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2011/08/31

メディカルカフェ

中岡です。下記の通りメディカルカフェの報告をさせていただきます。

日時:8月28日(日)13:30-16:30
場所:Café P/S(神戸市)
テーマ:「詩の中の死」 
主催者(藤本啓子さん)から2篇の詩(辺見庸「死者にことばをあてがえ」、宮沢賢治「永訣の朝」)を配布してもらった
司会進行役:中岡成文
参加者:8名

経過:
○進行役のイントロ 最初に今回のテーマ設定について簡単に説明しました。参加者の自己紹介とアイスブレイクを兼ねて、全員に順番に発言してもらいました。進行役としては、2つの詩において自分が惹かれる箇所はどこか、なぜ詩(や文学)が好きなのか、日常生活や職業と詩(や文学)がどのように関わっているか、詩に表現される人間の情念(とくに慟哭)をどう受けとめるか、詩は美を表現するものと思われるが、死は美しくないものであろう、そのギャップをどう捉えるか、などに関連して、自由に語ってもらおうと思ったのです。けれども、詩にはとくに関心がない、むしろ「死」について論じたいという人が参加者の半ば以上を占めることが判明しました。そこで進行役としては、無理に2篇の詩に話をつなぎとめることなく、みなさんに話を展開してもらうこと切り替えました。しかし諦めが早すぎたかもしれません。カフェオーナーの白水さんから終わりに、辺見の詩を取り上げた意味について発言が欲しかったと、苦言を呈されたのです。

○主な発言(順不同)
・死に関心がある。エンディング・ファイルを作成している。自分の母はしっかりした人で、自ら絶食して亡くなった。この2篇の死は、「非業の死」を詠ったものだろう。
・75歳になり、自分の死のことを考える。自然に死にたい。前立腺肥大になり、苦しんだ。「浜までは海女も蓑着る時雨かな」という句がある。海女(いっぱんに人)はじきに海に入る(死)としても、時雨に遭えば(病気など)陸にいる以上濡れないように蓑を着る(治療など受ける)。これは自然といえる。
・小さいころから喘息など患って、死を身近に感じていた。生きているのも死んでいるのもじつは違いはないのではないか。
・詩をよく書く。しかし、その中で死を取り上げたことがないのに気づいた。悲しみや絶望から自分をどのように救済するか(どのように言葉をあてがうのか)を考えたい。
・特別養護老人ホームで働くために、最近研修を受けた。賢治はエスペラントを学んだが、自分もそうなので親近感を持つ。
・仏教に関心がある。人は生きている限り死に出会うことはないと思う。とはいえ、独居なので孤独死が不安。
・私は詩に関心がある。「自分の死」と「目の前の他人の死」とは分けて論じてほしい。どちらについて話すのかを決めて欲しい。

この最後の発言に対して、私は、「その2つは分けられるのか。死というものは人間の想像力の中で広がっていき、他人と自分、将来と今とを融合させてしまうのではないのか」という意味のことをお答えしました。上記のとおり「非業の死」について語る人もいたのですが、どうしたって、死は現在形でそのものを経験することはできない以上、非業と受け止めるのは(その死を共有せずに生き残った)他人にすぎないとも付け加えました。

不十分ながら、報告は以上です。