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2013/08/28

9/6 小金井哲学カフェ「似ているとはどういうことか」

こんにちは、まつかわです。
昨日は神戸で哲学カフェ、大阪で哲学教室でした。こちらの報告はまた後ほど・・・。

今回は、賛助会員の佐土原さんより小金井哲学カフェ開催のお知らせです。



日時:9/6(金)19:00-21:00

テーマ: 似ているとはどういうことか

場所:カフェ  broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)

料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)

主催:小金井哲学カフェ 進行:佐土原


このテーマは・・・どんな意見がでてくるかはもちろんのこと、どんな体験談や例がきけるのかも気になりますね。
参加をご希望の方は、小金井哲学カフェのサイトよりお申し込みください。



2013/08/26

ミルトーク「憧れと模倣」〜オリエント美術館特別展「古代ガラス」を観て語る〜

こんにちは、まつかわです。
昨日は岡山オリエント美術館にて、ミルトークを開催しました。

ミルトークとは、アート作品をみて、感じたこと考えたことを話し合う。
いわば哲学カフェのアートバージョンです。




何度かミルトークを開催したことはありますが、これまで取り上げてきたのは現代アートばかり。
現代アートの作品なら、なんの説明もなしに、作品をみていきなり感想を語り合えばいい。
しかし、この美術館で展示されているのは古代美術。ちょっぴり知識が必要です。
そこで、最初に、主任学芸員の須藤寛史さんに説明をしていただきながら、作品を鑑賞することにしました。

全ての作品について語り合う時間はできないので、特別展「古代ガラス〜色彩の饗宴」のなかから、ラピスラズリやトルコ石などに憧れてつくられた青いガラスと、大理石に憧れてつくられた「マーブルガラス」などに絞って鑑賞していきます。

貴石について説明してくださる須藤さん

スパイラルガラスの復元映像を観ながら
こうして、作品を鑑賞したあと、別室に移動し、お茶をいただきながら作品の感想を語り合いました。

展示室ではゆっくり話せないので、別室へ。
さきほど観た作品の写真を印刷しておきました。

最初に話題にあがったのは、古代の人々はなぜ青い石に憧れたのだろう、なぜ大理石に憧れたのだろう、という疑問。
私は、ラピスラズリや大理石が稀少な石だからかなと思っていたのですが、参加者からは、「青は空や海など自然にある色だからではないか」「大理石の模様には、時間が織り込まれているからでは」といった興味深い意見がでてきました。
そこから、ラピスラズリのような青が人に与える印象や、石やガラスが出来上がるまでにかかる時間の貴さなど、作品がもつ色や質感からくる印象についての言及。

それから、今回テーマに選んだ「憧れと模倣」の関係について。
小さいころ何に憧れたか、憧れのものを模倣するときの「近づきたい」という気持ち、模倣なしに物をつくることは可能か、さきほどみたガラス作品は宝石の「にせもの」なのか、それとも宝石とは別の価値をもつのか、新しい価値はどうやって生まれるのか・・・といった論点について意見が交わされました。

特に盛り上がったのは、大理石に憧れてつくられた「マーブルガラス」と、そこから発展した「スパイラルレースガラス」とのギャップについてでしょうか。

アラバスター文長頸瓶
伝イラン出土 前1世紀後半1世紀
岡山市立オリエント美術館蔵







これは確かに大理石の模倣をしたものだけど・・・

スパイラルレースガラス碗
東地中海地域 伝クレタ島出土 前2世紀 大英博物館蔵
©The Trustees of the British Museum

これは、果たして???

「もはやマーブルの痕跡がない」
「模倣ではない」
「まったく別の新しい価値がある」

etc...





自然がつくりだした貴石への憧れから、最終的に、創造することへの憧れ、創造主としての神へ憧れという話題にまで展開しました。
まさか、神という話題についてこんなに盛り上がるとは思っていなかったので、びっくりしました。

誰かの発言をきくたびに、作品のみえ方も変わるような気がして、打合せ時にひとりで鑑賞したのとは全くちがう楽しさがありました。

最後に、せっかくだからともう一度展示室にもどって、先ほど素通りした残りの作品についても、須藤さんに解説していただきながら鑑賞しました。
ここまでしてくださるなんて、本当にホスピタリティあふれる美術館です。

解散の後、岡山大学の岩淵さんと「いい美術館だし、またやろうよ」と、意気投合。
早速、須藤さんと次のコラボ企画について相談して帰ってきました。
こちらは、じっくり準備して、来年実現予定です。お楽しみに。


来月は、通常通り、岡山大学のまちなかキャンパスにて哲学カフェを行います。
9月22日(日)13:00より、テーマは「家族サービス」です。
詳しくは、こちらをご覧ください。

2013/08/25

8/20 女性のためのてつがくカフェ「女性と世間体」

こんにちは、廣井です。
8/20に女性のためのてつがくカフェ@光明寺を開催しました。
本来ならオープンテラスで行うなずでしたが、かなりの暑さに断念。。光明寺さんのご厚意で急遽お寺のなかの一室を使わせていただくことになりました。

今回のテーマは「女性と世間体」です。

●世間は窮屈?
まずは、世間体を巡るさまざまなエピソードから。自分の母親やお姑さんを代表とする上の世代の人は「世間体に縛られている」あるいは「がんじがらめになっている」が、それは自分で自分を縛っているにすぎない、また、世間は自分を映す鏡のようなものだから決して逃れることはできないという意見など、「世間は窮屈なもの」ということに参加者が頷きながらのスタートとなりました。

●世間のない世界もある?
次に、世間の無い世界は可では?という問いが立てられました。ツイッターに代表されるようにネット上では匿名も可能だから世間のないの世界も可能では、ということに。しかし、いくら「匿名の私」であってもそれを取り巻くように世間は必ずできるし、仮にネット上では匿名で生きられても実生活ではできない。というのも、継続したい(しなければならない)人間関係がある以上そこには世間が生まれるのだから。それも一つではなく、いくつもある、という意見も。

●良い世間とは?
世間とは切っても切れない関係がある以上、悪い面ばかりでなく良い面もあるのでは?との問いかけに、たしかに心地よい世間もあるということでした。つかず離れずの程よい緊張感がある関係の中には「良い世間」が生まれるらしい。どういうものなのかというと、他人から言われるではなく自分の中から生まれた規律、もしくは自分が決めた規律に従うのであれば気持ちがいい、自分が積極的に関わるコミュニティーは心地よいなど、所与のものとしての世間ではなく、主体的に関わることができる世間であれば決して悪くはないということでした。



とくに、お子さんをお持ちの方が感じるのは「知っていてもらえる安心感」だそうです。知っているけど普段はあえて口出ししない、けれど困った時には助けてくれる世間というものが確かにある。そういう世間とつながっていたい思えるのは子どもを産んでからだそうで、理由は一人でできることには限界があるからとのことでした。こうした見守り型世間は子育てに限らず高齢者にも当てはまり、良いコミュニティーには不可欠ということになりました。

●「違い」こそが世間の生みの親?
後半はおもに目に見える関係中心に「世間話」は進みましたが、見えない世間について次のような意見がありました。自分以外の人間と関係を作っていかなければならない以上、自分と他者の「違い」が現れ、その違いの何を問題にするかによってその人固有の世間が生まれてくる、つまり「世間に実体はない」という意見はとても新鮮でした。対話の冒頭に出た意見「世間は自分を映す鏡」にも通じています。とすると、他にも話題になった、文化やジェンダー、障害など、さまざまな「違い」を意識することによって初めて顕在化するのが「世間」ということになります。「違い」についてはまだまだ話し合いたかったのですが、時間になりお開きとなりました。

20代から50代までの女性たちによる「世間話」は嫁姑問題、結婚問題、親子問題、教育問題など多岐に渡るものでした。なお、ジェンダーと世間が話題になった際に、男性よりも女性の方が世間体を気にする傾向がありそれは女性の本質であるという意見が出たので、これについてはぜひ別の機会に話し合ってみたいと思います。                                                                             

                                                                                廣井 泉









プラズマみかん「わんころと揺れ雲をめぐる冒険」〜震災をモチーフに災害の「その後」を描く〜

こんにちは、まつかわです。
昨年12月に、中之島哲学コレージュ「いま、阪神大震災を語るということ」にゲストとしてお越しくださった、プラズマみかんの中嶋悠紀子さんより、公演のお知らせが届きました。
コレージュでもお話しくださった「わんころと揺れ雲をめぐる冒険」の改作版だそうです。




〜中嶋さんより〜
阪神大震災をモチーフに、被災地とその周辺地、被災者と支援者が混ざり合う場所で、大きな災害があった「その後」がどのようになっていくのか。ミクロなエピソードを紡いで大きな問題に向き合いたいと取り組んでいる演劇作品です。
2011年の初演時には、その時にしか語れないことがあっちゃおうに、今回もまた、今だからこそ描けるものがあるのではないかと、時間が作品の変化を促しているようにも感じられる作品です。クロストークで交わされた内容と通じることも多いと思いますので、ご多忙かと思われますが是非一度、劇場に足をお運び頂けると幸いです。

公演は、9月5日〜8日、芸術中心◎カナリヤ条約(大阪市営地下鉄四つ橋線「北加賀屋」駅より徒歩8分)にて。
詳細はこちらをご覧ください。

2013/08/24

10月の対話する哲学教室は、29日(火)です。

こんにちは、まつかわです。

二ヶ月に一度、さする庵にて開催している「対話する哲学教室」。
10月は29日(火)19:00-21:00に開催することになりました。

テーマは芸術の秋にちなんで、「“アート”の目的とはなにか」です。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスの具象主義と、それを批判したドイツの哲学者ニーチェの考えをご紹介する予定です。
詳細は、9月にカフェフィロのHPやメールマガジンでご紹介します。

8月27日(火)の哲学教室「政府がなかったらどうなってしまうのか」も、まだ残席がございます。(いつもこの時期には定員分は埋まっているのですが、政治系のテーマって人気がないのかしら?)
人間の本質は「万人の万人に対する闘争」か否か、人間が社会で共生するにはどうすればいいのか、みなさんと対話を通して考えます。
参加をご希望の方は、お早めにさする庵までお申し込みください。

●お申し込み
info★mild-square.com(★を@に置き換えてご送信ください。)まで、お名前とご連絡先を記入してお申し込みください。(件名:「8/27哲学教室参加希望」)


2013/08/23

9/8 りんごの木講演会@新大阪

こんにちは、まつかわです。
春に、中之島哲学コレージュ「お産を考える」にお招きした千田満佐子さんより、講演会のお知らせが届きました。
5月の講演会の際も、コレージュの参加者の方も来てくださったとのこと。
ご関心のある方はどうぞご参加ください。


「お産を考える」の続編も、またやりたいと考えています。
前回のオープンミーティングでのみなさんの声をふまえて、今度はじっくり企画を練るつもり。あまり焦らず、お待ちください。

2013/08/18

9/22 むこのそう哲学カフェ「シリーズ〜考えるを考える(第2回)」

こんにちは、まつかわです。
賛助会員の赤井さんより、むこのそう哲学カフェ、次回開催のお知らせが届きました。


こちらのサイトに過去の開催報告や、次回のお知らせ、それから「英語で話そう哲学カフェ」のお知らせもあります。
参加しようか迷っている方、どうぞ一度覗いてみてください。

2013/08/15

8/24 小金井哲学カフェ「死刑について」

こんにちは、まつかわです。
小金井哲学カフェより、次回開催のお知らせが届きました。


日時:8/24(土)18:00-20:00

テーマ:「死刑について」

死刑制度は、賛成論者と反対論者の意見が鋭く対立しています。
非常に重要な議論ですが、選挙の争点になることもなければ日常会話に出てくることもほとんありません。

今回は、死刑制度の是非だけではなく、死刑制度論争に対する考え方についても話し合いたいと思います。

場所:カフェ broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)

主催:小金井哲学カフェ 進行:花野


そういえば、このテーマ、私もいつかやりたいと思っていたのでした。
でも、これは進行としてより、参加者として参加してみたいと思って、未だ実現せず。
参加できる方がうらやましいです。

参加をご希望の方は、小金井哲学カフェのサイトのこちらのページからお申し込みください。


8/17 京都ボランティア協会主催哲学カフェ@ひと・まち交流館

こんにちは、まつかわです。
昨日に引き続き、賛助会員の山本さんから。
京都ボランティア協会主催の哲学カフェのご案内です。


■テーマ:当日決めます
■会場:ひと・まち交流館 京都1F 京都ボランティア協会
  ボランティアビューロー
■日時:8/17(土)14:00~15:30
■参加費:300円(ドリンク付)
■定員:15名
■アクセス:http://www.kyoto-v.jp/acsess.html
■申込
(社)京都ボランティア協会
FAX: 075-354-8715
TEL: 075-354-8714
E-mail info@kyoto-v.jp
https://www.facebook.com/events/620618547969268/

主催:京都ボランティア協会


今週末ですね。
参加をご希望の方は、お申し込みよろしくお願いいたします。

2013/08/14

8/25(日) びわこ哲学カフェ開催のお知らせ

こんにちは、まつかわです。
お盆はみなさんいかがおすごしですか?

びわこ哲学カフェより、次回開催のお知らせが届きました。


日時:8/25(日)15:00-17:00
場所:ギャルリーオー(http://gallery-o.net/  JR大津駅から徒歩9分)
テーマ:当日決めます
参加費:無料(カフェでのオーダーにご協力下さい。)
参加申し込み等詳細はHPをご覧ください。
http://biwako-philosophycafe.blogspot.jp/

主催:びわこ哲学カフェ(やまもと)



参加をご希望の方は、びわこ哲学カフェのサイトよりお申込みください。

同じ日に、岡山では、オリエント美術館との特別企画があります。
特別展「古代のガラス〜」の作品を鑑賞し、現代の私たちにも通じる「憧れと模倣」について考えるミルトーク。
こちらも、まだ残席ございます。
参加してみようかな?という方は、こちらのご案内をご覧のうえお申し込みください。

2013/08/05

8/11 リベラルアーツカフェ~静岡の教養~

こんにちは、まつかわです。
正会員の土屋陽介さんより、静岡で哲学カフェするよ〜というお知らせをいただきました。

「リベラルアーツカフェ〜静岡の教養〜」のなかの新しいシリーズで、第一弾のタイトルは『子どもの哲学 大人の科学!?』。
サイエンスカフェを実践されてる方とのコラボ企画です。


<<こんな方におすすめ>> 
□ 「子どもの哲学」や哲学カフェに興味のある方/知りたい方 
□ 「子どもの哲学」や哲学カフェを体験してみたい方 
□ 科学や教育に関心のある方 
□ 土屋陽介さんのお話を聞いてみたい方

詳細は、 「リベラルアーツカフェ〜静岡の教養〜」のこちらのページをご覧ください。


2013/08/04

報告:哲学カフェ「能力によって選挙権を制限することは許されるか?」

こんにちは、まつかわです。
先週7月28日は、岡山大学のまちなかキャンパス「城下ステーション」の哲学カフェでした。

テーマは「能力によって選挙権を制限することは許されるか」。
最初に、行政書士として障がい者の支援をされている瓜生さんが、話題提供として今年5月に改正された成年被後見人の選挙についてお話してくださいました。

また、参加者としていらしていたもう一人の行政書士の方も・・・

1)財産管理等のために成年後見人はついているけど、他の人のサポートがなくても自分で選挙に行ける人
2)意識不明などで選挙に行けない人
3)1、2どちらでもない人

・・・というふうに分類しながら、実際に現場でどんな困難があるかお話ししてくださいました。

「選挙権が与えられるだけでは、それを行使することはできない。行使するためには、それぞれ別のサポートが必要」「言語とは異なるシグナルを発しても、その人の母親にしかそれを理解できないような場合どうするか。立会人だけだと、障がい者の選挙権が阻害されてしまう恐れがある」といったリアルな指摘をもとに、以下のような論点が浮かび上がってきました。


  • 選挙に必要な能力とは何か
  • 判断能力があるとかないとか、誰が判断するの?
  • 後見人や家族が与えてしまう影響をどう考えるか
  • 権利は行使しないといけないの?
  • そもそも選挙で投票するとは、どのような行為なのか


なかでも、最も考えさせられたのは、「立会人が、選挙権行使の意志を聴き取らなくてはならないが、その聴き取り能力は問われていない」という指摘です。
投票する人の意思表示の力だけでなく、意思表示を受信する側の力も問う必要があるのではないかという意見がでました。
秘密投票を保持しながらとなると難しいとは思いますが、能力があるから選挙権が与えるというのではなく、なるべく多くの人のが選挙権を行使できるように社会的サポートが磨かれていくといいなと感じました。

ほかにも、「子どもに選挙権が認められないのはなぜ?」と考えてみたり、「女性が選挙権をもたなかった時代だったら・・・」と想像してみたり、当然のように受け取っている投票所入場券のありがたさが身にしみる一日でした。


岩淵さんが出張でお休みで、写真を撮りそびれてしまったので、今朝の朝市で撮った瓜生さんの写真を・・・右の方が瓜生さん。奥の方が、瓜生さんを紹介してくださった花野さんです。


瓜生さんたち、NPO法人地域生活総合支援センターはあとふるネットワークの方々は、こうして毎月、岡山や倉敷の朝市で無料相談会を開いているんです。



実は、今回の企画も、この朝市でお話したのがきっかけで実現しました。
いつも盛況で、相談者が途切れる瞬間を待って写真を撮らせていただきました。
ついでに、花野さんと別の企画について相談も・・・。
こちらは今度はファッション関連のテーマです。お楽しみに♪


この夏は、政治についてちょっと考えてみようと、8月に政治について考えるイベントを、もう一つ用意しています。
ホッブズとロックの思想も紹介します。
大阪の方、お仕事帰りにいかがですか?
お申し込み方法など詳しくは、カフェフィロのサイトをご覧ください。


2013/08/02

報告:哲学カフェ「市場とは何か」

三浦です。
先週の土曜日にカフェティグレで行なった哲学カフェの報告を、テーマ提案者かつ進行役の安田さんが書いてくれましたので、代理で投稿いたします。

                          *

哲学カフェ@名古屋の「経済を問い直す」シリーズも、もう第四回目を迎えました。「市場とは何か」というテーマでした。後から振り返ってみると、本シリーズのテーマ提案者として非常にショッキングな回でした。報告したいと思います。

ちょっとだけ文脈を紹介すると、このシリーズの前回(第三回)は、カール・ポランニー著『経済の文明史』を題材にした書評カフェでした。「市場社会」を生み出した現代経済のあり方を、人類史上においては特殊で、かつ病的な経済のあり方である、と論じ、そのような経済に内在する人間観への悪影響を懸念するポランニーの主張が紹介され、検討されました。

こうした流れを受け、今回の対話は、「かつてはなかった市場」探しから始まりました。例えば「労働対価」などのように、かつては市場による価格決定にかけられていなかったであろうものがいつのまにかかけられるようになった「擬制商品」(ポランニーの概念)の例として、ほかにどんなものがあるか、という問いです。いくつかの例が挙げられるうちに話は広がり、「イメージの市場」というアイデアが浮上しました。私なりにまとめると、次のようなアイデアです。

商品の市場価格は需要供給のバランスで決定される。だが、現代経済には商品本来の使用価値だけを考えると明らかに不自然な高需要と高市場価格をもつ一種の「バブル商品」が少なくない。そうした不自然な需要はその商品になんらかの方法で付加された「イメージ」に由来する。高級ブランドイメージや所有ステータス、そのほかの充足感(例:AKBがファンのCD購買に与える充足感、やりがい)など、精神的・意味的な価値、つまり自己を(他者や購買以前の自分から)差別化する価値のことである。現代の多くの小売市場は、商品の使用価値が満たす基本的需要に対して、そのような「イメージ」が満たす「高級な需要」のウエイトが極端に増大した「イメージの市場」と化している

また、イメージの市場と対称をなし、国内小売市場の動向を二極化する動きとして、価格破壊という傾向も指摘されました。そして、なぜ価格破壊は生まれたのか、なぜそれまで価格は「破壊」されなかったのか、という話から、日本経済の近年の構造変化に話題は移ってゆきました。日米構造協議 1989年)あたりから日本経済が経てきた、企業経営や流通形態における「脱・日本式」(正確には脱・戦時体制方式とでもいうべきものだそうですが、詳細略)という大きな流れのことです。具体例として、大店法改正による流通改革、企業系列の解体、かつての通産省の「護送船団方式」の廃止などが挙がりました。また、企業内労組、終身雇用、年功序列を三本柱とする、「日本型」労使関係のなし崩し的な崩壊の傾向も挙げられました。

話がこの辺に及んできたあたりで、テーマ提案者(私)が、ちょっと性急な論点整理を行いました。対話の最中にうまくことばに出来なかったので、多少言葉を補って説明させてもらうと、次のような論点整理です。

この構造変化の本質は、経済という総合的な営みのなかで相互に関係付けられ、他律的に自己同一性を確立していた私たち一人ひとりが、この関係性とつながりから切り離されて自律的な「個人」となったことではないか。(社会習慣・制度とイデオロギーの上で。)そして、それぞれに、個としての自分の「幸福」の最大化をめざす「経済的合理性」の体現者となって、「万人が万人の敵」状態に陥ってしまったことではないか

タネ明かしをすると、今回のシリーズテーマ提案者である私にとっては、そもそも本シリーズの根底に流れる裏テーマが、この、「関係性から成り立つ他律的な『人間』(ひとのあいだ)」と「独立に存在する自律的な『個人』」の対比でした。なので、「イメージの市場」の話も、価格破壊をせき止めていた「日本型経済」から価格破壊を現実にしうる「グローバル経済」(=消費者至上主義自由市場経済)への構造変化の話も、私の中では自然にここに収束してしまいました。しかし、今思えばかなり性急なまとめ方だったかもしれません。反省しています。

しかし、もっと大きな反省材料を、私は今回の哲学カフェからもらいました。とある方が、私のまとめ方に対し、冷静な反対意見を出してくれたのです。日本式の経営や流通のあり方というのは、そんな賞賛を受けるようなものではなかった。使用者(資本・経営)側が労働者側を、親会社側が子会社側を、圧倒的な立場の差を背景に、「自己の幸福」のために利用していたにすぎない、と。(つまり、利用される側の「自己の幸福」を犠牲にさせていたにすぎない、と。)

実は、当日の対話では、日本型経済における使用者側・親側というのは、それでも「生かさず殺さず」で、労働者側・子側の自由や幸福を犠牲にする代わりに安定も与えていた、のような擁護論も出ました。しかし、振り返れば、これは詭弁だったと思います。指摘から浮かび上がった問題の本質は、そこではありません。今の私の問題意識は「ないものねだり」なのではないか、ということです。

現代の社会が私たちをして自分自身を「人間」ではなく「個人」として自律同定させる社会、つまりそのような存在としてお互いのことを語り合わせ扱い合わせるような社会になりつつある、そのことを私は一方的に問題視していました。しかし・・・。私のいう「お互いを『人間』として他律同定させる社会」とは、現実には(広い意味での)身分社会という形態を取るしかないのではないか。とすれば、これにも明らかな 負の側面があったし、今もその残滓は日本社会のいたるところにありそれと戦う人たちもいる。というより、「お互いを『個人』として自律同定させる社会」とは、すなわち自由と平等を原則にする民主主義のイデオロギーに基づく社会であり、これは人類が自然科学以外の分野で生み出した数少ない不可逆な進歩のひとつではないか。これは否定すべきではないのではないか。

考えて見れば、哲学カフェの活動自体が、大きなベクトルとしては、民主主義社会の成員としての、よって「個人」としての私達の成熟を指向する活動だと思います。いえ、哲学という言語行為自体が、さらには、科学であれ歴史であれ、報道という場面であれ、「真偽について語る」という行為自体が、それに興じる主体たちをして「自律同定し合いさせ合う個人」のあつまりにする。そういう本質をもつものではないでしょうか。

私は、「個人」という現象の負の側面ばかりに目を奪われている今の自分の問題意識の持ち方の中に、現実的代替案をもちえないという瑕疵と、そうした意識を持ちそれについて語る自らの行為自体が当の問題の悪化を生むという自己矛盾を見つけたのかもしれません。あるいはそれもまた、まだ思慮がたりないゆえの混乱かもしれません。みなさんはどう思われますか。