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2013/09/13

高校で<テツガク>の授業をすること

こんにちは、まつかわです。

9月11日(水)は中之島哲学コレージュ。
兵庫県立須磨友が丘高校の藤本啓子さん(患者のウェル・リビングを考える会の代表でもあります)をお招きして、「高校で〈テツガク〉の授業をすることについて参加者のみなさんと考えました。



私はカフェマスターと進行を務めさせていただいたのですが、実は今回の企画にのったのにはある理由がありました。
以前、哲学カフェに熱心に通っている人たちに、「お子さんにもこういう機会があったらよいと思いますか?」ときいてみたところ、もちろん「あったほうがいい!」という声もあったのですが、なかには「子どもにはちょっと・・・。子どもが自分の意見を言って言うことをきかなくなった困る」という方もいたんです。
それで、いろんな方に意見をきいてみたくなりました。

とはいえ、こんなイベントのこんなテーマに参加しているくらいだから、やはり「哲学の授業、それも思想史ではなく自分で考える授業をぜひすべきだ」という意見が多かったです。
中には、進学校の国語の授業で、考える機会をなるべく設けるようにしているという先生も。

でも、なかには、「基本的には賛成だけど、哲学ってある意味“劇薬”だから、慎重に考えたほうがよい面もあるのでは」「それぞれの人に合ったタイミングというのがあるのでは」という意見もありました。
哲学をするタイミングについては、他に、「子どもと大人にの狭間の時期に、自分で考える機会があるのはよいと思う」「高校といわず、『ちいさな哲学者たち』のように幼稚園からでもいいのでは」と、意見が分かれました。

もうひとつ意見がわかれたのは、「哲学を独立の教科とするか、他の教科のなかに哲学を織り込むか」。後者の意見も素敵だけど、現代国語や現代社会、政経あたりの授業ならともかく(実際、政経の授業で人工妊娠中絶について激論を交わしたこともあり)、数学の授業で「複素数とはなにか」「微分とは何か」なんて考え始めちゃったら、大学受験なんてできなくなりそうだと思ってしまった私です。

あとから思ったのですが、こういうのは大学受験を経験しているかどうかによっても、考え方が変わるかもしれません。私の高校時代は、受験一色とはいわないまでも、受験までにノルマが終わるだろうかが大きな関心事、というよりはっきり言ってかなりのプレッシャーでした(要するに余裕でノルマをおえるほどかしこくはなかったということです)。あとからきいた話ですが、「高校時代こそ哲学をすべき」と言っていたある参加者の方は、中学、高校と受験したかわりに、大学受験はなく、かなり余裕のある高校時代を送っていたそうです。

そうした会場から出た意見を足がかりにしながら、藤本さんから投げかけられた「学校で考えるということはどういうことか」という問いについても、考えることができました。

最後にちらりと出た「どうやって評価するか?」という問題についても、いつかみなさんと一緒に考える機会があるといいなと思います。