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2010/10/24

セミナー「人が病み生きるとはどういうことか?〜ホメオパシーにおける生命観」

10月22日(金)の中之島哲学コレージュには・・・

70名もの方が参加されました。大盛況。


講師の渡辺奈津さんに、ホメオパシーの視点から人が病み治るということはどういうことかについてお話いただきました。

事前の案内にはありませんでしたが、わたし(まつかわ)も自分の病気&代替医療体験をふまえて、患者の立場からホメオパシーの治療について質問を。それから、現代西洋医学とホメオパシー、それぞれに感じる可能性と限界を指摘させていただきました。

さらに、会場からは自らの体験をふまえたご質問や、ホメオパシー独特の原理に「わからない」、「ホメオパシーは『医療』なのか?」といった率直な感想や疑問も飛び出しました。

会場でもお話したように、わたしは、ホメオパシーの原理や治療に対して疑問もあるし、限界も感じています。
ただ、これまで言葉にできなかった身体の変化や状況を現代西洋医学よりうまく言い当てていると感じる部分もあり、現代西洋医学とは異なるの捉え方、語り方があることはとても興味深いと思います。
渡辺さんは「パラダイムシフト」という言葉を使われましたが、フーコーの思想を研究してきたわたしは「エピステーメー」という言葉を思い出したりしました。

さて、次回の中之島哲学コレージュは11月10日(水)。
ひきつづき「生命」をテーマに、「わたしのいのちはわたしのもの?」という問いにチャレンジします。

哲学カフェ「オレのことを歌で証明」

哲学カフェ:「オレのことを歌で証明」
日時:10月24日10:00-12:00
場所:とよなか国際交流センター
進行役:中岡成文
ゲスト:ナムさん(ラップ歌手)

中岡です。
とよなか「つながりフェスタ2010」(とよなか国際交流センター)で哲学カフェをやりました。ゲストは、臨床哲学の「移民対話コンポ分科会」でかかわっている神戸市長田区たかとりカトリック教会を拠点とするベトナム・コミュニティに属する、ラップ歌手のナムさんです。

参加者は最初10名内外でしたが、途中でナムさんがなまで歌ってくれたときは、(交流センターのスタッフが呼び込んでくださった)多数のちびっことその親たちが詰めかけて、一挙に30名以上に膨れ上がったように思います。歌を扱った哲学カフェは2度目だそうですが、それでも異色のカフェになったと思います。

最初にナムさんのCD "First Contact"から「オレの歌」(4分12秒)を参加者に聞いてもらいました。ベトナムからボートピープルとしてやってきた親たち、そして日本で生まれ育ったご自分の経験が歯切れのいい言葉とリズムで表現されています。私がいいと思っていた歌詞は、「感謝する戦争を生き抜いたじいちゃんに 有難う死なずに海を越えてくれたことに」「知らなかったぜマイライフ 始まりはボートピープル」「日本人になりきりすぎて 大切な母国語を話さなくなった」「オレはオレの事をオレの歌で証明」などです。

しかし、実は会場にナム君がいることを前半はあえて隠していたためもあり、ラップにはなじみがないという参加者から、「そもそもこの歌詞の内容は事実なのか、創作ではないと言い切れるのか」と質問が出て、意外な角度から対話に入っていくことになりました。かと思えば、「自分の姫路の職場にベトナム籍の若者がおり、周囲とうまくいっていないのに、ただ「がまん」して時間をやり過ごしているだけのように見える。どう接したらいいのかそのきっかけをつかみたい」と参加の動機を語る方もいました。

時間が半分ほど経過したとき、参加者の中にナムさんがいることを告げ、今度はベトナム語ヴァージョンの「オレの歌」やその他の歌をなまで歌ってもらい、会場は盛り上がりました。

 ライブの後ももちろん対話を続け、進行役にとっても興味深い発言、切り口が次々に出てきましたがここでは省略します。前述の姫路からの参加者に応え、ナムさんが、「ラップという表現方法に巡り合えて自分はよかったし、そのようにできない人は自分が代わって表現したい」と宣言したのが印象的でした。

ブログへの投稿は初めてで、もたついた報告になったかと思います。読みにくくてごめんなさい。

2010/10/22

シネフィロ/パウ・ブラジル〜音楽の樹

中川です。

ほそぼそと続けているシネマ哲学カフェ。
10月の参加者は4名でした。

ブラジル映画祭の中から、音楽の「資源」という観点から環境問題を訴える
ドキュメンタリー作品「パウ・ブラジル」を取り上げました。

ブラジルという国の国号の由来になっているのに、自国民もあんまり存在を
知らないという悲しい樹「パウ・ブラジル」は、絶滅の危機に瀕しています。
でも、この樹が無くなったからって何が困るのか?
実はこの樹、バイオリンの弓の部分の材料として最も優れていると音楽家たち
の高評価をひとりじめにしているのです。染料として乱伐され、危機に瀕して
いる樹の評価が、音楽家たちによって語られていく・・・

まず、こんなことが話題になりました。
樹の価値と音楽という文化的価値が天秤にかけられているようだ。
樹を保護する意識は、音楽によって駆り立てられるだろうか。

ここで、映像を見た人たちの間で意見が割れました。
それは、音楽の「価値」に関わることです。

もし、この映画が一般的な「環境問題」の重要さを述べ立てているとするなら、
あんまり説得されないね、という意見がでました。
なぜなら、「音楽家」という人たちが「高尚な」文化としての音楽を奏でている
姿は、彼らの「価値」でしかないのであって、我々からは遠いものに感じられる
からです。

そのことはプロの白人たちが陶酔しながら演奏する映像に、遠いものを感じるか
どうかということにかかっていました。もちろん、それを遠くないと言う方もい
ました(その方は趣味でバイオリンをやっておられましたが)。
現地のブラジルの子供たちが、あまり楽しくなさそうにバイオリンを弾く姿が、
どこか音楽の「価値」が一部の人たちのものであることを象徴的に表しているの
ではないかという意見もありました。

ひさびさに、環境の「価値」について考えることができました。

終わったあとに「自分とは違う映画の見方を知ることができたので、楽しかった
です」と仰ってくださった方がいました。励まされますね。

11月は、「ソフィアの夜明け」という作品で行います。

乞うご期待。

2010/10/21

グリグラ哲学カフェ「許すのはなぜ難しいのか?」

今週火曜日は、神戸の育児サークル〈グリーングラス〉と一緒に開催している「グリグラ哲学カフェ」で進行をしてきました。
テーマは、「許すのはなぜ難しいのか?」。
「子どもの病気を最初は許せなかった」という参加者からの提案です。

子どもの病気、夜更かし、脱税、駐車場に植木鉢を置く人などを例にあげながら話していると、次々と疑問が浮かび上がってきます。

たとえば、「同じ行為でも、あの人は許せるけどこの人は許せないっていうこともあるよね」という話からは、こんなやりとりが・・・。

Iさん「大人は夜更かししてもいいけど、子どもの夜更かしは許せない!」
進行役「どうして?」
Iさん「成長ホルモンがでなくて、身長が伸びないから」
進行役「身長が低いのは許せないこと、ですか?」

身長145cmの進行役に尋ねられて、「許せない」なんて言えるわけがない。
答えに窮するIさんを見て、一同爆笑。
Iさんも笑って、なぜ子どもの夜更かしが許せないのか、もう一度考えます。
すると、Iさんは、「結果的に低いのは仕方がない。でも、できるだけの努力はしたほうがいい。やるだけやったら、結果がともなわなくても許せる」と、結果より行為を重視していることがわかりました。
そして、ここからまた問いが生まれます。


「許す/許さない」の判断基準は人によってちがう。 
誰の判断を優先させるべきか? 


その他にも、こんな疑問がでてきました。



許すってどういうこと? (受け入れること? 認めること?)
「許す」の反対は? (怒り? それとも、無関心?)
「許す/許さない」を自分でコントロールできる?
「許せない」と「許さない」のちがいは?
自分がラクになるために許してもいい?


もちろん、たった1時間半ですべての疑問に答えることはできません。
でも、参加者のみなさんはそれぞれ、自分なりの気づきを得たようです。
そして、進行役の私も・・・
哲学カフェは問題解決をさぐる場ではありませんが、自分のなかの「許せない」という感情とどうつきあっていくか、ヒントを得られた気がします。

日常生活のなかのリアルな問題から、ときに脱線、ときに笑いをまじえながら、自分たちで答えを探ってゆくグリグラ哲学カフェ。
次回は11月16日(火)の予定です。

2010/10/19

病院での倫理カフェ

 本日、大阪市内のとある病院にて、「倫理カフェ」という名前の対話セッションをカフェフィロの進行で行いました。これは去年度からこの病院の倫理検討会の延長で行われているもので、なんと毎回50人強の医療職の方が忙しい勤務の間をぬって参加されています。当然、一つのグループではなく、五つ程度のグループに分け、それぞれにカフェフィロの進行役がついて対話を行っています。

 今日の倫理カフェのテーマは「自然に死ぬということとは?」というテーマでした。参加された方は、共有している事例のことや、医療者としての経験、他のケースから思ったこと、あるいは一個人としてどう思うかなどいろいろな観点から意見を出していきました。
 あるグループで進行役を務めた私の発見は「自然に」という言葉がいくつかの意味で使われているということでした。人為的な手を加えない、naturalな死、という意味で「自然」という言葉が使われることもあれば、ある文化や集団において一般的であること、normalな死、という意味で「自然」という言葉が使われることもある、という指摘がありましたし、「あるがまま」の死も「自然」な死と考えられるのでは、という意見もありました。
 一人の参加者の方が「人間が一人で生きているのなら、手を加えないという意味でのnaturalな死を迎えられるかもしれないけど、社会や文化、あるコミュニティの中で暮らしている以上、naturalな死というのはありえないのではないか」と言われたことが印象に残っています。文化のなかでの「自然な死」とは何なのでしょうか。
 個人的にはそれと同じくらい「死を受容して生き終えること」が気になってはいます。

 カフェフィロではこのように、病院や職場、学校や地域で哲学カフェや対話ワークショップが行ってみたいという方に対するアドバイスや進行役派遣も行っています。一緒に対話の場所を作っていけるようカフェフィロも知恵を絞りますので、こんなことがしてみたい、ここで対話ができるか、などお気軽にお問い合わせください。

2010/10/18

哲学カフェ「クジラを食べてもよいか?」

中之島哲学コレージュは、京阪なにわ橋駅構内で大阪大学が開催しているラボカフェの一シリーズ。
先週水曜は、「クジラを食べてもよいか?」というテーマで哲学カフェを開きました。


こんなふうに、本当に駅構内でやってます。
オープンなので、通りすがりに「なんだろう?」と覗いて、そのまま参加される方もちらほら。


アクセスがよいので色んな人が集まります。
この日も、20代でクジラを1度も食べたことがないという方もいれば、おそらく私の父と同じ世代の「クジラ大好き! 給食が懐かしい」という方も。
たった一つのテーマから、クジラを食べるのは日本文化といえるかどうか、環境問題、捕鯨とグローバル経済の関係など様々な問題が指摘されました。

最後にカフェマスターの本間さんが、進行役の森本さんに感想を尋ねると、
「捕鯨や鯨食について『文化の問題である』という声が予想以上に多くて驚きました」
とのこと。
参加したみなさんはいかがでしたか?
私は、様々な意見をきいて、父がうれしそうに「おばけ」を食卓に並べる姿を思い出し、文化や生態系の変化をどこまで受け入れるべきかどうか頭を悩ませました。

次回の中之島哲学コレージュは10月22日(金)。
何かと話題のホメオパシーから、「人が病み治るとはどういうことか」について考えます。
詳しい情報はこちら

2010/10/17

はじめまして、カフェフィロです。

カフェフィロは、社会のなかで生きる哲学を探究し、その実現にあたるとともに、哲学とともに生きる人たちをサポートする団体。
各地で哲学カフェや対話セミナーなどを開催し、市民がみずから哲学的対話・議論を営むお手伝いをしています。

詳しくはカフェフィロHPをご覧ください。

こちらのdiaryでは、カフェフィロ正会員によるイベント報告や近況をお届けする予定です。
ブログ初心者が多いけど、なんとかなる!のか???
乞うご期待。