ページ

2013/09/18

グリグラ哲学カフェ『田舎』

液晶画面からこんにちは。behbluesです。

9/10、進行役(グリグラでは見習い中)をしました。
グリグラ哲学カフェが開かれているのは、山のなかのオールド・ニュータウン北鈴蘭台。ここで今回選ばれたテーマは『田舎』です。

『田舎』と聞くと、自然の多さや、都市とのインフラの違い(汲取便所とか)が浮かびます。
そのすぐ思いつく『自然』について、開始すぐに
「ただ自然があるだけではなくて、そこで人が暮らしていないと『田舎』とは言えないよね。」と一歩深めた意見がでて、確かにそうだ!とはっとしました。

農村部へ嫁がれた参加者のお一人が、
たとえば参加絶対の町内会活動や、子どもの遊ぶ時間・場所についてのその地独自のルールなどでうけたカルチャーショックをお話ししてくれながら、
「『田舎』が何か分からなくなってきた…」とポツリ。
このつぶやきから、たくさんの声がひろがります。

論点はおもに、「歴史を持つ」ことに由来する独特の人間関係の濃さ
(個人単位ではなくかならずイエを背負うということなど)にありました。
そこから、選択肢の少なさにも目が向きます。
『田舎』では
「厭だ、でも、別の選択肢が、その選択肢を選ばないという選択肢が、そもそもない。」
という状況が、いまも、たとえその人が10代だとしても、現にあるということです。

わたしが面白かったのは、
「そのような『田舎』を苦しいと思い、今は自由に暮らしているけれど、
自分のDNAとしては『田舎』を組み込んでしまっているために、今に対して混乱している」
という意見。
DNA=意志でどうこうできるものとは別物 として、自分のなかに『田舎』があるというのは、
わたし自身にその実感はないけれど、なんだかリアルなものでした。
また、いまは空間的な『田舎/都市』というちがいが、
ある年代の人にとっては時間的な変化として感じ取られているものであるということにも改めて気づきました。

全体として、『田舎』の苦しさが語られながら、
しかし『田舎』を否定することもまた苦しい、という葛藤からうまれたような意見がたくさん出ていました。

『都市』での暮らしが語られたとき、今回はあまり丁寧に話を聞けませんでした。
『都市』の成り立ちにはたしかに『田舎』の否定が含まれていますが、
成立期をとうに過ぎた現在の『都市』は、
今回の葛藤のキーとなるような、「否定するのではなく選択肢をふやす」という可能性をもったものかもしれません。
またあらためて、現代の、現在の、『都市』についても考えられたらいいなと思います。


今回の哲学カフェを終えて、
「じぶんには無いと思っていたはずの選択肢が、実はあったのかもしれないと後で気づくしんどさ」
「じぶんが、選択してきたのだということを自覚してしまうしんどさ」
などに思いを馳せました。
そのしんどさに、向き合うというよりは、居直ってふてぶてしく付き合っていけるようになるのが、わたしの目標です。

読んでくださってありがとうございます。
それでは、液晶画面からごきげんよう。