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2012/08/25

了 8.19 哲学カフェ『どうしておばけはこわいのか?』

液晶画面からこんにちは。進行役をしていたbehbluesです。
お元気ですか。わたしはちょっと咳をしながら元気にしています。おばけくんも、床とかに転がって元気にしています、まだ成仏していません。
このあいだのカフェのこと、反芻しては、うれしいきもちで考えています。
来てくださったかた!興味をもってくださったかた。ほんとうにありがとうございます。

あの日の振り返りというより、もうすこしぼわんとした話になりますが、
いただいていたアンケートを読んだり、思い返したりして、
いま考えていることをいくつかかきます。


▲話のはやさについて
論点がつぎつぎ移っていって、考えるスピードが追いつかなくてしんどかったかたへ。
たしかに、少し早すぎたようにいま思います。
早いまま、最後までいってしまってごめんなさい。
たとえば、おばけくんを、発言するためだけじゃなく、
ちょっとゆっくり考えるためにも受けとっていい、ということにして、
はじめにそうやって説明していればよかったかもしれないし、
それから、わたしが途中でもうすこし合の手をいれたりすることで、
ひと呼吸おく場面をたくさん作ったらよかったです。
きっと今後にいかします。

これは、つぎの▲の話にも繋がるのですが、わたし、いままで中之島の哲学カフェ、
参加してみて、なかなか集中できずしんどいことけっこうあったんです。
それは、早すぎて、多すぎて。
それやのに、おばけ回、ああ今早くなってる、ゆっくりしよう、って、気づけなかった。
それぞれのかたの話を集中して夢中に聴いて(聴けて)いたのです。
今までと違って、どうして集中できたんかなって考えてて、それは、
今回はじぶんのなかに問いに対する仮説みたいなんがあったから
というのが結構大きいかもしれない、って思いました。


▲じぶんのなかの仮説
今回、わたしは、『おばけは必ずわたしの存在を認識していて、それが怖いんじゃないかな』という仮説をもっていました。
それは、すごくほんのりしていて、
ひとの話を聴いて考えていくなかで
いつでもすぐにどんどん
変わったりくっついたり削ぎ落ちていったりする、ちょうどよいものでした。
逆にいうと、こういうほんのりしたなにかが、
たとえ途中から少しずつでも持てたら、
しんどさの元になってしまう『早さ、多さ』のうちの
『多さ』はずいぶん楽になるんじゃないか?!という、
自分的には革命的な気づきがありました。

ほんとうに、説明が苦手すぎて、
分かっていただけるように書けてる自信がないのですが、
仮説ができると哲学カフェはもっと楽しくなる、
という仮説をもった、というお話です。


▲わたしが、哲学カフェで、だいじやなってやっぱり思うこと
開始時にいったことと同じこともあるけれど、
今回の哲学カフェをおえて、わたしなりに、
(中之島の)哲学カフェでだいじやなっておもったのは、

・できるだけ、進行役、ではなく、
そこにいる人々にむかって(からだの向き、視線etc...)話すこと。
そしたら、いま、自分の話長くなりすぎてるかもとか、
みんな知ってるかと思ったけどこの具体例をご存じない方もいそうだとか、
誰がいまわたしの話していることにぴん!ときてくれていそうかとかに、
気づけるかもしれないから。

・『わたし』からはじまる感じを大切にするということ。
『○○とは〜〜だ』という感じのお話よりも、
せっかくその場に、からだをもって居て下さることが、活きてくるように思うから。

・その日のテーマをあたまのなかに泳がせておくこと。
『テーマからはちょっとそれちゃうけど考えついたおもしろいこと』も、
ほんとうにとってもおもしろいし、大切なのですが、
時間には制限があるから。
そういう、テーマからちょっとそれるけどおもしろいこと、は、
もしよかったら、ここのコメントやアンケートで、教えてください。
たのしみにしています。



対話からも、いただいたアンケートからも、もっといろいろからも、
ずっとぼちぼち考え続けるので、
きっといつかまたなにか書きます。
ほんとうに、ありがとうございました。
それでは、液晶画面からごきげんよう。