2014年1月25日、名古屋伏見のカフェ・ティグレにて、「偉人」とは誰かをテーマとする哲学カフェが催されました。参加者は、十数名。哲学カフェをするには良い加減の人数でした。
まずは冒頭、「「偉人」の定義とは何か」という問いから口火が切られました。そこから、“世のため人のためになることをやった人”が「偉人」と一般には呼ばれているけれど、誰を「偉人」と呼ぶかは、“誰にとって”という視点なしには語りえない、という指摘が出されました。たとえば、私にとっての「偉人」やあなたにとっての「偉人」というのは比較的特定しやすいのに、社会や国家にとっての「偉人」ということになると、とたんに特定が難しくなります。ある国の「偉人」は、別の国では大悪人かもしれません。そう考えると、同じ人物が複数の人に「偉人」と呼ばれるのはそれほど簡単なことではないと思われます。この筋の議論は、その後、「偉人」の社会的機能をめぐる一つの論争系を形成することとなりました。
「偉人」と呼ばれる人物を特定するのが困難だとすれば、「偉人」と呼ばれるための共通の条件はありうるのでしょうか。この問いに対して、「個人的な思想を貫く姿勢を見せた」、「たくさんの人を助けた」、「前人未到のことを成し遂げた」といった条件が挙げられました。ここから、「偉人」の条件についての具体的な見解が参加者相互で微妙に異なっていることが露になり、「偉人」の評価基準をめぐるもう一つの論争系が形成されることになりました。
こうして対話は、二つの論争系を行きつ戻りつしながら、人格を評価するとはいかなることかという哲学的な問いへと導かれて行きました。進行役として私が整理しえた論点のみを論争系別に分けて、以下に示しておきます。
(論争系1)「偉人」の評価基準:
論点A:「偉人」の「偉さ」は、人に限定される属性なのか否か。
論点B:「偉さ」の評価軸は複数ある。たとえば、マザー・テレサとベートーベンでは、異なる軸でその「偉さ」が評価されている。
論点C:「偉さ」の評価基準には、時代的な相対性と地域的な相対性があるが、そのブレ易さには差がある。たとえば、政治に関わる「偉さ」はブレ易いが、芸術に関わる「偉さ」はブレにくい。
論点D:「偉さ」の評価が向けられる対象は、一つ一つの行為なのか、あるいは、一人の人間の全人格なのか。通常誰かが「偉人」と呼ばれる場合、それはその人の全人格に向けられた評価である。・・・(仮説)個々の行為に注目すると相対的な有益性に左右されがちになるので、全人格に目を向けるのではないか。
論点E:お金をもっていること自体は、「偉さ」を形成するか。
(論争系2)「偉人」の社会的機能:
論点F:現代において「偉人」は可能か。現代の子どもたちにとっては、「偉大」ということ自体が不明確に感じられているのではないか。
論点G:「偉人」という偶像を生み出すメディアの変化による影響が大きいのではないか。
・ ウェブ社会では、一人の「偉人」は生み出されない。むしろ、誰もが自分こそ「偉人」と思うことができる。
・ マスメディアにおいても、『プロジェクトX』のように、「偉人」よりむしろ、「偉業」を成し遂げた“普通の人”が称揚される時代。・・・(仮説)経済的格差の捉えられ方、個人のかけがえなさの捉えられ方などの変化に対応しているのかも。
→論点H:「偉人」の存在と、個人のかけがえなさの積極的肯定は、両立しうるのか。・・・かけがえなき個人としての個々人の責任の重責化。
論点I:「偉人」がいない社会はありうるのか。
→論点J:「偉人」の実在論/反実在論。
・ 社会の共有価値による方向づけを受けながらも、最終的には個人による自由な選択によって誰が「偉人」かが特定される。
・ どんな人にとっても共通の「偉人」というものはありえないのか。・・・そのような共通の性質があるとすれば、誰もが共通に必要とするものであり、誰もがなしうるものでしかありえないだろうから、希少性がなく、「偉人」の「偉人」たる価値がなくなってしまう。
レビュワー:奥田太郎
この日の参加者は14名。 徐々に名古屋でも哲学カフェの土壌が形成されつつあります。 |