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2015/01/24

わすれられない おくりもの〜青木さんより感想

こんにちは、まつかわです。
1月21に開催した中之島哲学コレージュ「わすれられない おくりもの」について、進行の青木健太さんより感想が届きました。
今週末、私はNSDセミナーでいっぱいいっぱいだろうので、予約投稿でお届けします。




前回の『だいじょうぶだよ、ゾウさん』は見送るまでの話で、今回の『わすれられない おくりもの』は見送った後も描かれるお話です。みんなから慕われ、頼りにされていたアナグマが死に、残された友だちはアナグマの思い出を語り合うことでその死を受け入れていきます。

いつも以上に対話の展開が予想できない絵本で、やってみるとやっぱり予想外の話がかなり多くありました。いま振り返ってみるとどんな話の流れだったか、いつもより思い出せません。たぶん、対話全体のすがたより、話してくださったことの一つ一つを私自身が聞いていたのだと思います。

アナグマは「ちえやくふう」を残したとお話のなかにあります。残されたものに「感情」に関することがない、という意見が出ました。たぶん、これがきっかけでアナグマとその友だちの「感情」や「気持ち」に参加者の皆さんの考えが出始めました。

アナグマの思い出を語るのはモグラ、カエル、キツネ、ウサギなのですが、そのうちモグラはアナグマから紙細工を教わります。そこに、初めはうまくいかなかったけれども、できるようになったときのうれしさは忘れられない、とあります。一応、ここに気持ちは出てきますが、みなさんの考えはここだけに留まりませんでした。

一つは、アナグマの友だちはアナグマが残してくれた「ちえやくふう」より、それを教えてくれたアナグマの「気遣い」や「思いやり」を大事に思っていた、という考えです。何を残すかよりも、教えようとしてくれたその気持ちが友だちには大切に思えた。極端な話、教えるのが下手なせいで「ちえ」も「くふう」も残らなかったとしても、それを伝えようとしてくれた思いは残るということです。

 もう一つ、アナグマの友だちが、アナグマに教わった以上のことを自分でできるようになっているところを考えたものです。わかりやすいのはキツネの話で、アナグマからネクタイのむすび方を教わります。その後、キツネは色々なむすび方ができるようになり、自分でむすび方を考えるようにもなります。これをみると、アナグマはただ教えるだけでなく、教えたことをきっかけにさらに先にすすめるような工夫をしていたことが窺えます。相手の可能性を引き出すような感じでしょうか。それに、ただ単にむすび方を教えるだけでなく、教えながら色んなことを話したはず。悩みごとの相談にのったりしていたかもしれません。それもまた、残していく友だちのことを心配していたアナグマの「気遣い」だったわけです。

この二つのことに、アナグマが友だちを思いやるのは友だちの一人一人と向き合っていたからだ、という考えがつながってきます。アナグマは自分のことを誰かに覚えさせようとしていたわけじゃない。それでは相手と向き合わず自分のことばかり考えているだけ。たくさんの友だちがアナグマの思い出を語るのは、アナグマが親身になって自分と向き合ってくれたとみんなが感じていたからだろう。だからこそ、アナグマの気持ちや思いが友だちのなかに残ったということです。

誰かの中に何かが残るとすると、それは人と人との関係が鍵になるわけです。ある人がいかに優れているかということだけではなくて、その人が誰とどんな風に関わったのかが大事ということです。

ちなみに、現実的には良い思い出ばかり残るとはかぎらないのだから、アナグマの話はキレイすぎるとも思えます。そんな指摘もありました。でも、それが絵本としての演出かどうかを脇において、人が死ぬことを私たちがどう受け入れているのかを考えることもできると思います。

 ところで、アナグマは死んだら「からだ」がなくなっても「こころ」は残ると確信しているようでした。なぜ確信できるのか聞いてみると、参加者の方はアナグマの中に誰かの心が残っているから、と話されました。

亡くなった人の思い出は不思議なことにだんだんと良い思い出が際立ってくると、ご自身の経験を話してくださった方がいました。悲しみは思い出語りのなかで少しずつすがたを変えていくようです。思い出の懐かしさと共に、亡くなった人がいまはもういないという悲しみも同時に感じます。それを繰り返していくうち、徐々に悲しみが受け入れられていくようです。

対話を始めて最初の頃に、死は死ぬ本人のものか残される人のものか、という問いかけをされた方がいました。そして、最終的には死ぬ本人のものだと思うけれども、残された人のものではないとも言い切れない、と話されていました。同じ方が対話の最後に同じ問いかけをされ、また同じように迷われていました。

アナグマもこころは残るから死は恐くないといいながら、友だちのことが気にかかっています。その気持ちを考えて、アナグマも実は揺らいでいたと思うと言われた方がいました。残されるほうでも、どんなに思い出語りをして亡くなった人にお世話になったことを思い出しても、それを伝える相手はもういないからやるせない気持ちになる、と言われた方がいました。


問いかけて、それに答えを与えきらず、迷いを残す揺らぎ、それを魅力的なものに感じました。揺らぎ続けることが死について考えることなのかもしれません。今回は、死が「生き生き」と私たちのなかでかたちをかえていく様子を見ていたのかもしれません。

2015/01/23

共感するってどういうこと?〜「わかる」の功罪

こんにちは、まつかわです。
連続の投稿ですみません。

本日午前中は、岡山市立高島公民館のご依頼で、哲学カフェの進行を務めてきました。
ニューズレター『哲学喫茶瓦版』12月号でインタビューにご協力くださった儀三武さんとのお仕事です。
女性応援講座のなかのいちプログラムなので、女性対象の哲学カフェです。

テーマは「共感するってどういうこと?」でしたが、話し合った内容を一言で表現すると、「『わかる』の功罪」でした。

「友だちに『わかる、わかるー』って言われたけれど、その人と置かれている状況が全くちがうのに何がわかるの?と疑問に思う」という発言を中心に、他の体験談もおり挟みつつ、どうして「わかる」と言われるとイヤな気持ちになるのか、「わかる」と言う人はなぜそう言うのか、「わかる」と共感は同じか、逆に「わかる」と言ってもらえてうれしいのはどんなんときか・・・などなど話し合いました。

たくさん話し考えるうちに、イヤな「わかる」とうれしい「わかる」があること、言い方やタイミングによっても異なること、また言葉より頷きや背中をなでてくれるほうが「共感」を感じることがあること、「わかる」にも「hear」「understand」「agree」など色んな意味があること、いったん受け入れてもらうことの大切さ・・・たくさんの発見がありました。

私も、友人に「簡単に『わかる』って言わないで」と言われたことがあります。
長らくそれが苦々しい思い出になっていたのですが、今日、みなさんの声をきいて、「むしろ、あんなふうに言ってもらえる関係でよかった」と思えるようになりました。
なんとなくですが、自分の失敗談は「わかる、わかるー」と言ってほしいけれど、悲しいことや苦しいことは、「わかる、わかるー」と言われると気分を害することが多い気がします。
「わかる」という言葉には、よくもわるくも、深刻さを「軽くする」作用があるのではと思いました。

今年度の女性応援講座の最終日なので最後の30分は来年度何をやりたいかを考える時間にしたいという公民館からのご希望で、哲学カフェは1時間半と前回より短かったのですが、前回された方が口火をきってくださったおかげで1時間半でも充実した時間になりました。
ご参加くださったみなさん、高島公民館のみなさん、ありがとうございました。



参加者のみなさんのおかげで、来年度もこの講座に関わらせてもらうことになりそうです。
今日のみなさんの意見を参考に儀三武さんとテーマを考えますので、一緒に話し考えることを楽しみましょう。


NSDセミナー、講師変更のお知らせ

こんにちは、まつかわです。

すでに受講者のみなさんにはお知らせしておりますが、今週末、尼崎にて開催するカフェフィロセミナー「ネオ・ソクラティックダイアローグ(NSD)を体験しよう」の講師を変更させていただきます。

川崎さんが講師をされる予定でしたが、体調不良のため、私、松川が講師を務めさせていただきます。
講師のキャラはだいぶ変わってしまいますが、セミナーの内容には変更ありません。
ご理解・ご了承のほどお願いいたします。

哲学カフェに関して、ときどき「結論を出さないと物足りないのでは?」という質問を受けますが、そういう方にはNSDはぴったりです。
みんなが納得できる一つの答えを出すには、どれだけの時間とエネルギーが必要か、それがどんなに根気のいる作業で、それと同時に、どんなにたくさんの気づきをもたらしてくれるか、実感していただけます。

そんなわけで、どんな対話が繰り広げられるのか、とても楽しみです。

哲学カフェなどでは「参加型進行役」の私(進行役のくせに自分の意見も言うし、ときには参加者に悩みをきいてもらうこともあります)も、NSDでは真の進行役に徹します。
それもまた楽しみです。

参加されるみなさん、今夜はゆっくり眠って、明日はリラックスできる格好でお越しいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。


2015/01/22

わすれられない おくりもの

おはようございます、まつかわです。
昨日の中之島哲学コレージュは「わすれられない おくりもの」。
青木さんと絵本を通して死を考える第3弾でした。



参加者は39名。
寒い中、たくさんのご来場ありがとうございました。

私もこの絵本持っているんですが、やっぱり一人で読むのと、いろんな人たちの感想をききながらと読むのとは全然ちがいますね。
青木さんが「予想どおり、予想外の意見ばかりでした」と感想をくださいましたが、本当にそのとおり。

「『からだはなくなっても心はのこる』の『心』ってなんだろう?」という話に考えさせられ、「心が残らないとめちゃくちゃ悪いことをやってしまいそう」という視点に笑いながらも「そういう視点があったか」と感心し・・・。
行間の読み方に、みなさんの経験や思いの深さを感じました。

この絵本を通して考えるシリーズは、こころなしか、みなさんの言葉遣いや語り口もやわらかい気がします。いろんなことに思いをめぐらしながらも、聴き入ってしまいました。



青木さんはすでに第4弾の素材となる絵本を見つけたようです。
また詳細が決まり次第、カフェフィロやCSCDのサイト等でお知らせします。
お楽しみに。



2015/01/19

NSDセミナー、キャンセルが出ました。

こんにちは、まつかわです。

今週末の1月24日(土)0〜25日(日)に開催予定のカフェフィロセミナー「哲学対話入門:ネオ・ソクラティックダイアローグを体験しよう」でキャンセルが出ました。
直前ですが、両日とも参加いただける方を募集しております。
参加したいという方がいらっしゃいましたら、カフェフィロ事務局までお申し込みください。


セミナー詳細はこちら

お申し込み先は、info★cafephilo.jp(★を@に置き換えてご送信ください)です。

1/24 小金井哲学カフェ「おまけについて」

おはようございます、まつかわです。
小金井哲学カフェより次回の開催情報が届きました。


日時:1/24(土)18:00-20:00

テーマ:おまけについて

お得意様ということで値段を安くしたり、おもちゃが付いた缶コーヒーが売られたりすることがあります。本来支払うべき値段より安く買えたり、買ったもの以外のものがもらえると嬉しいと感じるでしょう。

一方で、このような商習慣は不健全・不公正と考えられるかも知れないし、おまけと本体の主従関係が逆転したようなおかしな状況になることもあります。

今回は、おまけについて話し合いたいと思います。

主催:小金井哲学カフェ 進行:花野


会場など詳細は小金井哲学カフェのサイトよりご確認ください。



2015/01/17

1/25 空堀哲学カフェ「信じる」

こんにちは、まつかわです。
賛助会員の青木さんより、空堀哲学カフェのお知らせが届きました。
シンプルで深いテーマです。


空堀哲学café
テーマ:信じる
あなたが誰かを信じているとき、それをどうやってその誰かに伝えますか。どうやってあなたはその誰かに信じてもらいますか。誰かを、何かを信じるためには理由が必要ですか。それとも、信じるために理由などいりませんか。「信じる」とは何をすることでしょうか、一緒に考えましょう。

とき:125日(日)16:00~18:00
ところ:道勝café
大阪市中央区谷町6-4-20(空堀商店街)
最寄り駅 谷町六丁目(谷町線)・松屋町(長堀鶴見緑地線)
参加費:ドリンク代(¥400~600
定員:10名(要予約)

連絡先:thinkingcat.post@gmail.comNECOplace


こたつむりカフェ「友情と恋のちがいって?」

おはようございます、まつかわです。
昨日、やっち(岡山市北区奉還町)で開催したこたつむりカフェを開催しました。
愛や性に関するテーマで、哲学カフェをしています。




===こたつむりカフェのfacebookページより転載===

昨日のこたつむりカフェでは、「愛と恋について語る」の回にでた問い、「友情と恋のちがいって?」について考えました。

いろんな仮説を検討しましたが、大きな柱となったのは、「恋愛は一緒にいることや関係そのものが目的で、友情は何か別の目的があって一緒にいる」という説でしょうか。検討していくうちに、「恋は排他的な関係を望み、関係自体が目的となる」、「関係性とは機能である」、ポリガミーと恋の制度性など、予想以上に話題が広がり、「このテーマでこんなに遠くまでいけるのか」とびっくりしました。

「『友情』という言葉は馴染みがない」という発言から、「友だちと恋人はどうちがう?」と問いを変換してみたり、「親友」という言葉について考えてみたりもしました。

もちろん、「性的対象となるかどうか」も友情と恋を分けるポイントとして挙がりました。前半、この説を支持する声は少なかったのですが、後半、途中から参加された「男女間の友情は(基本的に)ない」派の方がさりげなく触れていましたね。

語れば語るほど、最初から最後まで一貫した考えの人と、話すうちにどんどん謎が深まっていく人との差が広がっていくのが面白かったです。後者の人は、終盤、「友情と恋はいかに近いか」について熱弁をふるうことになりました。

結局、「友情と恋がどうちがうか」については、本当に人それぞれ感覚がちがうということを実感させられるばかりで、みんなが納得する答えを見いだすことはできませんでした。
しかし、2時間語り終わった今では、その認識のギャップこそが恋の鍵、彼(彼女)のあの行為は恋心か友情かどちらからくるのだろう?という謎こそが恋心を焚き付けているのではないか、などと思ったりしています。

【今後考えたいテーマ】
「独占欲」、「結婚」


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まだ日程が確定していませんが、同じくやっちで、来月あたりに、「マイノリティカフェ」をやろうと計画中。
互いの○○マイノリティについて語りながら、自分のなかのマイノリティ性とマジョリティ性を見つめる時間をと思っています。
また日程が決まったら、カフェフィロHP等でお知らせします。(メルマガは〆切に間に合わないかも。汗)

2015/01/07

連載「震災を〈看る〉?〜対話をとおして専門性をほぐす」

おはようございます、まつかわです。
昨日に引き続き、掲載情報をお届けします。

昨日の記事でも紹介されていた、カフェフィロ副代表の西村高宏さんが、「かんかん〜看護師のためのWebマガジン」(医学書院)にて、震災と対話に関する連載を始めました。
東北福祉大学の近田真美子先生(精神看護)とのリレー連載だそうです。

↓クリックで連載ページに飛びます。
「震災を〈看る〉?〜対話をとおして専門性をほぐす」
第1回 〈対話〉のチカラ(1)

Webマガジンなので気軽に読めて、ありがたいですね。

西村さんの活動の話、何度きいても飽きません。なぜでしょう?
東北の震災が投げかけた問題の大きさのせいもあるのでしょうか、中心的なテーマとしてとりあげられている「負い目」というキーワードが気になるから?
いつも心のどこかで気になりつつ、未だに自分自身がなぜ気にしているのかわからずひっかかっていて、一度仙台を訪れて西村さんと一緒に考えたいなぁと思うのですが、なんせキーワードが見つからないので企画がなかなかまとまらず・・・難しいなぁ。





2015/01/06

2014年12月24日(土)日本経済新聞「『語る』『聴く』哲学 広がる」

あけましておめでとうございます、まつかわです。
年末年始、いかがでしたか?

私は、休みのうちにたまった報告やら企画を片付けようと思っていたのに、実家のおせち隊員としてかり出されて全く進まず。
たまった仕事を前にどんよりしていましたが、哲学カフェやカフェフィロのセミナーの参加者の方からいただいた年賀状を読んで、ちょっと気持ちを持ち直したところです。

さて、名古屋哲学カフェの安田さんが教えてくださったのですが、2014年12月27日(土)の日本経済新聞40面に「『語る』『聴く』哲学 広がる」という記事が掲載されてました。
(安田さんは名古屋哲学カフェの参加者の方が教えてもらったそう。教えてくださったYさん、ありがとうございます。)

カフェフィロの西村高宏さんや西川勝さん活動が紹介されています。
ご関心のある方は、新聞、あるいはこちらよりどうぞ。

最近は、様々な人が各地で哲学カフェを開いていますが、この記事で紹介されている活動は本当に「臨床哲学の実践」と呼べるものだと思います。
全ての哲学カフェが「臨床哲学」である必要はないけれど、やはり誰かの抜き差しならない「臨床(=現場)」での対話は、その難しさを知っているだけに、震えるほど尊敬してしまいます。
また、「社会のなかで生きる哲学」の実現をミッションとして掲げている以上、カフェフィロにとっても欠かせないものなのだろうなと感じています。