとした危険を見逃すこと、もしくは、現在地を見失うことから生じます。)

NSDセミナーは、 説明だけではわからない哲学対話の醍醐味を体感していただくための講座。
それはまさに、吉野さんがおっしゃる「『全員で登っている』という感覚」のことでしょう。

明日から2日間、大阪で「スピリチュアルケアについてのNSDセミナー」が開催されます。
参加されるみなさん、ぜひ対話の醍醐味をご堪能ください!


2015/08/11

8/23 空掘哲学café「おしゃべり」

こんにちは、まつかわです。
賛助会員の青木さんより、空掘哲学caféの開催情報が届きました。


空堀哲学café「おしゃべり」
あなたは「おしゃべり」をすることはありますか。何をすることが「おしゃべり」だと思いますか。何をすることは「おしゃべり」でないと思いますか。あなたは「おしゃべり」な人ですか。自分ではどう思いますか。ひとからはどう思われますか。「おしゃべり」な人はどんな人だと思いますか。「おしゃべり」でない人はどんな人だと思いますか。「おしゃべり」な人もそうでない人も一緒に考えましょう。

とき:8月23日(日)16:0018:00
ところ:道勝café
大阪市中央区谷町6-4-20(空堀商店街)
最寄り駅 谷町六丁目(谷町線)・松屋町(長堀鶴見緑地線)
参加費:ドリンク代(¥400600
定員:10名(要予約)
連絡先:thinkingcat.post@gmail.comNECOplace



2015/08/07

こども哲学〜絵本『せかいでいちばんつよい国』をみんなで読んでみよう〜

おはようございます、まつかわです。

昨日は、岡山市立高島公民館にて、「こどもてつがく」してきました。
昨年もお世話になった夏休みフリー塾の一環です。

昨年は『ともだちや』を読みましたが、今年は、「平和について考える機会を」という公民館さんからのリクエストもあり、『せかいでいちばんつよい国』を読んでみることにしました。

参加者は、年長〜小学4年生の7名に加え、大人2名(お母さん1名と高島公民館のスタッフさん)。
チラシには「対象:小学生」とありますが、毎年、お姉ちゃんと一緒にきた年長さんが、一緒に参加してくれるのもうれしいところ。
昨年に引き続き、2年連続で参加してくれた人もちらほらいます。

前半は、質問に答えながら、毛糸を巻き巻き。

昨年も参加した子が、トップバッターでお手本をみせてくれることに。

奇跡的にキレイな輪になっている瞬間。

「Q5.おばけ、しんじる?」で盛り上がる!

巻き巻きした毛糸でボールをつくったら‥‥‥

ぎゅーっとしめる。「焼き芋みたい!」の声多数。

ボールをパスしながら、それぞれの「よんでほしいなまえ」を確認。
全員呼ばれるまで何秒かかるかタイムを測ります(大盛り上がり)。
(スタッフさんも参加したので、写真はありません。
タイム測定に協力してくださった、お母さん、ありがとうございました!)

後半は、『せかいでいちばんつよい国』を読んで‥‥‥

みんな、ぐぐっと寄って、集中!

ボールをつかって、思ったこと、考えたことを話し合います。

「戦争をしに小さな国に行ったはずなのに、歌を歌ったり、石けりしたり、冗談を言って笑い転げている兵隊たちは、『けしからん』と思う?」 
自分も小さな国でお世話になっているのに、働きもせず、自分の国に帰りもしない大統領はずるい? 
「大統領は、どうして、自分の国ではなく小さな国の歌を歌ったのかな?」 
「もし自分が大統領だったらどうする? もし兵隊だったらどうする?」

『せかいでいちばんつよい国』を素材にした対話は初めてでしたが、みなさんのおかげで、この絵本の面白さ、奥深さ、見どころなどに気づくことができました。

最初はちょっと発言しにくそうにしていた子も、終わる頃には「はいはい!」と手を挙げてくれるように。
じっと座っているのが難しい子もいるけれど、畳の上でゴロゴロしていても、ちゃんと話はきいてくれている様子。
思っているより年齢差は感じられず、大人も一緒にできるのがわかったので、次回は「親子で参加も歓迎!」ってチラシに書かせてもらうかもしれません。




2015/08/06

NSDセミナー「役に立たないものにも価値はあるのか?」

こんにちは、まつかわです。
お待たせしました。
先月7月25日から26日にかけて、東京で開催したNSDセミナーのご報告です。

1日目の午前中。
ネオ・ソクラティックダイアローグ(NSD)について簡単に説明させていただいたあと、みんなで考える問いを考えます。
たくさんあがった問いのから、選ばれたのは「役に立たなければ価値はないのか?」。
これに決まりかけましたが、「ない」という否定形で終わる問いでいいのかどうかという疑問がわき、再度みんなで本当に考えたいことは何かを話し合うことに。
その結果、みんなで問いを「役に立たないものにも価値はあるか?」とつくりなおし、


つぎに、この問いに関する例(私の体験)をあげていきます。
個人情報が含まれるので詳しくは書けませんが、資格やバンド活動、ラーメン店行脚などの経験から、卒業アルバム、間違って購入したソフト、おへそなど、14もの例があがりました。
しかし、なかには、「それって結局、役に立ったってことじゃないの?」といったツッコミが入るものも。
本人が「役に立たないけれど価値がある」と思っても、他のある人にとっては「それは役に立ってると思う」というものがたくさんあることが判明。
全員が「役に立たないけれど、価値はある」と認めるごく少数の例から、さらに、全員が関心をもてるか、質問など吟味にたえられるか、なども考慮して、野球などチケットの半券の例が選ばれました。

その後1日目の後半から2日目にかけて、半券の例について、まるでショートムービーの脚本をつくるように楽しく記述したり、記述した文章から何がポイントか議論を重ねながら吟味を重ね、でてきた答えがこちら。



答えだけみると、とてもシンプルです。
シンプルすぎて、NSDを体験したことのない人のなかには、「2日間もかけて、この答え?」と思う人もいるかもしれません。
しかし、このシンプルな答えにたどり着くのが、どんなに大変なことか、体験したことがある方ならわかるでしょう。
実際、NSDセミナーで、全員で答えまでたどり着いたのは何年ぶりかというぐらい久しぶりのことです。

※全員で答えにたどり着けるかどうかの大きなポイントは、おそらく、例のシンプルさです。答えまでたどりつけなかった回の参加者が、劣ったりサボったりしていたわけでは決してありません。

※※今回、「思う」と「確信する」に絞りきれず、両方の表現を残しました。ここまで絞り込むまでに、「認める」、「考える」、「実感する」など、他にもたくさんの候補がありました。他の言葉も適当に選ばれたのではなく、そうした細かい吟味を重ねた結果、選ばれたものです。

もちろん、他の回と同じく、途中で「全員が合意できる答えがたどりつけるだろうか」と不安になる場面もなかったわけではありません。
そんななかでも、全員が率直に、妥協せず、かつ柔軟に対話を重ねることができるか。
そのためにはどうしたらよいか。
みなさん、互いに、そして自分自身を信じて、対話を重ねてくださった成果です。

今回のセミナーの目的は、そのプロセスを体験していただくことであり、最終的な答えはおまけのようなものです。
答えが出ればいいってものじゃありません。
でもやっぱり、こうして全員で答えを出せると、進行役としてほっとするのも事実。

参加してくださった9名のみなさん、おつかれさま。
そして、全員で答えにたどり着くという貴重な場面に立ち会わせてくださって、本当にありがとうございました。


ただいま、8月29日(土)、30日(日)に東京で開催する哲学ファシリテーターセミナー「質問力を鍛える?!」の追加募集をしております。
両日とも若干名の募集になります。
ご関心のあるかたは、こちらのページをご覧ください。


2015/08/01

テツドク!『性の歴史I 知への意志』

おはようございます、まつかわです。
一昨日昨日と、岡山にて進行役派遣の打ち合わせが2件ありました。
どちらも、誰かをケアする人が疲弊しないために、対話を通してエンパワメントしたいというご依頼。
哲学対話の可能性を、改めて感じさせていただきました。
ぜひ実現させたいです。


さて、7/24、東京ウィメンズプラザで開催したテツドク!では、ミシェル・フーコーの『性の歴史I 知への意志』をご紹介させていただきました。

「フーコーの名前は聞いたことがあるけれど、読んだことがなくて」という方、「本は持っているけれど、途中で挫折しちゃった」という方、「ジェンダー、セクシュアリティの問題に関心がある」という方、フーコー大好きという方。
参加の動機は色々です。

最初に、廣井さんからの3つの質問


  1. 研究対象としてフーコーを選んだのは?
  2. フーコーとデートしたら?
  3. フーコーの哲学は特にどんな人にオススメ?


に回答したあと、40分でフーコーと本の紹介をさせていただき、残りの1時間はみなさんとたっぷり対話を楽しみました。

みなさん、それぞれの関心と本の内容を結びつけるのが上手で、
「対話のなかで、性差による立場のちがいはどう対処したらよいのだろう?」
「中立というのはありえるか?」
「私たちが常に色眼鏡(知=権力)から自由になれないとしたら、その色眼鏡はどんなもので、それを私たちはどうやって知りうるのか?」
「フーコーが対象とする科学は純粋な科学とは異なるのでは?」 
といった切り口が印象に残っています。
そうそう、という指摘からはじまった、科学についての議論も面白かった!

もともとジェンダー、セクシュアリティへの関心からフーコーを読み始めましたが、フーコーの「主体」という概念は、対話についても私に様々な示唆を与えてくれました。
今回とりあげた『知への意志』もそうですが、他の本では別の角度から「主体」に関する面白い論を展開しています。
今回はウィメンズプラザでの開催ということで『知への意志』をとりあげましたが、また機会があれば、フーコーの他の本もご紹介できれば。

参加者のみなさん、コーディネーターをしてくださった廣井さん、楽しい時間をありがとうございました。