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2013/08/02

報告:哲学カフェ「市場とは何か」

三浦です。
先週の土曜日にカフェティグレで行なった哲学カフェの報告を、テーマ提案者かつ進行役の安田さんが書いてくれましたので、代理で投稿いたします。

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哲学カフェ@名古屋の「経済を問い直す」シリーズも、もう第四回目を迎えました。「市場とは何か」というテーマでした。後から振り返ってみると、本シリーズのテーマ提案者として非常にショッキングな回でした。報告したいと思います。

ちょっとだけ文脈を紹介すると、このシリーズの前回(第三回)は、カール・ポランニー著『経済の文明史』を題材にした書評カフェでした。「市場社会」を生み出した現代経済のあり方を、人類史上においては特殊で、かつ病的な経済のあり方である、と論じ、そのような経済に内在する人間観への悪影響を懸念するポランニーの主張が紹介され、検討されました。

こうした流れを受け、今回の対話は、「かつてはなかった市場」探しから始まりました。例えば「労働対価」などのように、かつては市場による価格決定にかけられていなかったであろうものがいつのまにかかけられるようになった「擬制商品」(ポランニーの概念)の例として、ほかにどんなものがあるか、という問いです。いくつかの例が挙げられるうちに話は広がり、「イメージの市場」というアイデアが浮上しました。私なりにまとめると、次のようなアイデアです。

商品の市場価格は需要供給のバランスで決定される。だが、現代経済には商品本来の使用価値だけを考えると明らかに不自然な高需要と高市場価格をもつ一種の「バブル商品」が少なくない。そうした不自然な需要はその商品になんらかの方法で付加された「イメージ」に由来する。高級ブランドイメージや所有ステータス、そのほかの充足感(例:AKBがファンのCD購買に与える充足感、やりがい)など、精神的・意味的な価値、つまり自己を(他者や購買以前の自分から)差別化する価値のことである。現代の多くの小売市場は、商品の使用価値が満たす基本的需要に対して、そのような「イメージ」が満たす「高級な需要」のウエイトが極端に増大した「イメージの市場」と化している

また、イメージの市場と対称をなし、国内小売市場の動向を二極化する動きとして、価格破壊という傾向も指摘されました。そして、なぜ価格破壊は生まれたのか、なぜそれまで価格は「破壊」されなかったのか、という話から、日本経済の近年の構造変化に話題は移ってゆきました。日米構造協議 1989年)あたりから日本経済が経てきた、企業経営や流通形態における「脱・日本式」(正確には脱・戦時体制方式とでもいうべきものだそうですが、詳細略)という大きな流れのことです。具体例として、大店法改正による流通改革、企業系列の解体、かつての通産省の「護送船団方式」の廃止などが挙がりました。また、企業内労組、終身雇用、年功序列を三本柱とする、「日本型」労使関係のなし崩し的な崩壊の傾向も挙げられました。

話がこの辺に及んできたあたりで、テーマ提案者(私)が、ちょっと性急な論点整理を行いました。対話の最中にうまくことばに出来なかったので、多少言葉を補って説明させてもらうと、次のような論点整理です。

この構造変化の本質は、経済という総合的な営みのなかで相互に関係付けられ、他律的に自己同一性を確立していた私たち一人ひとりが、この関係性とつながりから切り離されて自律的な「個人」となったことではないか。(社会習慣・制度とイデオロギーの上で。)そして、それぞれに、個としての自分の「幸福」の最大化をめざす「経済的合理性」の体現者となって、「万人が万人の敵」状態に陥ってしまったことではないか

タネ明かしをすると、今回のシリーズテーマ提案者である私にとっては、そもそも本シリーズの根底に流れる裏テーマが、この、「関係性から成り立つ他律的な『人間』(ひとのあいだ)」と「独立に存在する自律的な『個人』」の対比でした。なので、「イメージの市場」の話も、価格破壊をせき止めていた「日本型経済」から価格破壊を現実にしうる「グローバル経済」(=消費者至上主義自由市場経済)への構造変化の話も、私の中では自然にここに収束してしまいました。しかし、今思えばかなり性急なまとめ方だったかもしれません。反省しています。

しかし、もっと大きな反省材料を、私は今回の哲学カフェからもらいました。とある方が、私のまとめ方に対し、冷静な反対意見を出してくれたのです。日本式の経営や流通のあり方というのは、そんな賞賛を受けるようなものではなかった。使用者(資本・経営)側が労働者側を、親会社側が子会社側を、圧倒的な立場の差を背景に、「自己の幸福」のために利用していたにすぎない、と。(つまり、利用される側の「自己の幸福」を犠牲にさせていたにすぎない、と。)

実は、当日の対話では、日本型経済における使用者側・親側というのは、それでも「生かさず殺さず」で、労働者側・子側の自由や幸福を犠牲にする代わりに安定も与えていた、のような擁護論も出ました。しかし、振り返れば、これは詭弁だったと思います。指摘から浮かび上がった問題の本質は、そこではありません。今の私の問題意識は「ないものねだり」なのではないか、ということです。

現代の社会が私たちをして自分自身を「人間」ではなく「個人」として自律同定させる社会、つまりそのような存在としてお互いのことを語り合わせ扱い合わせるような社会になりつつある、そのことを私は一方的に問題視していました。しかし・・・。私のいう「お互いを『人間』として他律同定させる社会」とは、現実には(広い意味での)身分社会という形態を取るしかないのではないか。とすれば、これにも明らかな 負の側面があったし、今もその残滓は日本社会のいたるところにありそれと戦う人たちもいる。というより、「お互いを『個人』として自律同定させる社会」とは、すなわち自由と平等を原則にする民主主義のイデオロギーに基づく社会であり、これは人類が自然科学以外の分野で生み出した数少ない不可逆な進歩のひとつではないか。これは否定すべきではないのではないか。

考えて見れば、哲学カフェの活動自体が、大きなベクトルとしては、民主主義社会の成員としての、よって「個人」としての私達の成熟を指向する活動だと思います。いえ、哲学という言語行為自体が、さらには、科学であれ歴史であれ、報道という場面であれ、「真偽について語る」という行為自体が、それに興じる主体たちをして「自律同定し合いさせ合う個人」のあつまりにする。そういう本質をもつものではないでしょうか。

私は、「個人」という現象の負の側面ばかりに目を奪われている今の自分の問題意識の持ち方の中に、現実的代替案をもちえないという瑕疵と、そうした意識を持ちそれについて語る自らの行為自体が当の問題の悪化を生むという自己矛盾を見つけたのかもしれません。あるいはそれもまた、まだ思慮がたりないゆえの混乱かもしれません。みなさんはどう思われますか。