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2014/04/14

報告:哲学カフェ「人は何に芸術性を感じるのか?」

三浦です。先月22日に行なわれた哲学カフェの報告を、高木美歩さん(南山大学総合政策学部 哲学ゼミ所属)に書いていただきましたので、代理で投稿いたします。

知人から哲学カフェという存在があることは聞いて知っていましたがどのように運営されているのかはわからず、どきどきしつつ初参加させていただきました。当日は駅から近い喫茶店に、大学生からご年配の方まで様々な方が集まっていましたが、皆さん哲学という共通点で結ばれているということが面白いと感じました(哲学を学んでいますが、非常にマイナーという印象があります…)。
今回のテーマは「人は何に芸術性を感じるのか?」。安田さんの進行で話し合いが始まりましたが、すぐに「芸術」という言葉の含む対象の広さ、そして各参加者の方の持つイメージの多さに気づかされました。また色々なバックボーンを持った参加者の方のお蔭で、伝統的な手法などを学習した上で実践されるもの(技術の洗練)と技法などによらず個人の発想や意志を表現すること(自己表現)という「権威」と「個人」という軸、また所謂芸術作品や伝統芸術などが脈々と残る傍ら、制作されても残らずに消えていくものの存在から、芸術になるまでには時空のスクリーミングが必要という解釈が提示されました。これは良いものは長く残るという発想ですが、他方で演奏などの即興芸術やどんなに制作者の意図を熟知している人間でも完全な再現は不可能であるというライブ感という二つの軸も対立していたように感じます(例えば、演奏会を録音したCDとは?)。そしてもう一つ、作品の価値は制作者の意図とは別に鑑賞者によって決められるという可能性です。作品は制作者の意識の表現ですが同時に誰かに見られる存在でもあるという指摘もあり(道具と芸術品の違いとは?)、付随して金銭的な評価をどう考えるべきかという議論も盛んだった印象です。
この芸術性と相対する際に発生する評価軸を考える上で、個人的にジョン・ケージの4:33やマルセル・デュシャンのは私たち鑑賞者と制作者、権威と発想の軸を示唆する良い題材だと感じました。
また、今回のテーマが芸術性であって芸術ではないことについても、最初にもう少し丁寧に言葉の整理をすべきだったのかもしれません。ただ終盤に出てきた「芸術性は多くの作品が少なからず持っているが、芸術になるかどうかは洗練が必要ではないか」という指摘は、暫定的なまとめになるのではないかと思います。
盛り上がってきたところで時間切れとなってしまいすっきりした終わりとはなりませんでしたが、芸術経験や関心のある方ない方様々いる中で、皆さんがそれぞれの立場から活発に発言されていたことが、私たちが生活の中で芸術に対して何らかの関心を持っているという表れのように思いました。
また今回のディスカッションを通して、これから「芸術」と向き合う際には自分が何に「芸術性」を感じているのかということをより深く考えつつ味わう、良いきっかけになったと感じます。このように、そのままでは漠然としている自分の価値観が、話し合いや他の人の意見によって整理されていくのは、哲学の面白さであり快感ではないでしょうか。また、集まった参加者がリラックスしつつも一つのテーマについて真剣に知恵を巡らせるというのもなんとも言えない充実感があると思います。
哲学カフェでは普段学生をしていると接する機会のない年齢や職業の方々と初めてお会いしましたが、会話が弾み、楽しい時間を過ごすことが出来ました。議論の最中も聞きなれない専門用語が飛び交うわけでもなく、生活の中で感じていることを立ち止まって論理的に考えてみようという頭の体操になる時間ですので、まさにカフェに立ち寄る気分で参加できます。普段何かと「気難しい・おカタい・ややこしい」イメージを持たれがちな哲学を学ぶ人間の一人として、哲学カフェを通じて気軽に哲学に親しんでもらえるととても嬉しいと思います。私自身、新しい発見の為にもこれからも参加していきたいです。ご一緒してくださった皆様、ありがとうございました。
 
2013年の4月から開始したティグレでの哲学カフェも
早いもので丸一年がたちました。
 
就職活動の真っただ中でお忙しいなか、南山の学生さんということで教員の奥田さんに「報告書いて!」とムチャ振りされ、それを快く引き受けてくださった高木さんに感謝申し上げます。
高木さんも最後に書かれていますが、老若男女が集まる哲学カフェの場は、学生の方々にとって「学校のなかでは接する機会の少ない大人たち」と言葉を交わせる貴重な機会だと思います。学校の先生からよりも多くのことが学べるかもしれませんよ。