こんにちは、まつかわです。
今日はグリーングラスの哲学カフェがありましたが、その前に、5月12日に岡山で開催した哲学カフェのご報告を・・・。
今回は、10名の方が参加してくださいました。
おひとり、途中で「仕事でぬけまーす」と言って、最後にまたおやつを持って戻ってきてくださいました。うれしい。途中入退場自由、それが哲学カフェのいいところです。
テーマは「愚痴を言うのは悪いこと?」。
まずは、テーマを提案してくれた岡山大学の岩淵さんに、このテーマを提案した理由をききます。
「愚痴を言ってはいけないとして教育されてきた。 けど、ぽろっと言ってしまう。 愚痴がない社会はありうるのか。 ポジティブな面もあるんじゃないか。 みんなは愚痴はどのように付き合っているの?」
すると、こんな意見がでてきました。
- よい愚痴もあれば、悪い愚痴もある。改善につながる愚痴はいいけれど、不満や悪口を通して人とつながるのはイヤ。
- ぽろっとでた愚痴は本音だと思う。愚痴は本音をきける機会。
- 愚痴は、解決を求めていないのではないか。
- 違和感を言葉にしながら、確認する。
- 安心して愚痴を言える場所があることが大事。
なかでも私にとって新鮮だったのは、「ちゃんと愚痴になるように気をつけている」という言葉。
「ちゃんと愚痴になるように」。
その方は、自分の言葉が、その場の言葉のやりとりだけで蒸発するように消え、現実に影響を及ぼさないことを、静かに、でも力強く肯定しました。
なるほど確かに、愚痴は愚痴として受け止められること、つまり聞き流してもらえることが重要で、愚痴だと思って言った言葉によって現実が変わっちゃったら、恐いような気がする。
「愚痴を言い合って共感する人が集まって、それが農民の一揆のように現実を変える力になることもある」という方向から愚痴をポジティブに捉える意見もありましたが、それだけだと、愚痴の愚痴たるよさを捉えきれていない気がする。
- 最終的に改善や解決につながらない愚痴にも意義があるとしたら、それは何か?
- なぜ「提案」という形じゃなく、「愚痴」なのか?
- なぜ「一揆」の前に、愚痴を言い合う段階が必要なのか?
何度も何度も愚痴とは別の何かによって愚痴を肯定しようとする流れに流されそうになりながらも、しつこく食い下がりました。
そして、愚痴と愚痴でないものの区別を探るうちに、すこしずつわかってきたことがありました。
- 愚痴を言ってる段階では、現実を変えるために労力を割く気はない。でも、『あわよくば』という気持ちはある
- いきなりSOS出すのはハードルが高いし、受け止めるほうも重い。
つまり、愚痴というのは、(もしそれがちゃんと愚痴になっていれば)言う方も聞く方も負担が少なく、現状や危険の確認したり共有したりできる行為なのではないかということです。
あらゆる問題について、優先順位も決めずに手当たり次第に手をつけていたら身がもたない。そんな現実のなかでは、いきなり問題に着手するのではなく、まずは愚痴をこぼし合いながら、誰かと問題を共有したり、確認したり、信頼関係を築いたりすることが重要なのではないか。たとえば学校のなかにも、子どもの愚痴をきいてくれる人がいてくれたらいいね。そんな話をして、この日のカフェを終えました。
絶妙なタイミングで絶妙な体験談を話してくれる人、
それまでの発言をふまえてシンプルな仮説を出してくれる人、
なんとなく感じている迷いを大げさにでもなく卑下するわけでもなく等身大の言葉に置き換えてくれる人。
この日は、本当にひとりひとりの意見や語り方のちがい、それぞれのその人らしさがうまく組み合わさって、単に意見を交換するだけでなく、全員で一緒に考えるということができたように感じました。
岡山で哲学カフェをはじめて約半年。私も、関西風のツッコミに頼らない語りに慣れてきたのかもしれません。
会場の城下ステーションへ向かう途中でみかけたスワンボート。 後楽園の近所です。 |