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2014/05/29

身近な人を葬送するために何が必要ですか?

こんにちは、まつかわです。
本日2度目の投稿です。
テツドク!に行く前に、大急ぎで昨日の報告をあげておきます。

昨日は、京阪なにわ橋駅内のアートエリアB1にて、中之島哲学コレージュ「身近な人を葬送するために何が必要ですか?」を開催。63名の方が参加してくださいました。

ゲストの浜渦辰二(大阪大学大学院文学研究科教授)さんより家族葬や散骨の体験や様々な葬送のあり方についてうかがい、家族や自分はどんな葬送を望んでいるか、ないと違和感を感じるものはなにかを話し合いながら、葬送をめぐる関係性や家族のあり方、宗教的なものの意味などについて考えました。

途中、浜渦さんの「どんな葬送が望ましいかは、関係性によって様々」というお話をきいて、私は「母はお葬式なんてしたくないししてほしくもないと言い、父は残された人たちが気持ちの整理をするためのプロセスとして葬儀が必要と言う。同じ家族内で意見がちがってどうしよう」というモヤモヤを吐露してしまいました。

でも後半、様々なお話をきくうちに、母が「お葬式なんていらない」というときの「お葬式」とはどんなものを指しているのか、確認しておく必要があるなと思いました。
たとえば浜渦さんがされたような棺とお花だけの家族葬ならそれほど抵抗がないかもしれないし、もしかしたら大好きな薔薇の花に囲まれた家族葬ならうれしいかもしれない。
そう考えたそばから、もう一方で「自分の葬儀や埋葬が100%希望どおりというのも、なんだか違和感があるなぁ。少しは自分の好みとはちがう儀礼的(あるいは宗教的?)な部分もあってほしいような気もする。」なんて思いはじめたり。

また、若い人の葬儀についても、若年性がんで亡くなった友人の葬儀を思いだしながら「もしあの友人の葬儀がなにもかもあの友人の好みどおりだったら、『彼女は死の覚悟をしていたのか』とよけいに悲しくなったかもしれない」と考えたりもしました。

子どもを産む予定がない私としては、おひとりさまの葬送というのも気になります。
まだまだ考え足りないので、また葬送をめぐる企画をできれば。

浜渦さん、ご参加くださったみなさん、急遽会場スタッフをしてくださった学生さん、ありがとうございました。

5月31日に浜渦さんが司会をされる『シンポジウム 超高齢者社会のなかで葬送を考える』については、こちらをご覧ください。

また、来月の中之島哲学コレージュでは、『100万回生きたねこ』を題材に、死について考えます。詳細はこちらをご覧ください。