ページ

2013/05/12

コミュニケーションが場所によって変わるのはなぜ?

こんにちは、まつかわです。
アタマの整理に時間がかかり遅くなりましたが、4月24日の午前中に開催した、グリーングラスの哲学カフェの報告です。(長いです。汗)

グリーングラスの哲学カフェは、様々な年代のお子さんのいるお母さん方が中心に集まっています。
「そのとき一番話したいこと、考えたいことをテーマに選びたい」ということで、毎回、参加者からテーマを募り、多数決でその日のテーマを決めます。
今回は、3つのテーマが提案されましたが、最終的に「コミュニケーションが場所によって変わるのはなぜか?」が選ばれました。

このテーマを提案してくださった方は、最近、引っ越しをされたそうです。
前に住んでいた土地では、挨拶ついでにいろいろおしゃべりしたのだけど、引っ越し先では挨拶だけ。それはどうしてだろう?

地域によって違うのか、一戸建てとマンションのちがいなのか、それとも、田舎と都会のちがいなのか。「TPOによってコミュニケーションが変わるのは当然」、「場所ではなく、相手によっても変わる」、「そもそも挨拶はコミュニケーションには含まれない。コミュニケーションはもっと深いものだと思う」などなど、様々な方向から意見が飛び交います。



そんな中、議論の流れをぐっと引き寄せたのは、こんな一言でした。
「マンションは、親しくなろうと思えばいくらでも親しくなれる。だから、マンションに住む人は、わざと意識的に距離を置くようにしてんねん。そうしないと、自分の暮らしやプライバシーを守れないから」
これまで、グリグラでも何度か「コミュニケーション」をテーマに話し合ってきましたが、「どうしたら理解できるのか、理解してもらえるのか」といった問題が中心で、どちらかというと「コミュニケーションは深ければ深いほどいい」という前提で話し合うことが多かったような気がします。
しかし、「自覚的に距離を置く」「自分を守る」ことをポジティブに評価しながらコミュニケーションや挨拶を振り返ってみると、また、ちがった側面がみえてきます。

たとえば、道を尋ねるとき、どんな人に声をかけるか?
子ども連れの人、犬を連れている人に話しかけやすいのはなぜか?
反対に、どんな場合には声をかけないようにしているか?
挨拶だけにとどめるか、天気の話題なろプラスαにとどめるか、それともそれ以上つっこんだ会話をするか?
引っ越しの挨拶をする場合としない場合とのちがいは?

私たち大人はこれらの判断を、ほとんど無意識のうちに瞬時に行っています。が、いざ、子どもにそれを言葉で教えようとするとうまく説明できない。場所、時間、相手の外見や様子、自分の外見や立場、その人との関係・・・それらのどれかを切り取ってきて判断するわけにいかないし、それらの組み合わせで判断するにせよそのパターンはいちいち言語化できるほどシンプルでもない。
そこから、私たちがこうした他者との距離の置き方を「経験によって少しずつ学んできた」ことがわかります。新しい環境のなかでは、また新しく学び直さなければいけないものなのかもしれません。

最初に、テーマを提案してくださった方が、「私という人間は全く変わっていないのに、場所が変わっただけでコミュニケーションが変わるのって不思議」と言ってくれたとき、私は、「今回は、コミュニケーション能力云々とはちがった角度から、コミュニケーションについて考えられるかもしれない」と期待しました。
その期待は半分当たったけれど、半分はずれました。
結局、最後に明らかになった、適切な距離感を判断する能力は、一種のコミュニケーション能力のようにも思えます。その一方で、コミュニケーションはいつでもどこでも深ければ深いほどいいというわけではない、という意味では、巷にあふれる「コミュニケーション力のつけ方」とは異なる角度から、コミュニケーションの力について考えることができました。

そういう意味で、途中、Yさんが展開した、“おばちゃん”論も面白かったなぁ。
Yさんによれば、“おばちゃん”とは、ある年齢層の女性を指す言葉ではないのです。近所の人に声をかけようとおもっても、「迷惑なんじゃないか」「しんどくてそんな気分じゃないかも」と考えているうちに、声をかけそびれてしまう、そういう人は“おばちゃん”ではない。“おばちゃん”とは、全く知らない人にも躊躇なく話しかけたり“アメちゃん”を配ったり、そうやって(ときに図々しく)一気に相手との距離を縮められる人のことを指すのだと。

だとすると、私が住んでいる岡山には、シャイな“おばさん”ばかりで、ほとんど“おばちゃん”はいないことになるのですが、あなたの地域はいかがでしょうか?


次回、グリーングラスの哲学カフェは、来週、5月12日(火)10:30からです。
土日や平日夜の哲学カフェになかなか参加できないという方、ちょうどその日は空いてるわという方、どうぞ気軽にご参加ください。
私が知る限り、最も日常生活に近いリアルな哲学が展開される場所です。