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2011/12/21

エリトア哲学カフェ「アートを学ぶということは?」

こんにちは
カフェフィロの井尻です。

12月18日(日)に、東京・高円寺のカフェ アンリ・ファーブルにて哲学カフェを開催しました。
今回は、フリーペーパー「エリトア」第3号発行記念イベントとしての哲学カフェ。
なので、テーマは第3号の特集と連動した、「アートを学ぶということとは?」でした。



「アートを学ぶということ」と聞いて、何を考えますか?という問いかけに対し、
最初に挙がったのは、「図工の時間」。
それは、学校で、先生が教えてくれて。でも、こどもの学びって、本当はもっと、自然発生的なものなのでは?という意見から、「<学ぶ>と<教わる>」、「学習」、「<学ぶ>と<習う>」といったことについて話がすすみました。

<学ぶ>と<習う>は違うよね?
でも、その違いってなに?
<習う>ではなくて<倣う>だと、どうなんだろう?
習うこと/倣うことはできても、学ぶことはできないのでは?
いや、<習う>や<倣う>は、<学ぶ>の前段階であり、その一部なのでは?
「自主性」や「受け身」といった語がキーワードとなり、それぞれが、<学ぶ>という語に対して持っているイメージが、だんだんはっきりしてきたところで、
「アートを学ぶことはできないのでは?」という意見。そこから、

「アート」ってなに?
どんなときに『アートだ』と感じる?
アート=アートする(表現する)だと思っていたけれど、アート=美術史的な知識、技法と捉えることもできるよね?
<アートする>ことは学べないのでは?
<アートする>って表現する、つまり、キャンバス上に線をひいたり、色を塗ったりすることだけ?
展覧会に行って、「あっ」て思う、それも<アートしている>ことになるのでは?
予想を超えるものに出会うと、感動する。その、予想を超えた感動を与えてくれるものが「アート」かもしれない。
じゃあ、「感動する」ことは、教えられないから、学べないよね。
いや、教えられないけど、学べるんじゃない?

といった意見が出て

もういちど「学ぶとはどういうことか」「アート/アートするってどういうことか」を、参加者のみなさんに、体験談を交えつつ話していただきました。

そこで印象的だったのは、発言者の方々が「消化して」「腑に落ちる」「咀嚼する」といった身体感覚を伴う言葉を使われていたこと。

また、どちらも、そのような身体感覚を伴って、何かを発見し、納得する行為であるという点で、「アート/アートする」ということと、「学ぶ」ということは、その経験として近しいのではないかという意見も出ました。

また、「アート」も「学び」も、その行為のなかで私たちは、自分の価値観に気づいていく、はっきりさせていくのではないかといった発言もありました。

参加者14人、大きくテーブルを囲んで、じっくり話した2時間でした。



今回、会場の都合上、事前申し込み制とさせていただいたのですが、すぐに定員いっぱいになってしまいました。ご参加いただけなかったみなさま、申し訳ありません。

エリトア哲学カフェ、今後も継続して開催していく予定です。
どうぞよろしくお願いします。

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