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2014/03/25

アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を読む〜凡庸な悪と無思考性〜

こんにちは、まつかわです。
昨日3月24日は、久しぶりのテツドク!(哲読)。
一人の思想家の思想と言葉をどっぷり味わう2時間でした。

今回、ハンナ・アーレントを選んだのは、映画『ハンナ・アーレント』の公開に便乗してというのもあるのですが、実は私の個人的な希望でもありました。
私がアーレントの文章を初めて読んだのは、大学受験で現代国語の課題文でした。
試験中なのに、そんなことも忘れるぐらい夢中で読んで、受験が終わったあとすぐその『人間の条件』を買いました。自分で購入した最初の哲学書(?)だったかもしれません。
大学院時代に、先輩である三浦さんの研究発表をきいて再び関心をもち、その後もずっと気になる思想家だったのですが、なかなかじっくり学ぶ機会がなく・・・
今回映画のこと、それから三浦さんが別件で大阪に来ることを知り、この機会を逃すわけにはいかないと企画させていただきました。

当日は、

  1. 三浦さんによる『イェルサレムのアイヒマン』の背景とアーレントの思想の解説
  2. 三浦さんがB4一枚にまとめてくださった抜粋を読む
  3. ときおり三浦さんが解説をはさみつつ、参加者も交えて対話

という流れですすみました。

特に議論が紛糾した論点が2つありました。

ひとつめは、「アイヒマンに対するアーレントの『凡庸な悪』という評価は、当たり前のことを言ってるようにも思えるが、アーレントのすごさはどこにあるのか?」という点。
現代の私たちがきくとごくごく一般的な考え方のように思えるが、アーレントがこの文章を書いた時代にこれを書いたことがすごかったのか。それとも、現代の私たちの社会について考えるうえでも意義深い示唆がそこにあるのか。

もうひとつは、三浦さんが参考としてひっぱってきたある事件(どんな事件かは、東京のテツドク!のネタバレになるといけないので伏せておきます)と、アイヒマンが行ったことを、同じ土壌で論じることができるかどうかいう点。
アイヒマンの行為は戦争という特殊な状況だからこそ「凡庸な悪」と言えるのであって、あの事件のあの行為は「凡庸な悪」とは言えないのか。
それとも、あの事件のあの行為もまた、「無思想性(無思考性)」を強制することによって成り立つある組織(社会)が引き起こした「凡庸な悪」であり、それは私たちの身近な組織でも起こっているのか。
白熱した議論が繰り広げられ、「凡庸な悪」の存在を認めることの難しさ、悪が自分のなかにもあるかもしれないと認めることの難しさ、「悪は自分の外にある」という無思考性への誘惑の抗い難さについて考えさせられました。

他に、三浦さんは「今回はそこがメインではないので」とおしゃっていましたが、アーレントが『全体主義の起源』で論じた「全体主義」と『イェルサレムのアイヒマン』における「凡庸な悪」という概念との関係についても、個人的には興味深く、目から鱗が落ちる思いでみなさんの議論を楽しませていただきました。


名古屋からきてくださった三浦さん、さする庵の秋田さん、そして参加者のみなさん、本当にありがとうございました。
テツドク!を発案された桑原さんから引き継いで初めてのコーディネーターということで、たどたどしく、不手際な点もあったかと思います。申し訳ありませんでした。
次回から、資料は多めに用意すること!を肝に命じたいと思います。

三浦さんが解説のなかで紹介されていた他のアーレントの著作も読んでみたくなったので、また、いつか続編を企画するかもしれません。
そのときは、ぜひまた一緒に(今度は「全体主義」についてもじっくり?)、哲学書と対話を通じた思考を展開しましょう。