本日2回目の投稿です。
来週25日は、グリーングラスの哲学カフェです。
その前に、前回5月14日の報告をしておきましょう。
(バタバタしていて、ずいぶん遅くなってしまいました。汗)
参加者は8名。
「専業主婦は寄生中か」「復興のシンボルは必要か?」など参加者から5つのテーマが提案され、「話すってどういうこと?」が選ばれました。
いや〜、むずかしかった。
いつもに比べて発言に勢いがなかった(あくまでグリグラ比。他の哲学カフェよりはしゃべってます!)けれど、ひとつひとつの発言について、丁寧に考えた回でした。
何度も複数の論点を行き来したので、実際に議論された順序とは異なりますが、議論の内容を私なりにまとめてみます。
テーマを提案してくださったのは、久しぶりに哲学カフェに参加されたMさん。
グリーングラスで哲学カフェをはじめた当初は赤ちゃんをあやしながら参加してくださっていたのですが、最近はお子さんが大きくなってお仕事をはじめられたりして、なかなか参加できず、久しぶりの参加となりました。忙しいなか久しぶりに哲学カフェに来た理由を「話したくて」とおっしゃっていました。
問い
「メールしたり、仕事の話しや家族の話はしてるけど、それとはちがう『話したい』っていう気持ちがある。この『話したい』っていうときの『話す』ってどういうことなんだろう?」答え1:共通の話題?
「家族の話をきくのも、主婦の仕事?」という疑問から、「ペット、音楽、TVなど共通の話題があると、家族と話すのも楽しいんだけど・・・」という声がでました。ということは、普段の家庭生活では、共通の話題でなくても、「話をきいてあげる」必要性を感じているということでしょう。共通の話題があるから話す、ということもありますが、「誰かと話したい」という欲求を生み出すのはそれだけではなさそうです。
答え2:自分の存在を認めてほしい?
「話したいのは、共感してほしいからでは?」という発言について、ああでもないこうでもないと話し合うなかで、特に共感を集めたのは、「自分の思ってることを認めてほしい、自分の存在を認めてほしいという気持ちがある」という意見でした。一方で、「共感だけでなく、叱咤激励して欲しい人もいる」と話す人が聞き手に求めることを察することの難しさを指摘する声もありました。
また、「自分の思ってることを認められるということと、自分の存在がみとられるということは同じでしょうか?」と問いかけたところ、「同じ」という意見と「ちがう」(自分の意見が認められなかったからといって、自分の存在が認められていないとは限らない)という意見がありました。
さらに、この論点を検討する過程で、もうひとつ、問いがでてきました。
「話さないとわかり合えないから話すけれど、いくら話し手もわかり合えないこともある。でも、わかり合えないからといって話すのをやめようとはおもわないのはどうしてだろう?」
答え3:口や舌を使うから?
「どうして話すとスッキリするの?」という疑問に対して、「舌と口を使うから」と「話す」ということの身体的な要素を指摘してくれる参加者もいました。これに対して、「メールやSNSでのやりとりは、話したことにならないの?」と尋ねたところ、あちこちから「メールでは表情や声がわからない」「メールやSNSは代用品にすぎない」という答えが返ってきました。
声や表情を感じることも含めて「話す」という行為が成り立つということでしょう。
実は、こうして3つの論点としてまとめられると気づいたのは、哲学カフェが終わったあとです。スッキリ答えがでるという回ではありませんでしたが、「話す内容」、「話す関係」、「話す身体」と3つの側面から「話すってどういうこと?」について、みんなでじっくり考えることができ、終わってからもいろいろ考えさせられる回でした。
次回のグリーングラスの哲学カフェは、6月25日(火)です。
時間や場所など詳細については、こちらをご覧ください。
平日の夜や休日の昼はなかなか参加できない、抽象的な議論ではなく日常生活に根付いた思考を楽しみたいという方、お待ちしております。